無条件の愛①

聖書には、所々に「ああしなさい」「こうしなさい」という“おきて”が含まれています。聖書の字句にさらに独自の要求を付け加えて「こうしない者は救われない」「あまりしない者も霊性が低くて危うい」と脅すようなことを言う人もいます。

『もしあなた方がわたしに聴き従わず,これらのすべてのおきてを行なわないなら,またわたしの法令を退けるなら,そしてあなた方の魂がわたしの司法上の定めをいとい憎んでわたしのすべてのおきてを行なわず,わたしの契約を破るようになるなら,その時にはわたしもあなた方に対して次のように行なう。処罰として結核と燃える熱病をもって必ずあなた方をかき乱し,目を衰えさせ,魂をしょうすいさせる。そしてあなた方はいたずらに種をまくことになる。あなた方の敵が必ずそれを食べ尽くすからである』

聖絶という言葉で説明されることもあるようですが、自分としては単純に、これが旧約で示される神観、そして神と人との間に本来あるはずの圧倒的な溝だと捉えています。

造られたことを認める、信じる、とはそこまでの覚悟があって言うべきものかと。

美しく慈愛に富む自然を造ってくれた神は、(自分たちに都合よく)完全無欠に愛があり慈悲深い神に違いない、とイメージしたいのも分かりますが、造られたと信じる側が、こういう神じゃなきゃやだ!というのもわがまま勝手な気が・・自然はあまりにも美しく、そして時に残酷でもあります。

ヘブライ語のエルは単に力や強さを示唆するとも言われています。なんとか主義のように旧約で描かれる創造神は邪神とまで言うのも極端ですが、仮に創造神なる存在を想定するなら、人から見て安易に善悪を判断できる、というか判断していい存在でもないと思います。

聖書によればですが、その底知れぬ溝を埋めるべくイニシアチブを取ったのも神です。
だからキリストにおける愛もまた、圧倒的なまでに迫るように感じるのかもしれません。

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた・・しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう』(新共同訳)

この世のすべての痛みと病と罪を背負い、呪われた者として死んだキリスト。

言うこと聞かない99.9%の人間をあらためて永遠の火で処罰するため、

ましてその法的根拠?を据えるために生贄にされたのではないと願いたいです。
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