「期待」と「宣伝」は違う

エホ証統治体が解釈変更の度に使うお決まりの言い訳。

1世紀の使徒たちでさえ間違った「期待」を抱いたことがあった、というもの。

使徒1章で使徒たちが復活したイエスに尋ねた質問。
「主よ、あなたは『今この時に』イスラエルに王国を回復するのですか」

そのとき、彼らが間違った「期待」をしていたのは事実だが、我らの主イエスは『今この時』にイスラエルに王国を回復するのだ!と宣伝していなかったのも事実。

ただ間違った「期待」を抱いているのと、それをせん越にも傲慢にも真理であると「宣伝」して回ることには天と地ほどの差がある。末端のエホ証は指導部が巧妙に問題をすり替えていることに気づいていない。

1984年発行の世界中で使われたエホ証の教材「地上の楽園で永遠に生きられます!」・・日本を含む先進国で一番エホ証が増えていたころなのでこれを使って「真理」を教えられた人は多いはず。その中の1節。

「1914年に生きていた人の中にはこの世の終わりを目撃する人もいる」

これは後になって変更された解釈の1つの例に過ぎない。ただ「期待」していただけなら勝手だが、問題はこれを世界中で「宣伝」して回っていたこと。人に宣伝した時点で「うそ」である。

学問の世界でも学説が訂正されることもあれば、学校の教科書も改訂されることはあるが、人の価値観や人生を左右するような重大な歴史的事実についての認識がコロコロ変わるような教科書は信頼を失いますね。

しかも聖書という数千年もの歴史がある偉大な書物についてわずか数十年の間にこれだけ解釈の変更があるのなら、少なくとも終末に言及するような布教は控えたほうが誠実で、慎み深いのではないか。それこそ本当の意味で「神を待つ」ことではないか。

統治体のせん越で先走った解釈を「宣伝」した時点で彼らは神を待ってはいない。神は偽らない。

「もし預言者がエホバの名において話しても,その言葉が実現せず,そのとおりにならなければ,それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。あなたはその者に恐れ驚いてはならない」

「エホバの証人」という大仰な名称や世界的な伝道を掲げて人の家の戸口を叩いておきながら、宣伝していたことが実現しないと、「期待」していただけで、自分たちは預言者でもないしエホバの名によって語ったつもりもない、だからこの聖句は自分たちには当てはまらない、という。

政治家も宗教も自分たちの保身が第一で言ったことに責任をもたず、言い逃れをする。
自分が属した組織がこうなってしまうとはねぇ・・
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 現役エホバの証人です。集会に言っておられるようですが、兄弟ですか。
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