バルト語録②

何度かWTにも引用されているバルトですが、真理シリーズのおまけにWT信者向けに引用してほしいバルト語録(載る訳がない)を少し引用します。

『真理はわれわれと共に生きず、われわれと共に死なない。われわれが正しい時に正しいのではなく、われわれが間違っている時に間違っておらず、われわれの勝利の時に勝利せず、われわれの敗北の時に敗れない。それゆえに、真理はこんなにも強く、自分自身の生を生きる・・それゆえに、真理はゆりかごの上にも陰を落とす死であり、墓の上でも息づく生命である』

BC607年の間違いが“証明”されたら真理の負けですか。

進化論の間違いが“証明”されたら真理の勝ちですか。

人が唱える“論”や“説”のどっちが勝つか、正しいか、とは関係ない真理です。


「わたしは救いの音信を恥とはしない」(パウロ:ローマ書冒頭)

『救いの音信は、世界宗教や世界観の争いを探し出す必要も、ことさら避ける必要もない。この音信は、既知の世界を、もう一つの未知の世界によって限界づけることについての音信だから、既知の世界の内に、比較的未知な、より高い存在領域をなおも発見し、近づきやすいものとしようとするすべての試みとの競争の圏外に立っている・・それは弁護され支えられることを必要としない。この音信が、それを聞き、宣べ伝える者たちを弁護し、支える・・もし神が神でないならば、われわれは神にとって無用であり、神はわれわれを恥じるに違いないであろう・・どちらにしても、その逆ではないのである』

エホバの証人が悪く言われそうな時は、エホバの証人だと言わないがいるよね~

財布を拾ってお巡りさんに届けるときは、わざわざエホバの証人だと言うよね~

恥ずかしい、誇らしい、どちらも表裏一体。

普通、財布を拾って届けたくらいで「誇らしい」とは思わない。自賛する話でもない。

校歌を歌えない、乾杯できない、誕生日を祝えない・・親と組織に洗脳されて「誇らしい」と思うか、親と他信者の目を恐れて「恥ずかしい」と思うかの二択しかない。

どっちもさ~、普通のことだよ。誇らしいとも恥ずかしいとも感じることじゃない。

掟と要求による敬虔競争に、もれなく二点セットでついてくる優越感と罪悪感。

「要求が来た時、罪は生きはじめたが、わたしは死んだ。そして、命を目指す要求、まさにそれこそが、わたしを死に至らせることが明らかになった」(パウロ)


この世のあらゆる神が神でないのなら、にとって恥であり無用なのは自分たちだと彼は言う。

その逆ではない・・この転換は脳みそに刺激的でした。そこに生じ得る逆転現象。

「だれが神の思いを知るようになり、その助言者となったのか」・・宗教的事象の制限を根本的に知らない者が宗教の変革者になろうとすれば、必ずや劣悪な変種になるだろうと予告していた。

予言解釈を外しても、寄付を懇願しても、エホバ様は恥ずかしいとは思ってないからと言い切る、ある意味で恥も外聞もない宗教的事象を利用する、神の思いを知る代弁者たち。
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