神の名②

JWが間接証拠として挙げるのは、古い70人訳(旧約の翻訳)の写本の一部や、オリゲネスが西暦3世紀に作ったヘクサプラ等にYHWHが出ている、というものですが、ヘブライ語で書かれた旧約本文にヘブライ語のYHWHがいっぱい出てくることはだれも否定していません。

旧約部分で古ヘブライ語の神聖4文字をどうするか、という議論にはなるかもしれません。古ヘブライ語原形のまま転記して、「えほば」でも「やはうぇ」でも「あどない」でも「はーしぇむ」でも、自己責任で発音を選んでもらうのか(そういう聖書もあるようですが)、同じ言語の中でさえ意見が割れているどれか1つの発声をベースにしてそれぞれの言語文字で近似するのか・・発声は自己責任にしろ、オリジナル神聖4字を聖書で、しかもあまたの他言語でどう表記するかは、JWが考えるほど単純な問題ではないようです。

「子」について議論がされた歴史は伝わっていますが、旧約引用の「YHWH」を初めからギリシャ語で書かれた新約でどう表記すべきか、最初期のパピルス写本が作られるまでの「事実上無視できるほど小さい」(JW教材より)期間に議論があった様子も皆無です。キリストの神性を否定して初期教会で異端とされた人たちも、ギリシャ語の使徒書簡で古ヘブライ語形式のYHWHを何かの方法で表記すべきと主張した話も聞きません。

実際に新約そのものを読むと、旧約引用部分に限らず、新約そのものが、あらゆるところで、ことごとく、旧約の名を置き換えている、という事実に気づきます。

の名を呼び求める者はだれでも救われる」(新共同訳、ローマ10:13)

JWは↑がヨエル書の“引用”であることを理由に「えほば」に“逆置き換え”するのは正当だ、と主張します。しかし文脈を読めば、「イエスを主であると公に宣言することによって救われる」「すべての者の上に同じ主がおられる」→ 間違いなくイエスについて語っています。さらに、この類の表現が新約オリジナルで(旧約引用以外)出てくる場合はどうなっているでしょうか。

『彼(=パウロ)は幾日かの間ダマスカスの弟子たちのもとにいることになったが,すぐに諸会堂でイエスのことを,すなわちこの方こそ神の子であると宣べ伝えはじめた。 しかし,彼のことばを聞く者はみな非常に驚き,「これは,エルサレムでこの名を呼び求める者たちを痛めつけた人であり・・」』

・・ん?「この名」を呼び求めている、ここではイエスの名です。

『キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方,ならびに,いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト,すなわちその主でありわたしたちの主である方の名を呼び求めているすべての人たちへ』


ここもイエスです。であれば、パウロはヨエル書を「引用した」のではなく、救いの代理者として遣わされた「わたしたちの主イエス」に「適用した」という可能性はないでしょうか。信用すべき写本が「きゅりおす」なのですから。

「新約写本を信用する」という前提に立つ限り、「主」の使用が「さんみいったい」に繋がる背教なら、最初の“背教者”はパウロやヨハネ、または彼らの名を騙って新約書簡を書いたか、写本で改ざんした者たちでしょう。そこまでの主張をする人も実際にいます。ローマが決めた新約正典を無謬であると肯定しながら同じくローマで成立した三位一体だけ全否定し、さらに写本を信用する=写本は書かれた通りに伝わってきたことの証拠だ!と言いながら写本に逆らって僅かばかりの“えほば”を新約に挿入するのは一貫性がない、ささやかな抵抗のように思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

丁寧にいつも返信をしてくださりありがとうございます。
自分も長くJWにいたとはいえ、真剣に調べてこなかったことを今になって痛感してます。。
みじかにも、この組織の裏の顔を知りながら聖書を研究するために来た人がいます。
組織ではなくて、聖書への純粋な関心をこれから示していきたいと思います。
教えていただいて、ありがとうございます。さっそく調べます^_^

Re: タイトルなし

現役さんは「背教的」な情報に触れてしまうと、「組織への信仰が試されている」と身構えますが、「キリスト教」というもっと大きな枠組みに対して同じことをしてきたのがJWでしょう。だから彼らを反響板にして聖書を考察することにも一定の価値がありますし、神と聖書に純粋に関心を向ければ、何も恐れるものはないと感じています。

ホントにそうですね。
彼らから出るように勧めて真の宗教だと言いながら同じように人々を惑わすなら何も変わらないですね。
知人に今これまでの疑問を話しているのですが、なかなか納得してくれません。
もし、仮にこの組織が違ったとして、では何を導きに生活し、誰と集まりあっていくのかと言われてしまいました。
確かに、組織がなければ好き放題にやりだす人が現れたり、集会の予定などもなくなってしまうと、個人研究のみになり限界が出てくるとも思いました。
実際その点はどう思われますか??

Re: タイトルなし

世の中には宗教組織に属さずとも、社会的責任を果たしながら豊かな人生を楽しんでいる方はたくさんいます。かといって、誰もが何の苦悩や疑問を感じずに漫然と生きている訳でもありません。その点で自分たちはどんなきっかけであれ神を知り、人が神に無条件で愛されていること、その愛をイエスに倣って表す方法を知ったのですから、それ自体を否定する必要はないと思います。本来のキリスト教の布教とは小難しい教義で論争することではなく、一人一人がその愛を広めることです。パウロ型の宣教も否定しませんし、建設的な議論も自分は好きですが、すべての人がそうすべきとも思いません。

「主よ、わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう」

彼らにとってイエス ⇒ 組織に置き換わっているので、仕方ないと思います。イスラエル人もモーセがいなくなったら、今度はアロンに「あなたが自分たちを導く神を作ってくれ(作ってみろ)」と言い出します。自分は彼らの組織という偶像に代わる新たな「神」を作ったり、示したりもできません。神はもう一人一人から遠く離れていないのですから。自分はほんとうの「個人研究」に無限の可能性を感じてわくわくしています。

好き放題したい人はすればいいじゃないですか。「実」によって明らかになるその人を裁くのは神です。人を信頼せず、組織だとう、垣根を作ろうとして、白く塗った墓に見せかけたのはパリサイ人です。その垣根こそ、JWを強力に排他的にしてきた壁です。彼らはその中でしか安心できません。

自分の目ですべてを確かめたいと思ったのは無知さんであり、そうした上で決定するのも無知さんです。必要以上に周りにも気づいてもらおう、同調してもらおうとする必要はないと思いますよ。

親身になってコメントしてくださりありがとうございます。
確かに、この世界には聖書を知らずとも、人々を愛し、真面目に生きている人はたくさんいますね。自分の周りにもいるのでよくわかります。
JWだって、そうなりたいと真剣に願う人たちの集まりですから、好きです。
ただ、そういった囲いを維持するために不当な扱いで苦しむ人を神がどう見ているのだろうと考えたときに組織を絶対視することによって生まれる苦痛ですから、そこから解放してあげたいと思うのですが、なかなか難しいです。。
まだ、自分の行動する動機に確信を持てていないのでいけないのかもしれないですね。もっと、研究と祈りを重ねて信仰を強めて行きます。
神が私たち個々の動機を見て、どんな立場にいたとしても、よくやったと言ってくれるその日を信じて生活することですかね、大切なのは。
GUAさんもこれからも良い選択ができますようお祈りしております。


No title

このやりとりは大変励まされますね。
この視点の考え方自分も大切にしていきたいと思います。

しかし、キリストの下に「一つの群れ、一人の羊飼いとなる」
この言葉は実際に何を表しているんでしょうね。

やはり、聖書の中には組織を強調するのに役立つ聖句がたくさんちりばめられていますね。
ここらへんの聖句が足かせとなってなかなか自由な思考を妨げていますね。

Re: No title

> スナフキンさん

「利用できそうな」聖句はホントにたくさんありますよね。

「一つの群れ」になる、とは直接的にはエルサレム会衆を中心とするユダヤ人クリスチャンの「囲い」と異邦人クリスチャンの「囲い」がなくなることなんじゃないかと考えています。でも西暦70年以前は完全に混ざり合う事もなかったようで、エルサレムそのものが壊滅する程のことがあって、ようやくユダヤ人教会は異邦人教会に合流した、なんて見方もあるようですが。
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR