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放蕩息子②

では、排斥制度が生み出す一例を考えてください。

JWの十代の女の子はボーイフレンドができ、聖書的な過ちを犯します。そのボーイフレンドとの関係は続きませんでしたが、自分にはもうJWを続けるのは無理だと感じます。審理委員会に召喚され、だれと、何を、どこまでしたのか洗いざらい聴聞されます。さらにその時点でJWを続ける気がない⇒排斥です。自尊心はボロボロです。

やがてこの女性はその傷も癒え、一人の男性と誠実なお付き合いをして、結婚し、子供もできます。でもJWの両親は結婚式にも来ませんでした。「組織に禁じられて」いるからです。

その後も親から、元気にしているかの連絡さえ一切ありません。それも「禁じられて」います。

JWに戻るつもりはありませんが、家族として和解したいと思い、勇気を出して実家に帰ります。

しかしJW親の一言は、「あなたがここに来るのは利己的だ」というものです。

以上のストーリーはJW若者に生じえるあくまで一般的な話です。しかし、この父親のセリフはこれと似たような経験をしたデンマークのJW女性が実際に言われた言葉です。↓

「エホバの証人研究」http://www.jwstudy.com/docs/newsreview_denmark_tabita/

この女性がこの組織で「献身の誓い」をしてしまった以上、自己責任なのでしょうか。十代の女の子にそこまでの可能性が理解できたのでしょうか。また知らされていたのでしょうか。公式ページの「排斥されても家族の絆は変わりません」という言葉からこの現実が想像できるでしょうか。

前記事のDVDでは語られないこういう事例があることも知らされる必要があると思います。

聖書の「放蕩息子」の話は、普通の親子の関係を描いています。さらに文脈を見るとイエスは、自分たちの基準から見て「罪人」とみなす人を裁くようなパリサイ人の見方を正すためにこのたとえを語りました。この話を読んで聖書の神はこの憐み深い父親のようだというイメージを持ち、自分もそれに倣おうとする、それで十分ではないですか。

しかしJWは、この父親→エホバ→エホバの組織→だからこの息子はエホバの証人という宗教組織に手順通り復帰する意志がある人だけにあてはまる、と解釈します。では聖書を読んで、この話を特定の宗教法人団体に帰属することに結び付けて考える人が、どれほどいるのでしょうか。

この息子はただ、「徳性を最大限に放棄」する生き方をやめ、下人でもいいから共に住む許しを得たかっただけです。その息子を父親は最良の宴で迎えたのです。では、過ちを犯したのは昔のことで、今はまっとうな生活を送っていて、家族としての絆ゆえに訪ねてきた子供を、“自分たちの基準”ではまだ悔い改めていない利己的で邪悪な者とみなし忌避し続けるのはなぜですか。

せっかくのこの感動的な親子の話に「何かの組織の解釈・方針」をねじ込んで、父親を頑迷で狭量な存在に変えてしまう必要がどこにあるのでしょうか。
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