偏在と遍在②

神の遍在について、以下の聖句も言及されることがあります。

「世界とその中のすべてのものを造られた神,この方は実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。・・そして,一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。・・したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののように思うべきではありません」

ここでパウロは、時間と場所に限定されない、永遠に遍在する神を「定められた時と居住のための一定の限界」を持つ人間と対比させている、という捉え方です。

「神はひとりひとりから遠く離れているわけではない」・・これはキリスト者にとっては抽象的な表現ではなく、また本当は、はるか遠くにいるけど超光速で天使を派遣してくれる神なのでもなく、文字通りにおいて、そうなのです。だからクリスチャンにはもう、神殿は必要ありません。神を一定の居住の限界を持つ存在のように考えてしまうからです。

他方、JWは体と居場所を持つ神を想像します。遍在というとボヤーっとしてイメージしにくい、非人格的で身近に感じない、と言います。「神たる者」を日常的・物理的イメージで理解できることが“身近”である、ということかもしれません。別記事で書きますが、三位一体を信じる人にもこのような傾向はあります。人の性です。


神は地上の幾億人もの人が同時に祈るとしても、すべての人のそばにいて、祈りすべてを聞かれる方です。膨大な情報を同時に処理するならスーパーコンピューターでもできます。でも祈りとはJWも言うように、二つの人格が意思と感情を通わせることです。神は人の祈りを聞き、喜び、哀れみ、同時にある出来事を“見て”、憤りを感じることがあると聖書は書いています。

JWは詩篇139編のように神の遍在と取れるような記述はすべて聖霊によって可能になる、と主張します。それは三位一体でも同じです。ただJWは、聖霊を物理的な電気エネルギーにたとえます。また、遠く離れた場所にいるだれかと携帯電話で話すときに媒介する電波のイメージです。

一方、三位一体では、電波や電気のように一つの源から複数の場所に同時に分配するイメージ(モデル)は同じですが、ただの“エネルギー”や“波”が、あらゆるところで喜び、悲しみ、怒ることはありません。「聖霊を悲しませてはならない」と新約は教えているからです。携帯電話で話す相手を傷つけてしまった時、「電波を悲しませた」と擬人化することにどんな意味があるのでしょうか。

それでも無数の神や神の分身がいるのではなく、神はただ「一人」です。遍在という人間の言葉で括っていいのかは分かりませんが、神は霊であるので人間の日常的イメージをはるかに超えた方である、というのが三位一体の考えです。最終的に「神はだれに対してもすべてのもの」になられる方です。新約においてその大きな変化をもたらしたものが聖霊と言えるでしょう。

三位一体は合理的説明による理解ではなく、助け手である聖霊による信仰の対象と言われています。JWは宗教的信仰なのに合理性にこだわり過ぎていると思いますが、ただ「理解などできない、信じよ、聖霊は与えられん」と言われて幻滅する人がいるのも事実ですし・・今さら自分がどうこう言える話ではないですが難しいところですね。

続きます。
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

No title

 どうして、「神が遍在する」ということと、「三位一体」が関係あるんですか? まったく並行の話題のように思うのですが。

Re: No title

びゅうさんごめんなさい、びゅうさんには事前にお知らせしようか悩んだのですが・・でも聖書を読み込むにつれ、神が人間の思いつく“唯一の説明”に縛られる存在ではないように思えてきました。びゅうさんの記事にあったように、なにものでもなく、すべてのものである、聖書の中でさえそのイメージは多様です。

だから「さんみいったい」と関連付ける必要は全くないのですが・・一応「さんみいったい」はキリスト教の中で最も広く、歴史ある信条なのでそれを反響板にしようと思っただけなのです。JWでしか聖書を教わらなかった人がいる一方で、三位一体でしか神を知らない人もいます。主な責任は教える側にあるのであって、それぞれのイメージで誠実に神を信じる人すべてが裁かれるとも思えなくなりました。

「見せかけであっても真実であっても、あらゆる方法でキリストが言い広められている」ことをパウロは歓びました。今みたいに形ある宗派に分裂していなくても、細かい所では割と自由な理解で「キリスト」を熱く語る人はいたのかもしれません。イエスがキリストであり、肉体で来られたことを否定する人だけが「反キリスト」でした。三位一体も無謬の信条とは決して思いません。でも裁くのは神に委ね、誠実に神を信じる他の人の信条も尊重してほしい、との願いから書いています。

JW関係者向けを意識しているので、寄せ方としては三位一体側になってしまいました。表題を一部変更し、今後も「さんみいったい」との比較は控えめにしたいと思います。

No title

 質問しただけで、おどかすつもりはなかったんです。三位一体論と神の遍在論は、別々の内容なんじゃないかなぁと思ったので伝えてみました。

Re: No title

> おどかすつもりはなかったんです。

よかったです・・小心者なので(笑)

もちろん、遍在⇒だからさんみいったい、にはなりません。でも捉え方の土台というか根本からして違う、ということ言いたかったのです。いつも絶対に「一つの場所」にいる、と決めつけることもできないと思うので。
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR