贖いと信仰

少し前の記事のコメントで、苫米地英人氏のサイトを紹介していただきました。この方のことは初めて知ったので詳しく知らないのですが、書いてある内容そのものを自分の宗教体験と比較して感じたことを書きたいと思います。

自分が関わった組織宗教は主にJWな訳ですが、ここ最近、神の意図と称しながら自分の意のままに解釈を作り変える指導部に違和感を覚えるようになった理由が説明されていました。

『人間の側の行為、論理が、神の行為、そして究極的には神そのものを定義するということであり、これは、その論理で主張される存在が、「神」である以上、必ず破綻する』

自分もこのブログで「陶器師はどっち?」「業と信仰」シリーズでも書きましたが、人の側が勝手に神のイメージを定義し、そのイメージを利用して、“これをすれば・これを捧げれば・この戒律を守れば”→ 神は見返りにこうしてくれる、というのは「おこがましい」と思います。自分の場合、不完全性定理を語れる知識もないので「論理的に破綻する」からという理由ではないのですが・・

『教祖達は自分の教義には矛盾はないといいますが、実際には、イエスや仏陀が退けた矛盾で固められているものがカルトです。基本的には、イエスや仏陀が退けた「人間の何らかの『正しい』営みが、その人に返ってくるという『御利益主義』」がカルトの典型です』
 
何の説明も付け加えることができないほどその通りです。


ただ、イエスを信仰し続けたい者として少し付け加えたいことがあります。

『イエスでいえば、神は無条件かつ一方的に愛してくれているわけで、ユダヤ教律法主義における罪人であっても救われる可能性があるということですが、同様に、律法主義における模範的な人間も救われない可能性があるということです。神はあくまで、人間の側の努力にかかわらず、神の自由な判断で人を救うのですから』

以前の記事にも書きましたが、JW主権論争で、「この論争はエデンでは解決できなかった(=サタンを生かしておかざるを得なかった)」とか「それが“最善”の方法だった」とか、憐みを示されるべき罪深い人間の側(聖書という“系”の中での前提)が決めつけていいのでしょうか。過去のWT執筆者もそう主張していなかったはずです。

確かに、これは贖いにも通じるものです。神が人を救うには「子」を犠牲にしなければならなかった、とか、“公正の神”は人を救う際にも「公正の量り」を満たさなければならなかった、という考えです。動機はどうあれ、全くの無条件に救われる側が「神はこうせざる得なかった」と言い切っていいのかな、と感じます。

『イエスに信仰を持つ人を義と宣する際にもご自分が義にかなうようにされました』

パウロが何を本当に意図していたかは分かりません。神が何かをするのに“法的根拠”は必要ありません。でもあえて、人から見て、人と同じように“義にかなう”方法で救いを差し伸べてくださったと捉えています。パウロの物言いは、神を人間と対等の位置に引きずりおろすものと考えることも可能です。でもそれを、神自らが「人と同じフィールドに降りてくださった」と信じたい自分もいます。

それはイエスが示した、「神の一方的かつ無条件の愛」とも矛盾しないのでは、と思います。自分はパウロの書簡には貴重な価値があると思います。しかしパウロの書簡にそう“書いてある”からと言って、その字面通りに神は“行動する”と上目線に立ってよいのではなく、救いは贖いや人間側の贖いへの信仰に依存している、のでもありません。信仰したところで救いや、救いの保証を要求できる訳でもありません。新約筆者たちはただ、自分の信仰と希望を表明していたのではないでしょうか。

むしろ、神の側が一方的また無条件に世を深く愛して人のレベルに降りてきてくださったことにより、その愛を人に現してくださったのではないか、と自分は思うのです。それで贖いを真に信じるとは、神の側からは常に無条件に差し伸べられているその愛を信じる、ということのように思います。その“見返り”に何かが客観的に保証されるのではなく、その純粋な信仰自体がその人の内における保証であり救いなのではないでしょうか。

「人の子が到来する時、地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか」

「信じるだけなら簡単じゃん?」と思いますが、本気で信じようと思うと意外に難しく、不安になります。「自分みたいな人間でも・・?信じるだけで本当に・・?」など、どうしても客観的な保証・評価・形ある証拠を欲しがり、罰を恐れる傾向は誰しもあります。

『だからこそ、ハマる人が多いのだと思うし、また、巨額のお布施を受けて、これらのカルト教団が成り立っているのだと思いますが』

だから権威ある組織や教祖様に「この奉仕(修行)をすれば」「これだけの寄付(お布施)をすれば」など、分かり易い条件を付け加えてもらうと逆に安心するのかもしれませんね。
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信仰

苫米地氏のサイト大変興味深かったです。イエスの主張とカルトが本質的に相容れないという点は説得力がありますね。

私の場合、プロテスタントで強調される「信仰義認」、人が救われるのはただ信仰のみによるという考え方が、JWと対照的で魅力を感じました。たださらにいろいろな書物を読んでいくうちに、信仰というのが信じるという人の行為のみを意味するのであれば、それも一つの行為義認であるという見方もあることを知りました。

新約聖書学者の田川健三氏の著書で言われていることですが、一般に「信仰」と訳されるギリシャ語ピスティスには信頼、誠実、信実という意味があり、人の側が神に対して持つ信仰というよりも、神の側の信義誠実というべきものなのだそうです。神が無条件に人を愛し救われるということがまず大前提にあって、その偽らない神の誠実さに信頼することそれ自体が救いなのだ。そう考えるなら、奉仕を多くするとか集会に出席するとかいう業によって救いを得ようとするJWの考え方の入り込む余地は全くないことが分かるように思います。

Re: 信仰

信仰を人の側の「信じるという行為」と捉えてしまってはそれも行為義認になる、そして結局救いはその「御利益」に過ぎなくなる、この記事で言いたかったのはそういうことでした。分かり易い説明をありがとうございます。

クリスチャンが集まり合うとは、信仰や慰めを分け合う場であるはずが、「集まり合う」という行為自体を救いのための“要求”にして信仰を圧迫するのは聖書から逸れてしまうような気がします。
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