天使と悪魔④

列王記では、yhwhの座の周りに無数の神々が集まっている幻が語られる。モーセ時代のyhwhの意志を直に語り実行する顕現体から、意志実現のために仕える(従属の)神々という性格が強くなります。書いた人間も対象の時代も違うし、もとから別物を描いているという見方もありますが。

そこである者=神?がこうしよう、他の者=神?がいやこうしよう、と会議しますが、最終的にある霊の意見が採用され、yhwhが「ではそのようにせよ」と究極の意思が定まります。

「神は神たる者の集会で立場を取り、神々の真ん中で裁きを行なう」(詩篇:新世界訳)

その神々の中に、抵抗する者(たち)がいるようです。

ヨブ記でも事の発端は、神々の定例会議?で「異議を差し挟む者」がいたからです。

意外なことに、その会議では妨げる者の意見を採用しています。

ヨブに対して「ではそのようにしてみせよ」と言っている。


至高神の主体と客体の分化=自己認識の始まり(我在り)=善悪(と認識されること)の始原、とするのがなんとか主義らしく、ファンタジー的には根強い?支持があります。

伝統的なユダヤ教では善悪(と人が思うもの)も全部ひっくるめて「神」です。旧約(アブラハム)の正当なる後継(イシュマエルの子孫)であるとし、新約のイエスを神の子としない点ではイスラムの神観も基本的に同じスペックなので、互いの原理主義が衝突すると収拾がつかない。


どれが「正しい」のかは知りませんが、だれもがひとつの意思を持ってはいても、自己や自我というのもなかなかに奥深くて複雑なのは事実のようです。

こうすべき、こうしたい、と思っても「妨げる者」がいるような、

自分が造って住まわせたのか、それとも初めから「いる」のか、

人は初めから内なる神と、内なる抵抗する者を宿しているのか、

自分の願望とは別の支配が体の中にある、とパウロも言っています。

自己(エゴ)=罪?を放棄することなど成し得ない「惨めな人間」である自分を丸ごと受容してくれる無限の愛と救いを、神が遣わした自らのモノゲネースが自己を放棄する様(キリストの屈辱的な磔)に彼は見出した。彼にとっては磔にされたのが自分で、代わりに生かされている「己」の内にキリストが生きています(ガラテヤ2章)。
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