偶像崇拝

前記事で少し書いた偶像崇拝の話ですが、JWのイメージする偶像崇拝では、物理的に形ある対象を使って祈る・拝む行為がすべてそれにあたる、その行為を無価値で愚かなもの、と考えます。でも新約ではユダヤ人の神もギリシャ人の神もなく、すべてを通し、すべての上におられる神は「一つ」とあります。

パウロはあなた方(ギリシャ人)が知らないで崇拝しているもの、それを伝えていると言った。

居住の限界を持たない神が、特定の神殿に住むとか(限定)手で作った何かの細工そのものだとか(限定)考えてはならない、と宣言しました(思いを正した)。

それでキリスト教では、何かの象徴を使って神に思いを向けるとしても、それ自体が神仏の類であるとはされていないようです・・が、それも旧約的に言えば偶像崇拝なのかもしれませんが、新約では微妙にニュアンスが異なるようです。

ユダヤ人もギリシャ人も、何かの神殿や細工に限定して崇拝される「自分たちだけの神」と言える時代はキリストによって終わったというのがパウロのメッセージだと思います。だからソロモンが定めのない時まで神が住まうと宣言した神殿に、相変わらぬ愛着と誇りを抱くユダヤ人は怒り狂った。ギリシャ人でも怒り狂ったのは偉大なる彼らの女神限定で商売していた細工人たちです。

彼らは叫びます。「偉大なのはエフェソス人の(オレたちの)“あるてみす”!」

冷静なエフェソスの役人も、パウロは別に彼らの女神を冒涜した訳ではないことを知っていた。実際、パウロは彼らをユダヤ教の一派にすぎないものに改宗させよう、ユダヤ人の神を信じさせよう、と説得していたのでもないようです。

愛着のある発声(聴覚)を使って祈る行為が悪いと言えないように、愛着のある象徴(視覚)を使って自分の神に思いを向けることも、悪いとは思わなくなりました。ただ、崇拝やその対象を特定の組織や教団経由に限定してしまうことの方に潜む、本質的な偶像崇拝には注意が必要です。それはユダヤ人や狂信的なエフェソス人のように「自分たちだけの偉大なる神」を高めようとする傾向(願望)、他はみんな偽りの神だと言い出す排他的な信条に表れます。

律法は神と隣人を愛することに集約される、とイエスも教えた。

偉大なるえほば限定で商売する宗教法人に支配される彼らには、“偶像崇拝”に限らず、そのえほばが忌み嫌っているらしいと法人が判断した行為すべてを拒否することが「神への愛」のようです。

ユニバーサルな自由と調和の可能性を示したシンプルな言葉が、束縛と分裂を生む。

人が死んだ時くらい、その人の神に祈ってあげたいものです。神は一つですから。
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