神のイメージ

② 現在の三位一体は様態論ではなく、位格には区別がある

三位一体を、H2Oが「水蒸気と水と氷」に変化することや、同じ人が誰から見るかによって「教師であり父であり子である」ことに例える人がいます。これは、本質的に同じもの(人)が全く異なって見える(呼べる)存在になる、という点ではよさそうですが、神が一人三役を「演じ分けて」いるようにも取れてしまいます。

タマゴにたとえる方もいます。こちらは区別できる3つの要素「黄身と白身と殻」で1つになる、という点では適していますが、三位一体ではそれぞれの位格が本質的に等しい神性を備えているのでこれも違います。

三位一体を人間の日常的な「ことば」や「たとえ」で説明し、理解しようとすることには必ず不完全さが伴うことは、それを信じている人たちも認めるところです。

最近では位格が別 ⇒ 存在も別で、絆の強い夫婦や親子のように「一心同体」的に一つであればOK、というほとんどJW寄りの捉え方さえ許容されつつ?あるようです。それで「父と母と子」「太陽と月と星」といったもう完全に別存在のまとまりに例える人もいます。

はっきり言ってそういう例えはぜんぶ、厳密に正統とされる三位一体論ではJWと同じく異端になりかねないのですが、信じ方はどうあれ、“さんみいったい”を信じています、と「ことば」として否定しなければそんなに怒られることもないようです。三位一体は今では割と寛容になりました。

皮肉ではなく、その人がどんなフィルターを通してであれ、聖書を読んだ上で自分なりのイメージで「かみ」を捉え、誠実に信じ、愛し、感じているなら、それを否定するために使えそうな聖書の字句をあちこちから探してその信仰を攻撃することに意味はあるのか、と思うのです。

「父と子と聖霊」「・・・・・・」ですから、JWが騒ぐまでもなくあたりまえに人間の言語では、3つの異なる“もの”について語っていることは、小学生の国語力で分かります。そのすべての本質が等しく、かつ実体(存在)としても一つであるような“もの”は物質界には存在しないので、他のどんな「・・と・・と・・」に例えることもできません。それでも“身近な”ものに例えたい、近似でいいから分かりたい、というのは人の性で絶対にダメとも言えないのでしょう。



一方、かつては聖書研究者だったJWが、ここ数十年は「えほばのしょうにん」と名乗り「えほば」と発声して祈ることも・・まあ否定しません。それこそ自己責任で。

でも今思えば、ものみの塔協会を手中にしたラザフォードがたった一人で深夜2時に突然思いついた(預言者か)という、そのご自慢の名称で「組織」を名乗ってから、独自路線をアピールして「数」はいくらか増えたのかもしれませんが、方向性としてはちょっと違い始めたような気もします。

重ねて念のためですが、三位一体を擁護する訳ではありません。少なくとも、自分たち以外の信仰や説明すべてが偽りだ、真っ先に神に虐殺されると言うなら、その相手の信仰が本当に意味するもの、そして自分たちがまいた結果刈り取ることになる批判にも耳を傾けるべきです。それが最近書いている幾つかの記事の主旨です。
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No title

一連の記事、よく研究されていますね。
勉強になります。

結局、ハッキリとした実体がない分野ですので、水掛け論になってしまうのかな、と感じています。
どちらにもそれなりの根拠があるようにも思え、(そう取れなくもないなという根拠ですが)
どちらも自説を主張しているだけなのかな、とも自分には思えます。

神がもし、聖書の述べるように公正で愛に富まれる方であるならば
誠実な人が探求してもなかなかたどり着けない、そこまで難解なものであるはずはないとも思います。

Re: No title

自分も、神の本質が人間の「合理的説明」で優劣をつけていいものなのか、と思い始めています。

「分かりたい」「知りたい」というのは人の性ですが、あまりに単純化しようとすると二元論(自分は正しい、あなたは間違い)に陥る危険はあるのかもしれません。

「重力」が本質的に何であるかはサッパリ分かっていませんし、イメージや理論も多様です。でもだれもが毎日感じ、どう作用するかは正確に計算できますし、その説明はほぼ一致しています。

神が同じように遍在する力だ、とまで言いたくありませんが、信じる人には毎日近くに感じ、作用する(導く)ものだと思っています。「子」の本質が何なのかを議論するのもいいですが、イエスが教えと行いで示された愛や憐みは誰でも理解でき、その「子」を通して「父」を見て、引き寄せられる、というのは聖書を読む人みんなが一致できると願いたいです。

No title

神学的立場からJWを論じているブログは少ないので、大変興味深いです。

三位一体は「神秘」と言われるように、合理的説明で正しいとか間違いと言えるようなものではないように私も思います。むしろアリウス派とか単性説の方が論理的ですっきりしていると思いますし、そこに魅力を感じる人たちもJWをはじめ少なくないのでしょう。

ただ言えると思うのは、三位一体でなくてはどうしても伝えられないことがあったのではないか。何か他人事ではなく、神御自身が人となって地に降り、苦しんで亡くなってくださった、という物語が表す迫力。そういうものを、初期の弟子たちはきっと共有していたのではないかと想像します。合理的な説が退けられ、非合理な教義が正統とされた理由は、そのあたりにあるのではないでしょうか。

Re: No title

>AC後屋さん

神学に立ち入るつもりはなかったのですが、いつの間にかこうなっていました・・

確かに、ヨハネ福音書と啓示のように、イエスに対する強烈な敬愛と畏敬、「わたしと父は一つ」という宣言を理性では捉えきれない、絆の強い親子以上の何かを感じる人もいて、その神秘性が多くの人を引き寄せた時代だったのかもしれませんね。

一方、この現代において宗教的信仰にも独自の合理性と分かり易さを追求しようとした試みにおいてJWは独特な団体で、そこに興味を持つ人もいるのだと思います。

No title

ご返信ありがとうございます。

JWという宗教運動がなぜ生まれ、それが組織化されてそれなりの支持を得たのかを知るためには、その思想的背景への神学的考察は避けて通れないものと思います。

おっしゃるように、JWは創造論においても、また他の分野においても、自分たちの教えに「科学的」根拠があることを強調します。そしてそこに従来の既成宗教にない価値を感じて惹かれる人たちがいるのもまた事実ですね。

そういうこともあって、JWから脱するためには、ただ組織から脱退するだけでなく、そういうJW的価値観も含めて、それは彼らが言っているようによいものなのか、正しいと言えるものなのかを問い直す必要があるように思います。今後の記事にも期待しています。

Re: No title

当初の予定にはなかったのですが、自分もこの問題を避けて通れないように思えてきました。

愛があると言っても主観と会衆によりますし、熱心に宣伝していると言ってもウソはどんなに宣伝しても真実にはなりません。逆にJWが唯一の「真理」を伝えているなら、個々の人間の不完全性は(ある程度)許容されて然るべきで、彼らの「真理」の根幹部分を検証する必要を感じました。

何が何でもJWを辞めてほしいとも思っていませんが、組織・統治体支配からは脱してほしいと願っています。
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