全創造物の初子

『初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神であった。この方は初めに神と共にいた。すべてのものは彼を通して存在するようになり,彼を離れて存在するようになったものは一つもない』

自分はイエス単体で「崇拝の対象としての神」とみなすことには抵抗があります。イエスは道であり、仲介者であり、大祭司である、とも語られています。

一方で、ヨハネ福音書は言葉を「独り子の神」としても示します。しかしJWはイエスを「神が直接に創った最初の、最上位の天使」という意味で「独り」と解釈します。



“永遠”の存在者の「独り子」(モノゲネース)とは一体何を意味するのか・・

JWも宇宙には始まりがある、というインフレーション理論を採用し、約137億年とされる宇宙年齢もがっつり受けて入れています。JWも肯定しているのでそれを前提(仮の話)にするとします。

JW出版物では触れられませんが、その現在の宇宙論や宇宙年齢の計算は、空間も時間も平等に扱う(=4元時空)理論に基づいています。その前提で数式をイジらないとJWが大好きなE=mc²も出てこないので。それで、宇宙に始まりがある=この宇宙の時間にも始まりがある、という見方をする人も増えています。

さて、三位一体を信じる人も子と呼ばれる以上、「生まれ出た者」であると認めています。では子が在るようになる「前」を仮定すると(↑の前提からすると“前”などないのだが)、空間も物質もなく、時間さえ定義できない中での神の存在とは何なのか、ちっぽけな人間の理性でどう理解したらよいのでしょうか。考えるだけでも気が遠くなります(笑)。何も存在していないのだから創造者とも言えませんし、「神」なのか「全能者」なのかもよく分かりません。父でも子でもありません。

しかしあえて“永遠”という言葉や概念さえ超えて究極的に「在る」とするなら、それはただ「在る者 = I am 」なのでしょう。なにものでもないのです。

子が生まれ出たことが、創造、空間、物質、時間、あらゆるもの、あらゆる事象の根源であるならば、単に「創造された順番」の問題ではなく、それが、創世記の冒頭を意識したかのような初めに言葉がおり・・」(その“前”はない)という宣言で、「初めからいた」んですよ、「生まれた」からと言って時間的差異がある訳ではありませんよ、という捉え方だと思います。

子に人間が認識できる時間的な始まりがないことは、「父」と実体が一つであるとする理由にはなりません。でもイエスを「最高位の天使(=被造物)」としていいのかも分かりません。何かが「在る」ようになる、その「初め(=根源、アルケー)」とは人智を超えているように思います。

「全創造物の初子(新世界訳)=「すべての物が造られる前に生まれた方」(新共同訳)

「造られた」ものはいっぱいあるが、「存在者=神?」から「生まれた」ものはただ「独り(モノゲネース:唯一)」である、その神性は認めてもいいのでは・・


追記:時間に始まりがあると言っても、それはこの世界=宇宙の時間であって、時間そのものには始まりも終わりもなく、宇宙もいっぱいあり、この宇宙の誕生と同時にこの宇宙での時間が始まった、と考える人もいます。キリないですね。今や科学も11次元とか多世界解釈とか理性を超えつつある時代です。

聖書は神が何回も「天と地を創った」とは言っていないので、キリスト教信仰としてはこの世界だけを前提に考えるしかないと思います。そもそも創造とは何か、創世記1:1の天地創造が年齢137億年の「この」宇宙の始まりを指すのか、という話になると自分がどうこう論じるレベルではないのでやめておきます。
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No title

イエスの扱いは、JWと一般の教会で大きく異なる点のひとつですね。

教会がイエスをどのような方としているかは、基本信条で端的に語られています。

「ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニケア信条)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8E%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9%E4%BF%A1%E6%9D%A1

「すべてに先立って父より生まれ」
「造られることなく生まれ」
ここに、イエスが被造物ではなく、神性を持っており、ゆえに礼拝の対象となるという信仰が表れています。

そういう神観、キリスト観を、初期の純粋なキリスト教(そういうものがあればですが)から背教したとみなすのがJW、信仰共同体として受け継いできたと見るのが教会ということになろうかと思います。

Re: No title

「初期の純粋なキリスト教」なるものが存在したか、というのは同感です。

「今この時にイスラエルに王国を回復するのですか」とイエスに尋ねた弟子たちが、イエスの人になる前の存在や、紛れもなく人でありながら「神の子」であることの真意を十分に理解していたとは思えません。実際、「子」についての洞察はイエスの死後、半世紀以上も経ったヨハネ福音書と啓示に依る所が大きいと思います。キリスト教自体が「66冊」のすべてが一度に揃ってから始まったのでもないですしね。

自分たちの解釈が次々に変わることが“神の漸進的な導き”と言いながら、キリスト教史の進展すべてを“背教”であると言うのはさすがに少し乱暴な気がします。

No title

そもそも新約聖書として最初に成立したのはパウロ書簡で、イエスの物語を描く福音書が成立するのはその後なんですよね。そして、最も早いマルコ福音書には降誕物語や幼少時の伝承が含まれず、復活後の記事も簡潔ですが、最後に成立したヨハネ福音書は冒頭で「言葉は神であった」と宣言します。このように初期教団の信仰も、時を経て進展しているので、やはり流れで捉える必要はあると思いますね。

Re: No title

仰るように福音書も成立した時期によって趣が違いますし、新約書簡のパウロとヤコブでも、だれのために、何の目的で書いたかで観点に違いがあったりもします。所々の一字一句を無謬とするよりも、旧約をも含めた全体の流れや背景を考えることは必要だと自分も思います。
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