作られた信条

JW信者は、本当は聖書に頼ってはいない、というか自由に聖書を使えない。

集会や“個人研究”で使う教材では、聖句はすべて指定されている。

自由に聖句を選べるのは、巡回さんが長老を指導するとか、長老が信者を“牧羊”するとか、そういう上下の差がある時に限り、もちろん教義に関してはJW解釈の範囲内ではあるが、それ以外のやり方、態度、習慣について、上側の人は聖書のどの字句も好きなように適用して指導できる。

一方で、下の人間が同じように聖書を使って「自分はこう思います」と言うと反逆になる。

自分が知る限り、対等な立場の人間同士が聖書だけでフラットに話し合う機会はほとんどなく、逆にそういう状況では自発的に聖書を開きにくい空気が流れるようです。

聖書自体、いろんな人がいろんなスタンスや考えで発言しているので、まず自分の意見ありきで、その理由付けに使えそうな断片的な字句は割と簡単に見つかります。このブログもそうです。

一方この組織では、普通に多数決で決めている統治体(解釈の変更自体が可能)だけには、自分たちの意見に同意しない人を「反キリスト」と断じる権威があります。対等な立場でそれぞれが自由に聖書を適用して意見を言えば、彼らの望む一致・・多様性を包含できない非聖書的で権威主義的な一致、が脅かされることは誰もが知っている。だから聖書よりも、もっと具体的な指示や規則が書いてある組織の指示書が重んじられることになる。

聖書、特に新約は統一された手順や規則集を作ってその権威付けをする道具に使えるような単純な本ではないし、それを目的ともしていないと思います。

序列が上の人間に指導されるときには聖書が開かれる。それに対して聖書だけを使って「自分はこう思う」と言えば危険人物扱いされる・・だから上から言われるだけのごく限られた聖句と、そのいっぺん通りの解釈を覚える(考えてはいけない)だけで聖書を分かったつもりなってしまう。知識の多さや正確さを誇ることが信仰の本質ではないとはいえ、その知ってるつもり度と、実際の知らなさ加減のギャップの大きさはこの団体の特徴かもしれません。

聖書を平信徒に触れさせまいと“危険人物”を弾圧した遠い過去の中世の教会を非難しながら、同じことをもっと狡猾にやっているだけで、聖書に頼っているつもりにさせながら、新世界訳以外の聖書や、自分たちの解釈以外の聖書的考えに触れさせまい、と仕向けるやり方には長けています。

その結果、非聖書的な権威とその権威による一致の維持を口実に、聖書ではなく、ラッセルが否定したはずの『宗教会議で作り出された信条に従うことを条件とする会員の地位』に絶対の信頼に置いている、ということに信者自身が気づかないままでいます。

対等な立場で意見し合うことがなく、上から指示されるか、下に指示するしかない、そんなことを何十年も続ければ上意下達の人間しか残らないのも当然で、そこに身を置くことで安心する人のための需要はあり続けるでしょう。

個の信仰と愛は組織の規則よりも勝るべきと語ったダンラップ氏に対して、「僕はだれかにあれこれ言ってほしいけど」と言い放ってその排斥処分に加担した、会長ノアに命じられるがまま毎日鉛筆を削って組織と上司に忠実に奉公したウォーレン氏の経験談を読むと、そんな印象を受けます。
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