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真のいのち

わたしの霊が人に対していつまでも働くことはない。彼はやはりであるからだ』

個々の朽ちる肉がいつまでも生物学的に機能し続けることもない・・「永遠のいのち」は言葉としては新約オンリー、その多くがヨハネ福音とヨハネ第一に出てくるが、そのような物質的な意味で永遠の命が使われている箇所はないようです。そもそも「いのち」や「永遠」という語彙自体が抽象的で、一律に定義できませんからね・・

キリストの肉体の復活とリアルな携挙を信じる人には叱られそうですが、朽ちるものが朽ちないものに瞬きの内に変えられる・・「カエレスティア(天界用)の体」(コリント第一15章)がある種の肉体だとしても、今の生物学的に知られている体組織とは「別の種類」(パウロ)でしょう。それが厳密に何なのか(定義)を聖書のあちこちの表現をめぐって議論することに興味はないです。



一方、時間そのものを永遠の否定とし、永遠とは時間がずっと続くことではなく、その有限性・・何時何分とか何年とか、長さやポイントを定められることの対として「人の心に置かれた」(伝道の書)もの、という抽象的な概念で使われていると考える人もいます。

その場合、真のいのちである完全な愛は、人の理屈や理解によらず、一切の恐れや疑念を排除する(ヨハネ第一)ので、その愛またいのちに移された人を、「死も生も、今あるもの=現在も、来るべきもの=未来も」(パウロ)そこから離すことはないという認知そのものが永遠です。宗教に関係なく永遠の愛を誓う男女はそれを直感的に表現しているのかもしれません。


合理性をしきりに求め、 イエスやパウロも持ち出したことがない、いくら議論しても答えなど出ない、どうだ答えられるか、答えがあるなら言ってみろと、ユダヤ知識人たちがイエスにふっかけたような瑣末な疑問難題を想定しては、真理を人間に弁証される解釈の一つというレベルに引き摺り下ろすかのような試みに対して、イエスはその土俵に上がることさえしていない。


永遠の命のことばで「死んだ者の神ではなく生きている者の神」(師よ、よくぞ言われた)を証しできたのは神のモノゲネースだけで、「史的イエス」が提唱した思想ではない・・だれが福音書を書いたのかは知らないが、その中でしか知られえない“彼”は「ことば」なので、己の考えではただの一言たりとも語っていないと、何度も何度も“言って”いる。

これが「真理に即した」ものであり、真のいのちが神と隣人を愛することに集約されるとシンプルに悟った聡明な書士に、神の王国はあなたから遠くないと“イエスは言った”。

それ以上、何かを質問する勇気は誰もなかったようです。
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