真理と道と命

今は信仰の時代から、理解したい、納得したい、説明したい、という合理性の時代とも言われていますが、この直接的な可知性や、知覚できる客観性を宗教にも求めるのは偶像的という人もいます。形ある像にして「これが私の神だ」と見たい見せたいと本質的には同じ、ということです。

ただ、キリスト教で「これが私の神だ」と知覚で語れる唯一のイメージ(わたしを見たなら父を見た)がキリストです。キリストだけが虚像・偶像ではないので、十字架や磔にされたキリストのシンボルに向かって祈るとしても、キリストやその死を「道」として神に近づいているので偶像崇拝という意識がないのだと思います。

旧約の十戒が禁じるような、陸海空の動物をモチーフにした異形の偶像禁止とキリストを同列にする時点で、キリスト教の人とは永遠に平行線かもしれません。JW.orgの回答が嘘じゃないなら、自分がそれをしないとしても、他宗教も尊重できたらいいですね。


「神は霊であられるので、神を崇拝する者も霊と真理を持って崇拝しなければなりません」

これを史的イエスが本当に口に出して言ったのかは知りませんが、その歴史的批評と、その批評への反論という対立の圏外にある真理が、ことばで言い表されています。

ごくシンプルに「神は霊である」ということ。なにそれ。

霊という何やら怪しげなものが神や真理と同列に語られている。

霊についてはパウロも言及しています。

「神の霊に導かれる(働かされる、活かされる)者はみな、神の子である」
「霊そのものが、わたしたちが神の子であると証しする」

マルティン・ルターがロマ書の中で光り輝く文字で記されるべきと評した言葉。

「霊は教義ではなく生命であり、言葉ではなく存在であり、徴ではなく充実である」(ルター)

これほどのことばに説明など足したくないですが、少しだけ。

命という概念も奥深くて、簡単に定義できません。生物学的にカテゴリーされる生命と聖書中の霊は同じとは言い切れませんが深い関係はあり、それはWT洞察でも認められている。

でも命の定義がよく分からなくてもみんな生きています。

意思や努力とは関係なく心臓は動き、呼吸をし、代謝をする・・人間には生命を創始することも、厳密に定義することもできませんが、体の隅々に充実する命によって生かされ、その生命活動(徴)によって生きていると証しされます。一つ一つの微小な細胞単位でも“生きて”いるので、臨床死(心肺停止)と身体死(すべての生命徴候の消失、蘇生不能)は同時に起こらない。

それで命というよく分からないものも真理です。

人が命の仕組みを知り(知り切ってはいない)、説明しようとするとっくの前から、その真理=永遠のいのちが人の子を生かし、その人が生きた証しを残し、その子に受け継がれてゆく・・その始まりも終わりも(今のところ)だれも知らない。神なるものの始まりと終わりを知らないのと同値。

同じように神の霊によって活かされる者は神の子と証しされる、とあります。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR