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主の業

「この世」と「あの世=JW的には楽園」を隔ててしまうと、「この世」の生き方に消極的な影響を及ぼしかねない事実は、JWをお手本にすると良く分かります。

「この世」における労苦とは何かについて、島先氏はこう語ります。

『主に拠り頼み、御霊によって自分と他者の心身の癒しを求めます。本当の意味で自分らしい、また人間らしい文化(料理、芸術、音楽、建築、科学、政治・経済機構を含む)を主によって形成しようとします。そのような歩みは、簡単でないにしても生き生きとして喜びを与えてくれるものでしょう。また私たちは主により頼んで、神が造られた自然界を犠牲を払っても守ろうとします。料理であろうと、研究であろうと、陶芸であろうと、職場での歩みであろうと、庭の掃除であろうと、私達は創造本来のあり方を目指し、主にあって歩もうとします。たとえ寝たきりであってもイエスとの交わりの内に憩い、生きようとします。実はそれらは全て、たとえ私達が意識していなかったとしても、未完成のものであっても、キリストのみ業です。創造秩序の回復(神の国の樹立)のために地上に来て下さったキリスト・イエスご自身が、ご聖霊により、ご自身の民を通してなさっている力強いみ業なのです』

(引用終わり)

キリストによって完成される神の管理を望むことは、現在の世で成し遂げる事柄を否定するものではない、と自分も思います。「どうせこの世は滅ぼされる」、「サタンの世だから何やっても無駄」というのはイエス本来の教えからも逸れてしまっています。

信仰によりキリストを迎え入れる人は、そのただ中にあるキリストの支配を受けるゆえに「世のもの」ではないかもしれませんが、彼らは「地の塩、世の光」である、とイエスは教えました。その山上の垂訓は、この世でどう生きるか、にシンプルに焦点をあてています。

世の光となるとはどういう意味ですか。この世の環境保護活動を沈没寸前の船の修理に例えながら、無意味な集合離散を繰り返して排気ガスを撒き散らし、区域につけば時間を入れるために噂話をしながら牛歩することですか。寝たきりでも意識があれば15分の布教報告を出すことですか。

そうしたい人を否定はしません。でもキリストのみ業とはそんなちっこいものですか。人としてなすべきこと、人が不完全(未完成)でも成しうる業、とはそれだけでしょうか。

律法を持たない人が律法の業を行う・・家族を愛し、隣人を愛し、仕事に打ち込み、技術や才能を磨いて社会に貢献する、一つ一つはどんなに小さくてもそれは「世の光」ではないですかね。

『私の愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされることなく、主の業に励みなさい。あなた方は自分たちの労苦が、主にあって無駄でない事を知っているのですから』

自分について言えば、この聖句を利用してJW活動以外は基本的に無駄であると真逆に思い込まされた時期にも後悔はありませんが、部活も受験も本当に自分がやりたかったことを奪われた若者も、子供にそれを許しただけでこの組織で不当に扱われた親も、この組織で数え切れない程見てきました。その教育に加担したことの責任は感じます。

もう少しこのブログで発信させてください。
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No title

イエスが言われてる神の王国て心の中にある平安て思えばすごくスッキリするのですが

Re: No title

> てなもんやさん

安易に政府と置き換えたり、いつまでにハルマゲ起こすことかは言わない方がいいですよね。
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