無理がある

『こうした解釈に無理があると思える人は,問題を理解できるでしょう。人間は,聖書のどの記述が来たるべき事柄の影で,どの記述がそうでないかを知ることはできません。はっきりしているのは次の点です。ある人物,ある出来事,ある物事が別のものの予型であると聖書が教えている場合は,それを問題なく受け入れます。しかし,聖書的な根拠がない場合は,特定の人物や記述に対型があると考えることを控えるべきです』
(も塔2015年3月15日号)

聖書的根拠がないなら、何が何を、誰を表しているとか、暗示的な意味は勝手に付さないということですね。控えるべきとまで言ってますね。

でも、無理がある・・て、自分たちの1914年や奴隷の解釈を完全に棚に上げてないのか。

計算なのか、執筆部が分裂でもしているのか。

ところで、明確に書いてない限り、とだれが判断するんでしょうか。

100人が読んで100人がそう思うくらい「意見が割れない」ことじゃないですかね。

ヨナが三日三晩魚の腹にいたことはイエスの死と復活の予示していた・・

それを信じるかは全くの別問題として、聖書ではそういう予型と体型になっている、というのはだれがどう読んでも意見の割れようがない。聖書にはっきり書いてあるから。

1914年の解釈に「無理がある」と思う人はみどり子すぎて、読解力が足りないのかな。


暗示探し的な読み方は“見つけた”本人は「聖書の秘された真理だ!」と思い込みやすい。

この記事でもあったが、初期教父の時代からそのような試みはある。

何せ2000年近い歴史がある本で、一字一句しらみつぶしにされている。日本語に訳されていないだけで(需要がない)、外典や史的資料まで含めた比較文献学もかなりやり尽くされた感がある。

聖書が出回るようになったここ百数十年くらいは、年代計算、予言解釈、暗示探しに奔走する人もいて、原理主義的な読み方をする人は少なくなっているとはいえ、アメリカの福音系の人たち(広い意味でWT協会も)を中心にまだ根強い人気はある。

「まだだれも見つけていない」秘された神のメッセージを見つけたのは自分たちだと。

結局、このブログもですが、だれかが聖書のある字句を読んで「そう思った」「そう解釈した」のなら、へーそうなんですか、となるだけで、だれも反論も反証もしようがない。

自分の解釈が「真理」じゃないのなら、反証してみろ、他のどの解釈が真理なのかを提示しろ、と言われても、その人が作った土俵なので、そこにわざわざ上がり込む人もいない。

WT解釈もその1つです。自分たちが作ったワールドなのに、だれも反証できない、他に代わる真理を提示できない、というだけで唯一の真理と思い込まされるシステム。


「1914年」や「奴隷は誰?」解釈だけは棚に上げ、暗示や予型探し的な読み方はもうやめて、聖書は教訓的に読みましょうね、なんて言い出したら、もう普通のキリスト教ですよ。

カトリックや大方のプロテスタントはとっくに辿り着いているスタンスに今さら寄せてもね・・
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