殉教願望

無学な自分が新約を読み直してふと感じるのは、パウロの殉教願望とも取れるような言葉です。

『わたしの場合,生きることはキリストであり,死ぬことも益なのです。さて,もし肉の様で生きつづけるとすれば,それはわたしの業が実を結ぶことになります―ですが,どちらを選ぶべきか,わたしには分かりません。わたしはこれら二つのものに迫られています。しかし,わたしがほんとうに願っているのは,解き放たれること,そしてキリストと共になることです・・あなた方のためには,わたしが肉の様でとどまっていることのほうが必要です』

『こうして,キリストとその復活の力またその苦しみにあずかることを知り,彼のような死に服し,何とかして死人の中からの早い復活に達しえないものかと努めているのです』


フェストが言うところの、博学ゆえのパウロの狂気でしょうか。

パウロはイエス同様、伝統的ユダヤ人指導者の反感を買い、宗教的な憎しみを受けていただけで、ローマの法を犯すようなことは何もしていませんでした。しかしローマの行政官フェリクスもフェストもユダヤ人の意向は無視できないので、のらりくらりパウロを拘束したままでした。

ユダヤ人はパウロをエルサレムに連れ戻そうとします。煮え切らない、政治的で計算高いローマ人をあてにせず?途中で暗殺するためです。フェストはユダヤ人の支持を得ようとして、エルサレムに戻る意思があるかどうかをパウロに尋ねると、パウロはそれを拒否し、カエサルに上訴します。

ユダヤ人の憎悪が決定的な段階にまで達して遠からぬ死を感じたパウロは、イエスと同じようにローマ人の手にかかって処刑されることの望んだのでは?と感じます。

イエスもユダヤ人から直接命を狙われた時は、身を隠しました。タイミングの問題もあったのかもしれませんが、イエスの贖罪の死が同胞のユダヤ人による殺人行為ではなく(当時のユダヤ人はローマ法の下にもあり、独自の宗教裁判は認められていたが、破門はできても勝手な死刑まではできなかった、今のJW組織と同じ)、ローマによる合法的な処刑である必然性があったのかはよく分かりません。

ただ磔にされたキリストを強烈に敬愛する彼は、同じようにいわれなくローマ人によって処刑されることで解き放たれる=キリストに殉ずる道を全うしたかったのでしょうか。

アグリッパは「カエサルに上訴しなければ、この人は釈放されただろうに」と言いました。パウロにすれば、かつて自分がステファノを違法な殺害で葬ったように、ローマ人に釈放されてユダヤ人に暗殺されることは望んでいなかったのかもしれません。

もちろんキリスト教では殉教は徳とされる死です。

有名な話では、日本のカトリック二十六聖人の処刑の記録があります。

当たり前ですがJWだけじゃありません。

ただフランズ氏が明らかにしたように、隣国のメキシコでは兵役義務を金銭で回避する裏取引をこっそり黙認しながら、一党独裁時代のマラウィでは実質的には税金や国民登録程度の意味しかない(と個人で判断することもできただろう)党員カードの購入さえ拒否するよう指示し、虐殺された遠いマラウィの同胞を中立神話の生贄にするかのように美談にした。

『カエサルのものはカエサルに返す』(イエス)
『貢ぎを要求する者には貢ぎを、誉れを要求する者には誉れを』(パウロ)

・・じゃなかったでしたっけ?

輸血拒否なんてただの解釈にすぎない教義を付け加え、殉教だと言う。

マラウィで命を失った個々の人にも恵みが示されるよう祈ることしかできませんが、人間の組織による気まぐれな解釈や指示で死ぬことが本当に尊い殉教なのか・・

パリサイ化したユダヤ教と野獣のように行動するローマ帝国の利害がこの新興の派に対して奇妙に一致していた当時、クリスチャンであるためにはパウロのような悲壮な覚悟が必要だったと思います。

でもこの尊い精神を利用して行き過ぎた殉教願望を煽る宗教指導者たちが文字通り狂気じみた行動を取らせてきたのも歴史の事実と言えるのかもしれません。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

ほんとうに

自分も専門的に神学を学んだわけではないので素人ですが、
パウロはとにかく思い込みの激しい人だったのだろうな、と思いますね。
ユダヤ教の時もそれが正しいと激しく思い込んで迫害に熱心だったし、
転向した後はキリスト教の道が正しいと激しく思い込み。
でも、そんな人がカリスマを持ちますよね。
例えばオウムの麻原も同じ。(極端な例ですが)
非常に強い思い込みを持った人に、引き寄せられる人が集まって宗教というものが形成されていくのだろうと思ったりします。

そして、迫害があったりするとその思い込みはさらに強力に形成されていく。

その連鎖で1世紀のキリスト教も進展したし、現代のJWもここまで成長してきたのかな、と思います。

Re: ほんとうに

> スナフキンさん

ある意味、今度は伝統的なキリスト教相手に、手法だけを真似て数を増やしてきたのがJWかもしれませんね。でも信教の自由が認められている現代で人工的な迫害を作ろうとすれば、反社会的な思想・行動を取るか、JWのように要求戒律でがんじがらめにするか、なんでしょうね。

何となく

パウロの体験を考えると私は決して殉教願望ではなかったと思います。口が利けなくなるほどのキリストの突然の現われ!!
彼の人生を全く変えてしまった。
パウロは息せき切って、キリスト者を無くそうと旅していました。
キリストは、サウロよ、サウロと呼びかけられ、・・・パウロは視力を失った。イエスとの衝撃的な出会いと愛に触れ、エジプトにしばらく滞在しなければならなくなって、そこでずっとイエスと自分のことを考え続けました。人は誰も死にたくはありません。アルプスのワルド派の人々も、フスもヒエロニムスも。逃げ場所もなかったのです。

ただ命をかけて神を擁護しました。クリスチャンとはそうあるべきではないでしょうか。イエスを神を擁護できずに圧力に屈して後悔と恥とで生き延びるよりは死を選ぶ、死を選ぶのは死以上のことを知っていたからです。それが信仰であり、福音です。
永遠の命の報いが死よりも勝っていることを知っていたからです。

どの宗教にもよい教えはありますがキリスト教が仏教や異教と違う点、優った点は何かご存知でしょうか?

復活です。

しかし、もっと優っているのは、キリストの十字架の死でした。

キリストは人類への愛ゆえに全人類の罪を贖うために命を惜しまれなかった。天の支配者であったイエスはその地位を捨てて、卑しい民となられた。
パウロはさまざまなことを思い出し、彼がこれまで学んだ律法や歴史や預言の成就などをエジプトで思い巡らしていたのです。食事ができないほどの衝撃だったのです。聖書の記述から多くを学ばなければ、人は現時点から前進するのは難しいし、ただ堂々巡りをすることで終わってしまうかもしれません。
批判的になって申し訳ないですが、聖書に新しい人が読んだら、何だか巧みな解釈を正しい解釈と思い込むかもしれないと思いました。

JWを批判ばかりしていても仕方ないし、JWは世の終わりまでこのままです。つぶれればいいのにって思いますが、麦と毒麦は一緒に生長していきますから。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」とイエスが言われたとおりです。




Re: 何となく

> ユリママさん

コメントありがとうございます。

ユリママさんが仰るように、キリスト教史の中で逃げ場のない状況に置かれても信仰を貫いた人は大勢いますが、JWの場合は純粋なキリスト教信仰が、統治体の指示・解釈への服従に置き換えられてしまっている気がして書いた記事でした。

父が引き寄せなければだれもキリストのもとには来ませんし、自分の捉え方を正しい解釈と思う人がいるとは想像すらしないので思ったことを書いてしまいましたが、JW経験者に限らずこういう考察からキリスト教信仰とは何なのか、ということに興味を持つ人は増えてほしいという淡い願いはあります。特にJW経験者は、正統とされるものが正しいという前提に拒否感のある人も多いので・・組織としては救いよう(変えよう)がない、というのはその通りですよね。
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR