神の名④

『わたしたちには父なるただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており,わたしたちはこの方のためにあるのです。また,ひとりの主,イエス・キリストがおられ,この方を通してすべてのものがあり,わたしたちもこの方を通してあるのです』

文字通りの太陽や岩も、ある程度、神のイメージを伝えることができます。たとえでも象徴でもなく、神の恵みは太陽を通してあらゆる人に注がれています。砂漠地方ではその太陽の炎熱から身を隠すため、大岩の陰に避難所を求めます。神は一人一人から遠く離れてはいないのです。

そのすべてに勝るもの、「神の存在そのものの厳密な描出」である「子」が人の内に宿ったので、もうだれも「父を示してください」と言うことはできません。「子を見た者は父を見た」からです。キリスト者は、太陽でも岩でもなく、キリストの中に在る神を一心に見ます。

自分はキリスト教信仰しか知りません。その真理(キリスト教信仰における公理)とは、奥深くもあり、あまりにもシンプルです。どこの山でも神殿でもなく、霊と真理により神を崇拝する道です。それはシンプルな一本道ですが、その先はまだおぼろげにしか見えません。ただ、この真理=道におけるルートは「一つ」であり、死も、生も、政府(=組織)も、今あるものも、来るべきものも、力も、高さも、深さも、他のどんな創造物も、キリストにおける神の愛から引き離してしまう付加的な経路にはなってはいけないのでしょう。


・・話が思いっきりそれました。なので、救いのためにクリスチャンが呼び求めるべき名はイエスである、という新約写本のスタンスは強力なのだと思います。イエスの死後、使徒たちの記録には「主イエスの名においてバプテスマを受けた」「主イエスの名は大いなるものとされていった」(使徒19:17)と記されています。ユダヤ人指導者は「イエスの名によって語るのをやめるように」と命じました。

これが新約に「イエス(の名)」が1500回くらい出てくる現実です。新約写本中ではイエスもYHWHそのものを発声しておらず、全体でも厳密なまでに一貫しています。


『あなたの子の栄光を表わしてください。子があなたの栄光を表わすためです』


「わたしは、わたしの栄光をほかのだれにも与えない」と宣言した方の栄光を、その方自身を他にして、一体だれが表せるのでしょうか。それが神を辱める偽りだと言うなら、イエスに激怒したユダヤ人指導者と何が違いますか。神はすべての中に在り、天さえその栄光を告げ知らせるなら、「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」(新共同訳)と語ったその方が、神ご自身の栄光を表したことをだれが否定できるでしょうか。



旧約が初めて他言語に翻訳された時、神聖ヘブライ4字(母音がない・・)を一体どうしたらいいのか、という問題意識があった可能性は70人訳写本で示唆されています。写本初期においては、幾つかのバージョンが一部に見られ、やがてギリシャ語の「キュリオス」に統一され、完全に定着します。子としての権威を持つイエスが、母音のあるギリシャ文字に変換して至る所に書き遺せば、異なる結果になったでしょう。ただイエスがその前例を残せば、オリジナルとはかけ離れた無数の発声が言語ごとに生まれることも意味します。

自分は神聖4字が他の神々の名や、ただの人名のように他言語に変換されなかったこと・・その事実に、それによって表される方への畏敬を感じます。まさに「神聖」なもの、とされてきたのです。自分の知る限り、そんな名は他にありません。「異端だ、伝統無視だ」と権威で裁くだけでなく、その事実をキリスト教側がもっと知らせる必要もあるのかしれません。

聖書の前提に立つなら、言語の混乱は人の罪深さ、反逆ゆえに神が与えたペナルティーです。そのペナルティーを言い訳にして、最も神聖であるべき名の発声を好きに変えていい、とは思いません。でも神は人の想像をはるかに超えて懐の深い方ですから、前記事に書いた全くの純粋さで「エホバ」と発音して祈る個々のJW信者をその方が退ける、とも言えません。どの組織でもまず言い開きを求められるのは支配する側です。

独り子の神であり、万物のアルケーまたロゴスである方が人の内に宿ることにより、何かの文字や音に依存することなく、「父」そのものを示してくださいました。それを「知る」ことが、言語によってどうにでも変わってしまう音や表記を論争することよりも勝っていると今は感じます。
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No title

>自分は神聖4字が他の神々の名や、ただの人名のように他言語に変換されなかったこと・・その事実に、それによって表される方への畏敬を感じます。まさに「神聖」なもの、とされてきたのです。自分の知る限り、そんな「名」は他にありません。「異端だ、伝統無視だ」と権威で裁くだけでなく、その事実をキリスト教側がもっと知らせる必要もあるのかしれません。

そうですねえ・・。その件(知らせる必要)に関しては機会があったら講座の神父とか牧師に聞いてみます。ベネディクト16世の書いた「ナザレのイエス」の本の中にはこんな感じで説明されてましたね。

http://anastasiaregina.blog55.fc2.com/blog-entry-593.html

>独り子の神であり、万物のアルケーまたロゴスである方が人の内に宿ることにより、何かの文字や音に依存することなく、「父」そのものを示してくださいました。それを「知る」ことが、言語によってどうにでも変わってしまう音や表記を論争することよりもはるかに勝っていると今は感じます。

その通りですね。

Re: No title

Anastasiaさん、興味深い資料をありがとうございます。

キリスト教がもっと知らせるべき、とはおこがましい書き方でしたが、キリスト教の中でそのように扱われてきた背後にある奥深い背景や概念を知らない人が、「背教だ迷信だ」呼ばわりする人に勧誘され、同じように排他的なクリスチャンになっているのも悲しい事実です。その表記の下にすべてが正当化され、犠牲にされ、要求され、裁かれてきたので、最後に論じておきたいテーマでした。

自分はまだ、旧約の神聖4字をどーしてもなにがしかの方法で発声したい人が絶対にダメとも言い切れないのですが(すみません・・)、新約のイエスに倣って「父」と呼び、勝手な変換や発声を作らないことでその名を「神聖なもの」とする人の、深い敬神の気持ちも彼らに理解してほしいです。
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