神の証明

少し前の記事に取り上げた苫米地氏のサイトに、自分が何となく気にかかっていたもう1つの点についての言及もありました。

『人間の論理的体系で神の存在の証明はできないという主張は、ゲーデルの定理を待つまでもなく、2500年、もしくは、2000年前に既に仏陀やイエス自身により、しっかりと主張されている』

自分に不完全性定理を語れる知識はありませんし、この定理を哲学や神学とリンクさせるのはどうかという人もいます。実際、ゲーデルの定理が「人間の論理的体系で神の存在の証明はできない」ことを“証明”したのか、はよく分かりません(涙)。

でも神という存在が人間側から証明も反証もできないとは、なーんとなくですが、感じていました。論理や証明という土俵に上がれば、そのルールに従わなくてはならないからです。自分も文字や論理で定義される神を信じてはいません。

『勿論、知の体系という系のなかで、これは、そもそもルール違反ですが、信仰とはそういうものであるということでしょう』

科学という知の体系においても、検証可能な予測を与えない理論は「ルール違反」だと言う人もいます。反証という行為を試みること自体ができないからです。現代物理学の良心と呼ぶ人もいる、物理学者パウリさんの言葉を借りれば「Not even wrong = 間違ってさえいない」です。でも信仰とはそういうもの、と言われてもそれでいいじゃないですか。

じゃあ真理って何ですか。経験と観測によりだれもがそうだ、と思うことですか。一つの論理的体系のルール通りに「証明できる」ことですか。


「真理とは何か」・・真理そのものとは何かという問いに、イエスは言葉では答えませんでした。


「わたしを見た者は父を見たのです」

「心の純粋な人は幸いです。その人は神を見るからです」

「あなたは神の子キリストなのか? → あなた自身がそう言いました」


解釈は別にして、あらゆるクリスチャンが信じる真理です。しかし、↑の言い回しからも、イエスは言葉や論理で証明しようとするフィールドには立ち入らないかのようです。「父」がいて、「子」は「父」に遣わされ、「父と子はひとつ」という前提(公理?)で初めから話しています。言葉である方を「ことばの点でわなにかけよう」としても無駄だったのです。

苫米地氏の言うようにゲーデルよりも2000年前に、言葉である方は言葉や論理で神性=完全性を証明することの限界(矛盾?)を示していたのか、はよく分かりません(汗)。でも聖書を読むと、後世に議論の余地を全く残さない、無矛盾であることを証明できる何かの論理で神の真理を説明する人が遣わされたのではないことは、何となくですが分かります。

「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父を見たのです。どうしてあなたは,『わたしたちに父を示してください』と言うのですか」

自分が存在することや、どういう性格であるかを、目の前にいて親しい関係にある相手に言葉や論理で証明する必要があるでしょうか。「神の存在そのものの厳密な描出」である「子」は、そのために人の内に宿り、下ってきたのではありませんか(というのがキリスト教信仰の大前提)。


「家はだれかによって造られるのであり、すべてのものを造られたのは神です」


一方、パウロには一定の論理で何かを“証明”しようとするかのような傾向もみられます。真意はどうあれ「信仰=論証」と書いたのもパウロです。才能豊かなパウロの論じ方は革新的で、実際にかなりの人を説得し、惹きつけましたが、1世紀に比べ科学・論理・証明のプロセスも飛躍的に変化しました。今や神秘とされたピタゴラスの定理を中学生が勉強する時代です。先進国では、JW成長期の1世の親たちが学生だった数十年前と比べてさえ、教育や知識の水準はかなり違います。

「牧師さんに“それは分からない”と言われるとすごーく幻滅しますよね?わたしたちは答えを知っているし、説明もできますよ?」・・・布教=説得という手法で神学や論理学とは縁のない人(自分の場合)を勧誘できた所で、それが「ほんとうの信仰」なのでしょうか。個々のJWが、イエスの教えの純粋さと信仰の本質に立ち返ることができるのか、試される時代なのかもしれません。


クリスチャンは難しいことを論じる必要はないと思います。イエスは「互いに愛し合うように」というおきてを与え、パウロも「互いに愛し合うことのほかは、何も負ってはならない」と教えました。その愛を特定の集団・グループに限ってしまうことの不完全性こそを、イエスはまさに反論の余地がない、親切なサマリア人のたとえ=で示したのではないでしょうか。
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No title

目ざめよやものみの塔の経験談を読むと、JWになった理由に「何でも聖書から答えてくれたから」と頻繁に書いてありますね。w 今年の5月の目覚めよの元カトリック信徒の経験にも「わたしたち夫婦はついに,納得のゆく教えを知ったのです。」と書かれていました。思わず苦笑してしまいました。(外科部長が長年?JWだというのも笑えましたが)
何でも聖書からはっきりした答えが出る訳がないのにね。私の会衆でも牧師が悪の理由に答えられなくて、がっかりし、その後JWと研究して何でも聖書から答えてくれるのに感銘してJWになった姉妹がいました。

>クリスチャンは難しいことを論じる必要はないと思います。イエスは「互いに愛し合うように」というおきてを与え、パウロも「互いに愛し合うことのほかは、何も負ってはならない」と教えました。その愛を特定の集団・グループに限ってしまうことの「不完全性」こそを、イエスはまさに反論の余地がない、親切なサマリア人のたとえ=理で示したのではないでしょうか。

「良心の危機」でR.フランズ氏もダンラップ氏の言葉を引用して「神と隣人を愛すること」、を強調していましたね。結局これがキリスト者の生き方の根幹なのだと思います。

それから、ブログをいずれやめるそうですね。今までよく考え抜かれた記事を書いて下さりありがとうございました。



Re: No title

「説得される」→「納得する」・・それがイエスの示した信仰とは思えませんし、少なくとも自分は人が納得できる枠内で造られたイメージが神だと信じません。

なので、「納得できない」「分からない」ことに脆い信仰になってしまい、「分からない」ものを「分からない」とは認められず、奇妙な解釈でつぎはぎするしかないのでしょうね。

No title

休止宣言のあとにまた奥深い考察ですね。

ボクも、こういうことについて最近考えていたんですが、
聖書を読むに当たってどの聖句を起点にするか?
どの聖句を動かぬアンカーにするか?
で、変わってくるのではないかと思っています。

自分の考えでは
「神は愛である」ヨハネ第一4章
(神が愛であるという考えを示す聖句は他にもたくさんあります)
を起点にするとすべてのつじつまが合うように思います。
あるいは、一見つじつまが合わないように思えても、そこにあわせて解釈していく。
聖書の全体をそこにリンクさせてゆく。
そうすると、おもしろいように愛にあふれた神の実像が浮かび上がってくるように思います。

そうなると、「神は愛」なのですから、難しい理屈をつけなくても、特別頭の良い人ではなくても「神が愛」であることを理解でき、
その特質を見倣い反映していくように努力することによって幸福な人生へとつながってゆく。
「神と隣人を愛すること」にももちろんリンクしますね。
ボクもこれがキリスト教の根幹だと思います。
やはり、「愛の神」が示してくださる真理は誰にでも理解できるもの、
シンプルなものではないかと思います。

JWの場合、起点にしてしまった聖句が創世記3:15節で
聖書の主題は「神の王国による主権の立証」としてしまい、
すべてをそこに結びつけてつじつまを合わせていったのが間違いの元だったのではないか
と思います。
それはそれで、きれいにまとまっているように思いますが、組織を重視する教理となり、
肝心の「愛」を押しやった結果、大切なものを忘れてしまい、
それがやがて会衆の疲弊化、
「愛が冷えた状態が実際に多くの会衆に見られる」結果を招いたのではないかと思っています。

覚の宗教

私がJW信仰から覚醒に向かったきっかけとなった本がありまして
「宗教の教科書」菅原伸郎さんの本の中で哲学者久松真一さんの言葉が述べられていて なるほどそうかなーと思った点が
ヤフーのはてなに挙げられていました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1045785320
「これからは「信の宗教」ではなくして「覚の宗教」になって来なければならない。 普通は信が宗教的作用と考えられているが、私は「信」が宗教的アクトであるような宗教は、結局中世的なものにならざるを得ず、「覚」がそれであるような宗教こそが、近世を越えてゆく宗教でなければならないと考えたいと思う」

うまく 説明できませんが 人間が信じなければならないような神は神でないような気がします

Re: No title

>スナフキンさん

自分も聖書の主要なテーマは「主権の立証」よりも「神は愛」であるように思います。
実際、イエスもすべてのおきてはそこに集約されると教えましたし。

さらに「主権の立証」が「神の主権を代表する唯一の組織が繁栄し、賛美されること」に
すり替わることで、イエスの教えがますます歪んでしまったような気がします。

Re: 覚の宗教

>milestoneさん

いつも興味深い視点をありがとうございます。

人間の側が崇拝の対象を造り、その対象を信じることで「神」とされてきましたよね。
結局、JWもそこから抜け出せていなかったことにようやく気づきました。

自分も人間の側が信仰することに依存する神は、神ではないと思います。
信者を増やすことで神の評判が高まるなら、まるっきりギリシャ神話ですからね。

No title

>クリスチャンは難しいことを論じる必要はないと思います。イエスは「互いに愛し合うように」というおきてを与え、パウロも「互いに愛し合うことのほかは、何も負ってはならない」と教えました。その愛を特定の集団・グループに限ってしまうことの「不完全性」こそを、イエスはまさに反論の余地がない、親切なサマリア人のたとえ=理で示したのではないでしょうか。

本当にその通りです。
主が受け入れられるのは、子どものような単純な信仰です。


ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 』」

真理はキリストそのものです。
キリストによらないでは、救いはありえないです。

黙示録14:12「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」

信仰はこのキリストです。イエスを信じる信仰こそが、父のみもとへ行くことのできる鍵ですね。「ヤコブの悩みの時」は必ずやってきますから。

アーメン!




Re: No title

ユリママさん、ありがとうございます。

自分もいろいろと難しいことを考えに考えてきましたし、考えるのは好きなのでこれからも続けますが、何周しても結局帰って来るのはこの1点しかないような気がします。

2周した人が1周した人より誇るいわれなどありませんが、周るたびにその「幅と長さと深さ」を知り、それが「満ち満ちた様に余すところなく満たされる」ことへとつながるのかもしれません。だから、このまわり道もすべてが無駄ではなかったと思いたい自分がいます。
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