理解する?

これも分かっているようで分からない概念です。
理解とは何か、を理解するのも簡単ではありません。

最近のWT記事では、バス通りの真ん中に突っ立ってる人の“たとえ”がありました。

「あ、あれバスだ」が知識
「はねられたら死ぬ」が理解
「じゃあ逃げよう」が知恵

・・途上国向けなのか、にしても愉快な説明です。こういうのを読み聞かされる上にただ復唱させられるお勉強会に何年も浸れば思考が停止するのか・・

聖書の中では、ヘブライ語では「区別する・見分ける」、ギリシャ語には日本語の「理解する」に近い単語があるのかどうか知りませんが、「知る」「よく知る」を意味する語があるようです。英語のunderstandも、underとstandの組み合わせなのか・・としてもその組み合わせに意味があるのかも含めて語源は不明らしいです。

WT、特に日本WT教はこの「理解」という単語が好きです。キリスト教は啓示の宗教なのに、「新しい理解」をやたらとありがたがります。この漢字の組み合わせから連想してしまうのは、論理で解(答え)を出すことや、逆から言えば何かの解の理由を提示できること、あたりでしょうか。

『あなた方は天の王国の神聖な奥義を理解することを聞き入れられている』(新世界訳)

新共同訳では「悟る」、口語訳では「知る」になっています。

それでWTは神の深遠な奥義を理解できる、説明できる、その理由も大方「分かっている」と言いたいので不可知論が大嫌いです。分からないことを分からないと素直に言えず、とにかく何かの答えを出しておいて、後で「理解」を調整すればいいのです。


「知る」と「理解する」を区別することが理解することなのかもしれません。

一例ですが、数学のお勉強でもxとか√とか代数記号が出てくるあたりでつまずく生徒さんが多いです。「分かろう」とする子ほど分からない深みにハマリます。

大昔の人はあらゆる実在の値や量は整数比で表せると考えていましたが、一辺を「1」とした正方形というごくシンプルな図形でさえ、対角線を引くと整数比で表せないことが「分かって」しまいました。人類が発見した最古の定理(不可能性の発見)とも言われています。

その不可能性という残酷な現実を受容してしまうのが√です。どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号(博士の愛した数式)。じゃあマイナスの数を入れたらどうなるかと聞いて、そんな数はないんじゃないですか、と言われた博士は自分の胸を指差して「いいや、ここにあるよ」と言う。

あるかないかの議論を超越する無限に寛大な愛(神?)の如く、この無敵全能と思われた冪根を使っても5次以上だと解を代数的に表せないことが分かって数学は異様に発展した。

そういうものとして√を「知る」ことが「理解」なのかもしれません。その区別ができないと、理解しようとするからいつまでも知ることができず、√嫌いになります。

これ以上は解けない、表せない、答えがない、と悟ることが理解であり、「知らないと知る」ことが知ることである、という昔の人のことわざは至言だと思います。


『自分はある事柄についての知識を習得したと考えるなら、その人はまだ知るべきほどにもそれを知っていない』(パウロ)

WT的な不可知論というと、結局は何も確かなことは分からないと言うだけの空しい哲学と片付けられますが、不可知性や不可能性という厳しい現実に対する奥深い悟りと穏やかな受容が人間を進歩させてきた知なのかもしれません。
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