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無条件の愛②

島先氏も仰るように、正しい道にいることと、そこを歩く力がある、というのは別です。

正しい道にいても、時には歩く力がないこともあります。

神学は、正しい道を示す=説明する=定義しようとします。

でも、それだけでは歩く力になりません。

知識や定義(正しいか間違いか)を超えたキリストの愛が、その人に迫ります。

その人は歩きます。疲れて止まることもありますが、道を逸れた訳ではありません。

その人は「主の業」を行なうでしょう。

家族のためにおいしいご飯を作ります。

仕事に打ち込んで、税金を納め、社会に貢献しようとします。

スポーツや芸術の才を磨き、人の可能性を示し、感動を与えます。


すべてあなたの手の成しうる事は、力をつくしてなせ』(伝道の書:口語訳)


神が自らの手の業を慕うように、その人の手の業にも喜びを見い出されるでしょう。

困っている人を見れば、考えるより先に体が動きます。

それがたった1匹の猫であっても、みんなで助けようとします。

クリスチャンなら証しをする、礼拝にも行くでしょう。

それらはみな、この世を彩る「主の業」であり、信仰を持たない人には大きなお世話でしょうが、その業は彼らの内にも神の像=キリストが宿っていることの証しではないかと。

それを伝えるはずの宗教が、家族を、人と人を引き裂き、世界を不味くして何になるのか。

あなたは信仰に背を向けている、もっと「霊的」なことをせよと、なおも咎めますか。

舌で父をほめたたえ、その同じ舌で神と似た様で存在している人を呪い、死に定めますか。

塩が効き目を失えば、外に投げ出されて踏みつけられる以外に、使い道はありません。

だから無条件の愛とは、受ける側は何もしなくていいという訳じゃなく・・いや危なかった、いいとか悪いとかじゃなく、いいか悪いかで言ったらみんな悪いんです。でも、今は何もできずに落ち込んでいる人、疲れている人さえ愛されている、その無条件の愛が迫るときに、それが挫折や痛みを背負いながら歩く強さになり、キリストの苦しみと爽やかさのくびきを感じる・・キリスト教が持つ本来の救いの力とは、そういうシンプルなものではないかと。

信仰なんかなくても歩ける人はいます。主が言われたように、健康な人に医者は必要ありません。だから信仰とはそれを必要とする人を利用するためでも、さらに裁いて病ませるためでも、まして信仰を持たない人を人が裁くためでもないと思いたいです。
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