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神は全能?③

自由意思の話になったのでおまけですが、JWの主権論争は次のたとえで説明されています。

『今日,極めて重要な劇が進行しています。・・特にエホバ神の主権の立証にかかわっています。この劇は,ある国で生じ得る状況を例にして説明できます。秩序を保つ正当に設立された政府がある一方で,詐欺,暴力,殺人によって支配する犯罪組織があります。この非合法組織は,主権を有する支配者に対する挑戦となっており,政府への全市民の忠節が試みられています』-2010年ものみの塔

完全に覚醒しきっていなかった当時も???でした。

政府がいつでもその非合法組織を余裕で壊滅させることができるなら、それを放置することによって一体何が“証明”されるというのでしょうか。政府の無関心と怠慢ですか。その犯罪組織のボス(=サタン)は時間さえあれば“殺人と暴力で支配した方が市民はより幸せに暮らせる”ことを証明できるなんて主張していると、その政府は本気で考えているのか・・という疑問。

こういうアイデアの基になっているのは、ラザフォードが思いついた、この世のすべてを「善人の組織(=JWからすれば自分たち)」「悪人(サタンの手先である『世の人』)の組織」に乱暴に分ける二極・二分思想なのかな、と思ったりします。

他方、聖書によれは「すべての者は罪を犯したので神の栄光に達し」ません。

また「全世界の罪」という言葉もあるように、罪の逸脱の程度に差はあり、実際に人を殺したり騙したりするのは一部であっても、すべての者は罪人であるゆえにその共同責任を負っている、というのが聖書の教えです。「だれ一人、神以外に善い者はいない」のです。

『もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なる方イエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります』

「だれか」が罪を犯すことがあっても、それは「わたしたち」の罪であり、そして「全世界」の罪でもある・・聖書を読んで衝撃を受けた考えです。「わたしたちが他の人の負い目を許しましたように、わたしたちの負い目をもお許しください」・・本来であればすべての人が敵も味方もなく罪をあらわに告白し、互いに許し、許されることを特色とする聖書の精神に感動したものです。

JWもこの「全世界の罪」という共同責任の概念を受け入れているはずですが、自分の組織だけにはそれを全否定します。徹底的に隠蔽して、裁判で明らかになっても「おいたをするのは組織に“入り込んだ”一部の悪人・・」と言い逃れる「協会」の人を見て、悲しくなりました。

「だれか」が罪を犯しても「わたしたち」の罪ではないし「組織の罪」でもないのです。

人間の忠誠問題はヨブによって解決されました。ヨブに生じた出来事は彼の罪に因るものではなく、サタンが直に仕掛けたものです。しかしJWはこれを勝手に普遍化して、都合の悪いことが起きると、自分の罪、全世界の罪を思い出すよりも「サタンよね~」になるのです。

・・話を戻しますが以上のことから、人間が苦しむ理由、それを聖書から答えるとすれば第一義的には自らの罪の結果であると自分は理解しています。

おまけのつもりがまた長くなってしまったので続きます。
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善悪二元論

ここにおもしろい記事があります。
http://blogos.com/article/73892/

危険な宗教の見分け方という本の紹介記事なんですが、
オウムの上祐さんと田原総一朗さんの対談が紹介されています。

やはり、精神構造や、信じていく課程ががよく似ているな、と思わざるを得ませんでした。

・自分を、なるべく重要な存在だと思うことができること
・有能な、善意の人たちが、『人類を救うため』に頑張っている
・教祖が一番信じているから、周りが本当に信じてしまう
そして、
・特定のものを信じて他のものを否定する、これしかないというと、善悪二元論になり、悪と見なしたものと戦うことになってしまう
という点。
これはこの記事でGUABELLOさんが指摘しておられる点ですよね。

良かったら、読んでみられて、感想を聞かせていただけたらうれしいのですが。

Re: 善悪二元論

これは考えさせられる記事ですね。

・人を、人類を救うことに没頭することで自らの価値を最大化する
・善悪二元論を説き、悪と戦う

でも宗教が救いと善悪を説くのをやめれば宗教でなくなってしまう気もします。かといって宗教=悪とすればそれも二元論になる、と記事主さんも仰っています。

自分は「人は究極的に利他的になれるのか?」と真面目なJW時代から問い続けてきました。イエスに倣えばできる、と言われてもそんな単純には思えませんでした。「イエスに完璧に倣っている自分」に酔いしれているオーラたっぷりな人もいました。宗教一般でも「神のため」「人のため」という人がおかしなことをします。だれしも「自己価値」を高めることがどこかにあるのかもしれません。

少なくとも、「集団」を絶対視すること、やはりこれだけはしてはいけないと思いました。自分もどこかの記事で書きましたが、「集団」を絶対視するのは「何かデカイことをする」という目的があり、一人で何ができるのか=集団を離れる=自己価値の喪失、という選民意識が植え付けられ、それが神の名のもとに誤った方向に導かれると悲劇が生じるのでしょう。

人は究極的に利他的になれるのか?

読んでくださいましたか。ありがとうございます。

「人は究極的に利他的になれるのか?」
これに関して言っておられることわかります。

難しいテーマですよね。利他的なつもりでやっていても、ただの自己満足だったり、相手にとっては迷惑であることすらあります。
日本の野外奉仕はすでにそうなってしまっているように感じます。

それに利他的といっても、無反応の相手に親切を示し続けることは実際難しいですし、感謝を示さない相手に親切を示し続けることが果たして本当に利他的か。相手を甘やかしてしまう結果になるのなら、それもまた利他的とは言えない気がします。

また、利他的と言っても、動機も様々のように思います。
「恩讐の彼方に」という、小説がありますが、主人公は過去の悪事の後悔の気持ちから自分の信じた善を行っていきます。ぼくはそれは一つの利他的な姿の完成形かなと思いますが。
そして、今の世の中で究極的に利他的な人を目指しても、利己的な人に単に利用されるだけの残念な結果になってしまうのかもしれません。
難しいテーマですね。 ボクもよく考えます。

話しを戻すと、JWの場合、
「集団に属している」だけでなく
「集団の中で自分の立ち位置はどこか?」で自らの価値を最大化してしまっている部分があるのではないかと思います。
開拓者、奉仕の僕、長老、ベテル奉仕者、巡回監督。大会の時の自発奉仕。
そして、その肩書きや立ち位置を目指して、業を行うように組織もその感情をうまく利用していますね。
たくさん頑張ればより目立つ地位が与えられる。
あるいは、頑張っている人と思われたいから、頑張っている人に与えられるその地位を目指す。そして、それは神から与えられることになっている。

ボクはJwの中には頑張っているんだけど、なぜか自尊心が低い人が多いと思っているのですが、これはなぜなんでしょうね?
その自信どこから出てくるの?と、思わせる人も確かにいますが、それだけ頑張っててなんで、反省ばっかりしてるの?と言う人もけっこういます。

Re: 人は究極的に利他的になれるのか?

やはりJWの制度が純粋な動機を汚してしまっていますね。サウロを改宗させた手柄でアナニヤが“クリスチャン大会”でインタビューされることもありませんでした。集会・大会が論功行賞の場になり、布教量を実名で公表(補助すらやらない人はそれ以下、ということ)、開拓者を入り口とする特権階級制度、キリがありませんね。やがて組織内の評価・立ち位置=自己価値になる・・

見栄えの数字を良くしようとして、「敬虔な専心という形を取りながら、力において実質のない」組織になりつつあることをひしひしと感じます。
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