人の務め

神学の話では割とエキュメニカルっぽいことも書きましたが、キリスト教が組織・解釈において一致することはないと思います。かといって自分たちだけ救われる、という組織は自らの一致のために個々の信者を独自のルールで裁き、犠牲にします。これを拡張すればキリスト教だけ救われればいいのか、となりますが、今はそこまで広げる余裕はありませんし、万人救済もさすがにどうかと・・結局、聖書1冊の解釈で人が“神の意思”をどうこう決めつけることはできないと感じます。

イエスの親切なサマリア人の教えは、普遍的な愛を示します。愛を広げなさい、と教えたパウロでさえ、「すべての人、ことに信仰において結ばれている人」と語ったように、どちらかというと仲間の信者を優先する(かのような)言い回しで、これをキリスト教どころか自らの組織を中心に狭めに狭め、組織が排斥した人を理由も知らずに道の反対側を通って無視するのがJWの愛です。

でもイエスの教えは、宗派だけでなく、宗教の違いさえ超えるポテンシャルを秘めているのかもしれません。1人1人は微々たる存在でも、かのサマリア人のように、自分や自分の民族・宗派を高めるためでも(手段)、救いのためでも(手段)、何かの勧誘のため(手段)でもなく、それを個人レベルで実践する=ただ行なう、ことがイエスの教えのような気がします。

『神を恐れ、そのおきてを守れ。それが人の務めのすべて(人間のすべて:新共同訳)

死後や来世や楽園を「目的」にする宗教は力を失いつつあり、JWもその同じ道を辿っています。目的、目的、目的は何か?ばかりに囚われると、そのために行なう行為が手段になり、歪んだ動機や死の恐怖を利用する者たちに支配されるだけです。

キリスト教の歴史も人間の過ちで満ちていますが、聖書自体がそうです。さんみいったいにも合理的また論理的に説明できない部分はありますが、JWからは、その「神の奥深い事柄」(新世界訳)を知ろうとした上での反論というより、的のずれた物理的、局所的、字句的な攻撃論ばかりを聞かされてきたことにも気づきました(だから“分かり”やすい)。

私見を交えて神学に少し立ち入ってはみても、自分の知識などたかがしれています。さらにいろいろ読みたいという気持ちもありますが、神についての人間側の唯一正しい説明など存在しなくても、「ただひとり知恵がある」のはその方です。人の理解や知識を誇ることが信仰でもないと思います(本当に知識のある人が言うとカッコいいんですが)。

『そねみや対抗心によってキリストを宣べ伝えている者たちもいますが,ほかの者たちは善意によってそうしています。 後者は愛の気持ちからキリストを言い広めています。・・しかし,前者は闘争心からそうしているのであって,純粋な動機によるのではありません。・・ではどうなるでしょうか。見せかけであっても真実であっても,あらゆる方法でキリストが言い広められている,ということにほかなりません。そのことをわたしは歓んでいます。そうです,これからも歓んでゆくのです』

かつてJWは “偽り”のキリスト教が広まることで、“真の”キリスト教である自分たちが増える土壌になったと言い放っていましたが、これからは彼らとの接点がきっかけで聖書に興味を持ち、客観的に調べると ⇒ 他のキリスト教信仰に導かれる人も増えてくると思います。その点において、JW布教すべてが無意味であるとも思いません(経験者ゆえ注意喚起はしますが)。

いい意味での“対抗心”くらいは構いませんが、ただシンプルにキリストを伝える人が、誇らず、裁かず、要求せず、支配せず、ただそのことを歓べる時が来ることを願います(無理ですか)。


「すべての人が偽り者であったとしても、神は真実であることが知られるように」

ただ一人「真実な方」を求め続けるすべての人に恵みがありますように。
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No title

いつもながら明快な説明ありがとうございます。

自分の宗教だけが正しいと言い続けるのは傲慢以外の何物でもないですね。いままで一つも間違いがないという実績があればいいですが、あるのは間違いと隠蔽の事実ばかり。

数年前に偽りの宗教の終わりは近いというビラを配らされたのを思い出しました。
あのときもイヤーな気分でしたが、もうあんなビラは二度と配りたくないですね。

Re: No title

> スナフキンさん

> 数年前に偽りの宗教の終わりは近いというビラを配らされたのを思い出しました。

ありましたねぇ。そんなやつ。皮肉にもその辺から組織の実情が明らかにされまくりですね。
その反省?からなのか、穏やかな存続を図る段階に移行しているのか、最近は軟化、世俗化に
シフトする気配も見せつつありますね。

信じ込み症候群

こういうおもしろいサイトを見つけました
http://www.skept.org/setsumei/tbs.html

信じ込み症候群 というらしいです(笑)

いや、笑い事ではないですね

これはもっと明らかな嘘の場合であろうと思いますが

あのオウムでさえもいまだに信者が増えているということと

世の中にいろんな怪しげな宗教があるということ

そして、われわれJWもこの現象と同じスパイラルにいるのではないでしょうかね

つくづく、人間とは不思議な生き物ですよね

No title

「イエスの教えは、宗派だけでなく、宗教の違いさえ超えるポテンシャルを秘めているのかもしれません」この言葉にピンときました
マザーテレサさんがそのようなことを実践されてたんですね こんなyou tubeから知りました http://www.youtube.com/watch?v=xZpI-ApiZXU 「宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか その2 」 5分あたりからの話になります
宮沢賢治が好きな人には1~9までありますが見て欲しいyou tubeです また日本人の宗教観についても考えさせられます

Re: 信じ込み症候群

> スナフキンさん

JWにも問題が存在すること自体を否認する人もいますが、
問題・解釈の矛盾・組織上の間違いがあることを知った上で、
むしろ知ったからこそ組織信仰に強力なブロックをかける人もいますね。

まさにTrue believerです。

ある種の認知障害とは手厳しいですが、人の心の内面を高い精度で
客観的に観察する方法がない、というのはその通りだと思います。
だから人間とは不思議であり、奥深くもある生き物なんでしょうね。

Re: No title

> てなもんやさん

いつも考えさせられるコメントありがとうございます。

マザーテレサが宗派を問わず善を行ないながら、積極的に改宗させようとはしなかった
ゆえに当初カトリック上層部からは評価されていなかった、というのは初耳でした。

改宗させる=最高の善であり、自らの組織の名を揚げ、親切や善行はそのための手段
とするJWとは対極にある考えですね。

彼女の信じるキリストは、ヒンズー教徒をヒンズー教徒のまま救いうるほど偉大である・・

かといって万人救済がどうとか不毛な神学論争に明け暮れるより、自らの信念の内にイエスの
教えに従い、ただ善を行なうために生きた、これが宗教者のあるべき姿なんでしょうか。

実はこの記事、3か月前にこれで最後にしようと思った記事でした。

個々のJWもJWのまま救いうるほど神の愛は偉大でもあるかもしれないわけで・・
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