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業と信仰②-聖書は無謬か

結論から言えば、聖書、特に新約部分は無謬ではないと思います。

お、聖書まで否定し始めたか、と思われそうですが、「このブログの目的」シリーズにも書きましたが最初からそのスタンスは変わっていません。

聖書は類を見ない本だとは思いますが、万物の造物主である神が存在するとして、人が書いた1冊の本で時間さえ超越するその神のすべてを知るなど、到底不可能であると思います。

この本が様々な人間によって記され、編纂されていく過程で神の意志が働いたことはあるのかもしれませんが、その一字一句が無謬である、と考えるのは行き過ぎた原理主義だと感じます。

誰かが直接書いた本でさえ、その「本」は書いた人自身より偉くはなりません。その「本」を勝手に利用する人間のアイデアに、書いた本人が縛られる筋合いもありません。

本を崇拝すると、微細な言葉遣いや一字一句を読む側が勝手に解釈して、筆者の意図はこうだとか、筆者はこういう人に違いない、など本の解釈が独り歩きするからです。それで、聖書についてもその全体のメッセージを汲みとることは必要だと思いますが、一字一句の解釈に隠されたメッセージを探すかのように目を血走らせる研究や議論にはあまり興味がありません。

「聖書全体は神の霊感を受けたものである」

この文言を取り出して、JWは“聖書”すべてが無謬だと言いますが、当時の聖書とは旧約の預言者たちのことです。まだ新約部分はその目録すら存在しない時です。

「聖書の預言はどれも個人的な解釈からは出ていないということです。 預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです」

「神は,昔には,多くの場合に,また多くの方法で,預言者たちによってわたしたちの父祖に語られましたが,これらの日の終わりには,み子によってわたしたちに語られました」


それで、神の霊感によって直接語られたとみなすのは「預言者」たちのことであり、新約の書簡を書いた使徒でさえ、「神が自分によって語った」とは主張していません。新約での例外は巻末のヨハネへの啓示であり、その名称が示すようにそれは直接の啓示です。

たとえば、新約の四福音書には、同じ出来事を記録していても矛盾しているように思える部分があります。批評家たちは些細な矛盾を探しますが、JWもムキになって聖書にはいかなる矛盾も存在してはならぬ、と必死のつじつま合わせで対抗します。

別に福音書の筆者は預言者であると主張していませんし、まして過去の出来事を記すときは、伝聞や記憶の間違いがあってもおかしくないと思います。だからと言って、その部分には価値がないということにはなりませんし、大事なのは福音書全体から読みとれるイエスの人物像とそのメッセージであって、一字一句のつじつま合わせで争うことに意味はないと思っています。

JWが聖書の一字一句に至るまでの“不可謬”に頑なに固執するのは、「聖書を擁護する」という名目ですがその実、聖書の断片的な文言を取り出して自分たちの解釈や制度に利用する特殊な原理主義が否定されてしまうからです。その結果、一字一句に拘るあまり聖書全体の精神を無視してしまい、「ぶよは濾し取るがらくだは呑み込む」状態に陥っています。

これを書くきっかけになったのは前回の記事、「業と信仰」の問題です。この問題でも新約部分には筆者によって矛盾しているように思える部分があります。次回に続きます。
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No title

こんばんは

僕は旧約聖書の方が無謬ではないように感じますが、どう思われますか?
特にノアの洪水とか。

No title

 僕も聖書無誤謬説は、無理があると最近思うようになってきました。無誤謬という主張は、説得力に欠ける気もしています。それよりも、真実を記そうとした、聖書筆者の心のほうに、注目を向けるほうが、よい気がしています。

ちょっと観点が違うかもしれませんが

使徒行伝15章のエルサレム会議のあとに、各会衆宛の手紙の文面が記録されていますよね。結びの言葉が

「健やかにお過ごしください」(使徒15:29、新世界訳)

です。
かつてこの言葉は
《エルサレム会議で決まった禁則事項を守っていれば身体的な健康が保証された》
という解釈が『ものみの塔』あたりに掲載されました。
ところが、しばらくして突然、
《この言葉は「ごきげんよう」というような単なる挨拶です》
という見解が出てきて、
「えええええ!」
と思ったものです。正直なところ聖書を理解するには、当時の風習など歴史を知らないと正しく判断できないでしょうね。まぁ、高等教育は受けておくべきであるという現実ですよ。

ちなみに、新改訳ではこの結びの部分を

「以上。」

と、あっさり訳しています。こちらの方が意訳ではありますがスッキリしますねぇ。

聖書も歴史の勉強して読まないとね。ではでは。

Re: No title

>スナフキンさん

返信遅くなってすみません。

旧約も基本的には真実の記録と思いたいですが、一字一句無謬かというと・・微妙ですね。JWでさえ「7日間創造」は“特殊”創造説と呼んで否定してますしね。

でも、ビブリア・ヘブライカを研究している超敬虔なユダヤ人に聞いたら、「夕となり朝となる」という言葉と共に「日」が単数形で使用されるなら、それはヘブライ語において文字通りの「1日」のことで、「抽象的」まして何千、何万年もの期間を表すことは絶対にない、と言っていました。

思わず「あり得ない」と言ってしまうと、「神と聖書を信じる人が、“あり得ない”などと言っていいのかね?」とにこやかに仰っていました。そりゃごもっともで(笑)。

まあ出来事としては新約の使徒やイエスもそれが起きたものと捉えていますので、旧約の字句通り起きたのかは別にして、それに近い事実はあったものという前提で行きたいと思っております。

Re: No title

>びゅうさん

彼らの言葉を"権威"とするよりも、その心に注意を向ける。これ大事ですよね。1世紀の使徒たちも自分の言葉を他人が絶対の「権威」として使うように、なんて考えていなかったように思います。

Re: ちょっと観点が違うかもしれませんが

>ちーさん。

手紙末尾の何てことない「一言」にそこまで意味を付していたとは・・JWらしいですね。

聖書の基本的なメッセージはだれでも理解できると信じたいですが、予言や歴史解釈まで踏み込んで他人(信者)に対して拘束力を持たせようとすれば専門的な教育と知識は必須である、というのは同感ですね。余計な所に立ち入ればボロがでますし、一般信者が高等教育を受ければその間違いに気づいてしまうので勧めない、そんな現状でしょうか。
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