増える神の子

ペンテコステの日に120人が聖霊に「満たされた」という記述から、神の霊が120人に同時に宿る(注がれる)ことが分かりにくい、と感じる人は多いです。

これまで書いたように、そのことについての“合理的説明”は存在しません(だからJWも自分たち以外の“合理的説明”をしてみろと騒ぐのですが)。神の聖霊が遍在するかのように複数の人に同時に宿る・・それを内なる神と表現する人もいます。内なる神という言葉自体は聖書にありませんが、感覚としては↓のような幾つかの聖句からきているようです。

「その(神の)霊による力をもって,あなた方の内なる人を強くしてくださり,信仰により,あなた方の心の中に,愛をもってキリストを住まわせてくださるようにするためです」

『キリストの中にこそ,神の特質の満ち満ちたさまが形を取って余すところなく宿っているからです。 そのためあなた方は,彼を通して満ち満ちたさまを有しているのです』


一人一人の中に神の満ち満ちたさまが宿ることを可能にするのが、キリストを心の中に住まわせることであり(キリストが“増える”ことはない)、それはその人に宿る聖霊によります。その霊が、クリスチャンの信仰と経験によって生じる内なる確信と共に「アバ、父よ!」と叫び、その人が神の子であることを証しする、と書かれています。



JWは「心にキリストを住まわせる」という信仰経験については「イエスの“精神態度”に倣う」と捉えます。JW大会で話をしたある長老も、この内在という考えを否定して、「たった500gの心臓にイエスを“入れる”ことなどできますか」と「物質の人」モード全開で語ったそうです。

イエスに倣うことは聖書も勧めていますし、いいことです。でも霊によりキリストを内に住まわせ神の子と証しされることは、イエスに倣って人間の不完全性を克服しようとする努力によるのでしょうか。だとしたら一生無理でしょう。むしろ、聖霊は信仰による無償の賜物です。

でもクリスチャンは「神の子」と証しされても、人として肉にある内は罪から逃れられません。
その葛藤をパウロは語りました。

だからJWはイエスに倣おうとして、倣おうとして、倣おうとして、これをしなきゃ、あれをしなきゃ、これをしてはだめ、あれもしてはだめ、と言い聞かせては落ち込む人も多い。14万4千人は自分より、もっともっともっと、イエスに近くて“完璧に近い人”(イメージ)がなるべき、神もそういう人を選ばれる、と考えます。自分を裁くだけでなく、特権もないのにパンを食べる人をも白い目でみます。「選びに関する神の意図」を人間の業、組織の評価で量っているように思います。

動機は悪くないですし、頑張ることも大事です。でも無償の賜物である聖霊は、わたしたちの努力に依らず「信仰により」一人一人に宿って神の子という内なる証しを与えてくれるものです。クリスチャンは「何か」を行うとしても、それは感謝と愛に基づくものであって、頑張ることの結果や報いとしての救いや祝福されたステータスを強調し過ぎるのもちょっと違うような気もします。

日本人は特にこの傾向が強いようです。欧米では普通に食べる人もいて、14万4千人ってどんなに神々しくてイエスに近い人なんだろうと勝手に思い込み、海外で有名人追っかけ感覚で会ってみたら普通のおばちゃんだった、なんて話も聞きます。

そういう根強い空気と統治体の恣意的な解釈にも負けず、最新のJW年鑑によると、1万3204人の人が神の子として証しされていると表明しました。JWの中でこの数が着実に増え続けているのは歓迎したいです。
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