三位一体

キリスト教を正統か異端かに区別する教義。立ち入りたくない所に踏み込んでみます。

過去に他のキリスト教関係者の方々とも意見交換したこともありますが、キリスト者であってもこの三位一体⇒ 区別があるそれぞれの位格とそれが本質・存在として「一つ」であること、をどう捉えているかには個人差があると感じます。

ただ「父と子と聖霊の名においてバプテスマを施すように」という聖句が示すように、三位一体を合理的説明よりも信仰そのものと結びつけることが多いようです。

「知識を超越したキリストの愛を知ることにより、神が与えてくださる満ち満ちたさまに余すところなく満たされる」

「生きているのはもはやわたしではなく、わたしと結びついて生きてくださるキリストです」


こういう聖句が三位一体を証明している訳ではありません。こういう類の聖句でパウロが語っているのは、何か客観的に証明できる事実ではなく、自らの信仰と経験によって生じる揺るぎない内面的確信です。

『神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。・・あなた方は養子縁組の霊を受けたのであり、わたしたちはその霊によって「アバ、父よ!」と叫ぶのです。霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています』

「わたしたち(父と子)が一つであるように、彼ら(弟子たち)も一つになるためです」

JWは↑の「一つ」とは、共通の目的・考えにおいてに過ぎない、何人いても「一つのチーム」でしょ、のように日常的なたとえで説明します。とても分かりやすいです。

しかしキリスト者にはそうではないようです。聖書において、神の像に創られた人類が罪により永らく疎外された時を経て、再び「神と一つ」になることが、何かのチームメイトになるとか、そういう日常的なレベルのことではない、と考えています。

霊に導かれることにより、子であるキリストを内に住まわせ、その霊により、父と子が「一つ」であるように、その霊を受けたクリスチャンも神の子として証しされ、父と子と「一つ」になる・・そのすべては知識すら超越した神の愛であると。

それがキリスト者にとっての信仰=明白な証しのようです。JWにとって信仰とは「第三者に反論の余地がない合理的な説明をすることで証明する」ことのように捉えますが、キリスト者にとって信仰とは、まず自らの内における証しなので、第三者には否定しえないのです。

自分は三位一体を信じているとは言いませんが(信じれば当然辞めるでしょう)、三位一体についてのJW側の偏った捉え方と、それに対するズレた反論を聞かされてきたことにも気づきました。

三位一体を受け入れていないのは少数派であってもJWだけではありません。ただ、末端JWの表向きの穏やかさとは裏腹に、彼らの主張そのものはかなり過激で、排他的です。

JWを批判する人は本当によく調査しています。JW教材もきちんと“研究”しています。批判目的としてもです。JWも他人の信仰が偽りだと言うなら、反論するという目的であっても、まずその信仰を理解しようと相当の努力をした上でそうすべきではないでしょうか。

続きます。
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