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永遠の認知

「霊によって証しされる」仕組みも分からないことのようです。

それだけでは何なので、本質的な答えではないですが、「あなた方の間に愛があれば、人々はあなた方がわたしの弟子であると知る」と“イエスは言った”。

有名なコリント第一13章にあるような、まず人の心に充満し、次いで言動に表れる愛は、その霊が実(ガラテア書)として可知化する徴であり働きです。それは他の徴を包含するので神は霊であると同じように、神は愛である、とも“言われている”。

でもクリスチャンとして評価されるために、他宗派より優れていると評判を上げるために愛を示そう、とする必要はありません。WTはよく因果を逆にして愛や友情も手段化する。

詳しい仕組みを知らなくても、自分が命に生かされているのを知ると同じ確かさで、「彼がまず愛したので愛する」人が、自分が霊に活かされていると「知るようになること」(岩波版新約、新世界訳改定英文)・・その認知が永遠の命(イエス)また真の命(パウロ)を意味しています。

この「霊の人」に対しては、あらゆる律法(おきてや要求)は廃されています。キリストの霊がおきてによらず朽ちる肉にさえ実を生みますが、人により三十倍、六十倍、百倍なので、その多さや質の良し悪しを個人(自分と他人)や集団単位で量る、比べる、誇る必要もない。


それで神は霊である、霊は命である、命は永遠である・・は真理です。

『そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである・・わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである』(ヨハネ第一5章:口語訳)

その真理はだれも証しできない(という前提)。塵=肉の塊にすぎない、塵だから塵に還る、神の容として模られた土の器にすぎないものが、その真理に生かされ、証しされていると「知る」ことしかできず、そう語ることも二次的な証しなので、霊の証しにまさることはありません。
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