キリスト教?

昨日のも塔記事も、ますます短い周期で繰り返される、組織への忠節を強化する記事ですが、なんかもうキリスト教ではなくなってしまったような内容にまで劣化していますね。

『イスラエル人が律法によって守られたように、エホバ神の律法と原則に従うなら、わたしたちも保護され、「信仰の点で健全」な状態を保てるのです』

『大患難が迫る今、聖書の正確な知識を取り入れ、適用し、霊的に進歩するのはとても重要なことです』

『わたしたちの命は、エホバのご意思を行ない、エホバを愛し、その声に聴き従い、エホバに固く付くことにかかっています』


あれ?キリストの死と贖いはどこへ行った?

もうキリスト教というより、モーセの律法は廃止されたといいながら、聖書の字句をあちこちから引っ張り出して独自に解釈した教理戒律に置き換えただけで、旧約の神観を引きずった戒律実践主義、いわば疑似ユダヤ教の厳格で特殊な一派、と考えた方がよさそうですね。

でも探してみたら、あーあった、1か所だけ、キリストへの言及がありました。

『イエスがなくなった後の後代、律法に対して熱心で律法から離れられずにいたユダヤ人のクリスチャンがいました。しかしパウロは、手紙により、「律法にしたがってささげられる」犠牲によってではなく、「イエス・キリストの体がただ一度限りささげられたことによって」神聖にされているということを強調しました』

エルサレム共同体のヤコブはユダヤ人の幾万の信者は皆、律法に対して熱心である、とパウロに真っ向から宣言しました。クリスチャンと呼ばれたのはアンティオキア教会が始まりで、律法を実践し続けるエルサレム側が自分たちを現在で言う所の“クリスチャン”と認識していたのか、西暦70年前にどれほどのユダヤ人信者がパウロの書簡を読んで律法から離れたのか、よく分かりません。

それはさておき、この記事で唯一、キリストの贖いに言及している箇所を読んでも、ここまで露骨に組織崇拝を前面に出す記事との矛盾を疑問に思わないんでしょうか。不思議です。

『イエスがなくなって約2000年後、教団の戒律に対して熱心で、教団崇拝から離れられずにいたユダヤ人チックな“クリスチャン”がいました。しかしパウロは、「律法(=決まり)にしたがってささげられる」犠牲によってではなく、「イエス・キリストの体が一度限りささげられたことによって」神聖にされているということを強調しました』

少なくともこの記事で、救いのために強調されていたのはどちらですか?

キリストの贖いへの信仰ですか?人間の組織の指示に従うことですか?

『彼らは邪悪のパンで自分を養ったからである。彼らは暴虐の行為のぶどう酒を飲むのである。しかし,義なる者たちの道筋は,日が堅く立てられるまでいよいよ明るさを増してゆく輝く光のようだ。邪悪な者たちの道は暗闇のようだ。彼らは自分が何につまずいているのか知らなかった

聖書の基本的知識が皆無で、JW解釈のみで教えられた自分たちに一度にすべてを理解するのは無理かもしれません。でも勤勉な聖書の“個人研究”を本当に行なうことにより、まさに光が輝きを増していくように、聖霊によって個々の人に漸進的に明らかにされる神の言葉の理解に抵抗するのではなく、自分の見方を柔軟に“調整”していきたいものです。

神を信じ続けるかは別として、いち教団の間違いに気づいたからといってそこで教えられたことがすべてと、聖書の底を見てしまった気になるのはもったいないなと個人的には思います。
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