偏在と遍在③

旧約では神が特定の場所で、特定の個人と会話している個所があります。遍在する霊の神といっても、いつもそうでなければならないと人間が決めつける理由もなく、一つの場所に存在するかのように描かれている個所もありますし、実際にできる方でしょう。

しかし預言者や天使を介さず個人と直に交渉を持つのは稀で、数千年の歴史の中ではわずかな回数です。ソロモンほどの王に対して生涯中、「二度も現れてくださった方」です。旧約では二つ以上の異なる場所に同時に現れた記録もありません。基本的には神の臨在を示す「一つ」の場所(幕屋→神殿)、「一つ」の経路(モーセなどの預言者)がありました。

一方クリスチャン会衆が誕生した時、すべての人が、同時に、神の霊(聖霊)を宿しました。

『あなた方は自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか』

イエスが予告したのはこのことです。ゲリジム山でもエルサレムの神殿でもなく、霊である神を、すべての人が自らの神殿(=神の臨在)で崇拝する時が到来したのです。神の霊が一人一人の内に宿り、その人の神殿で真理=道=イエスを通して近づく時にいつでも祈りを聞いてくださることを示しています。

旧約と新約で崇拝の在り方が大きく異なっているのは事実です。さらに聖書自体、それぞれの筆者がいろんなイメージで、表現で、たとえで、自由に神を感じ、語っているかのようです。そのすべてに“統一した説明”でつじつまを合わせようとすること自体に無理があるように思えます。

神の本質は変わらなくても、人間が神に近づく方法は変わりました。そして神ご自身も、人間が考える一つのイメージや“説明”に縛られる必要もありません。そこにこそ、過去・現在・未来のどの時点においても、「在る者である=I am who I am」という神聖なる宣言の真髄が関わっているようにも思うのです(このくだりは完全に自説)。





追記:例えていいのかどうか分かりませんが、80年近くも決着を見ていない問題に量子状態の解釈問題があります。ミクロな粒子は観測しない内は場所を特定できず、どこに存在するかという確率でボヤーっとした「雲」か「波」のイメージでしか説明できない、という問題です。

だるまさんがころんだ状態です。振り返らない内はどこにいるか分からない。人間ならオニが見ていない内も必ずどこか1点にいます。でもミクロな粒子は観測しない内は本当にボヤーっと複数の場所で波のように重なり合って?いて、現実に干渉を起こす。

主流はコペンハーゲン解釈(重なり合い⇒ 観測?⇒ 超光速!で1点に収束)でしたが、計算できてその予測や結果が正確なため本質を問おうとする人が少ないだけで、本音を聞くと“説明”として正しいのかは分からないという専門家も多いようです。

「1つの実体」が複数の状態で重なり合う、なんて“説明”を物理科学が認めていいのか?という反論を分かりやすい思考実験にしたのがシュレディンガーの猫の話で、日常的な世界観と一致する“たとえ”や“合理的説明”を独自に試みる人もいます。
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