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業と信仰⑤

信仰が人に行動を促すことはパウロも語っているので、ヤコブの言葉はそれと全く矛盾しているとは考えませんが、「集会は週○回」「毎月1回の布教報告」など人が決めた一定の習慣を「義と宣せられるための神の要求」であると課すことはヤコブが意図したことでさえないと思います。

現代でもヨブのように極度の失意や深刻な健康問題に悩まされ、JW活動という業を行えない時期にある人もいるでしょう。しかし統治体は、意識不明でない限り毎月布教報告を出す、それが忍耐する=救われる、という意味だ、と日本中の信者の前で口にしたのです。

このシリーズの最後ですが、預言者が書いた訳ではない新約の一字一句、しかも文脈や背景を無視してその文言自体が無謬であるかのように権威にすることには、リスクが伴うと思います。

「血を避けよ→輸血も禁止」

「業のない信仰は死んでいる→布教報告しないと救われない」

「あいさつさえしてはならない→組織が排斥した人も無視」

「2人の証人が必要→めちゃめちゃクロでも1人だから絶対に何もしない」

・・など、所々の文言だけを取り出して自分たちは文字通りやっている、という原理主義は、分かりやすいゆえに危険も潜んでいます。しかもその文言を解釈し、信者を裁く権力を少数の人間だけが持つのが本当に1世紀のクリスチャンの型なのでしょうか。

「あなた方の語るところは一致しているべき」という聖書の言葉は、すべてのクリスチャンが目標にすべき理想論と思います。1世紀のクリスチャンは完全に一致していた訳ではありません。今回のシリーズで書いたパウロとヤコブのスタンスの違いは自分なりの捉え方で、一般のキリスト教の理解とも少し違います。でもそれ以外にも多くの対立やトラブルが、「気持ちの良い正直さ」で記録されているのは事実です。でも彼らは時に譲歩し、時に意見をぶつけ合い、そして和解し、同じ主を信仰しました。新約部分はそういうことも教えているのであって、その過程での一人一人の発言すべてを無謬の権威とみなすべきなのでしょうか。

しかしここでも、JW統治体は「語ることは一致しているべき」という文言だけを取り出して、自分たちの解釈と一致して語らない人間を一方的に除名する根拠にします。

人を真に一致させるのは権力ではなく、真実のみがそうできる・・と願います。

もう「地球が丸い」かどうかで議論する人がいないのと同じです。人間が一致できる真実の知識などまだその程度かと。それで表向きの一致のために権力に盲従して真実から目をそむけるのではなく、「神の義を第一に求める」ことを聖書は勧めています。

些末な解釈において「語ることが一致」できなくても、クリスチャンがその理想を求めながら「同じ主を信仰する」ことは可能でしょうか。自分は可能だと信じたいです。
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No title

 僕は開拓奉仕を始めたときに、巡回監督から「神の王国を第一にしている生き方をしていますね」といわれました。でも、時間の多さって、神の王国を第一にしているかどうかとは、まったく無関係ですよね。

 奉仕の形はどんなものであっても、外面から、そんなことが判断できるわけがないのに。

 外面重視で、褒めたり、悪く言ったり、無視したりするのは、やめてもらいたいですね。

Re: No title

>びゅうさん

コメントありがとうございます。

「王国と神の義を第一に求める」がいつの間にか「JW活動の時間を最優先して増やす」になっていましたね。すさまじい論理の飛躍ですが、当時は何とも思わなかったのが不思議ですね。
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