業と信仰①

ちょっと間が空いてしまいましたが、以前の記事で、ヨブの忠誠は業によるものではなかったこと、「主権の論争」に人間の業による忠誠が含まれる、という解釈には聖書的根拠がないことについて書きました。しかし聖書には「業のない信仰は死んだもの」という言葉もあります。

純粋な動機で何かの業を行えば、神はそれを喜んでくださるのかもしれませんが、それは幼い子供の書いたつたない絵を見て親が喜ぶ程度のことです。

『ご覧ください,天も,いや,天の天も,あなたをお入れすることはできません。まして,私の建てたこの家など,なおさらのことです。けれども,私の神エホバよ,この僕の祈りと,恵みを求める願いを顧みて,懇願の叫びと,この僕がみ前にささげております祈りをお聴きください』

イスラエルで最も繁栄を極めたソロモン王でさえ、人間の業が神の御前で取るに足りないものであることを謙虚に認め、自分の業を誇るよりもただ神の恵みと赦しを求める祈りを捧げた。

自分たちの組織を拡大するための業で「神の予言を成就させている」「神の主権の正当性を証明している」など人間側の勝手な驕りで、ソロモンの謙虚さとはかけ離れた主張です。組織信者にはこの上ない快感なのかもしれませんが、現実社会で生きるまっとうな信者には重荷と罪悪感を課す概念になり始めています。

「わたし自身、責められるようなことは何も意識しないからです。しかしそれによって、わたしは義にかなっていると証明されているわけではありません。わたしを調べる方はエホバなのです」

なので、組織や人にダメとかイイとか言われてどう、というよりも一人一人が聖書を読んで↑のような自尊心と慰めを得られることが大切なのだと思います。その人は「何かを証明する」ためにではなく、ただ感謝に動かされて、人にではなく神に対して何かの業を行うこともあるでしょう。

クリスチャンの集会とは、そういう励ましの場であるべきだと思います。月「70時間」「50時間」「30時間」「それ以下」など、布教時間でランク分けして個人名を公表する場ではありません。

親子の間に“組織”という「家庭教師」が割って入り、「親をもっと喜ばせたくないのか」と子供が書く絵の枚数や上達度を数値化してノルマを課すようなものです。

ここまでスパルタな巡回監督は最近珍しいのかもしれませんが、「言い訳をする」信者が増えていることに辟易しているのか、「(たった)週2回の集会に来れない理由など本当にありますか」とか、布教の量・方法についても「これくらいはできませんか」などとおっしゃっる方がいます。仕事もせずに現実社会から乖離して生きていると、こんな無神経な発言にもなるのでしょう。巡回監督の質も地に落ちたものです。

「スパルタ家庭教師に評価される」=「親に喜ばれる」と思い込まされた子供の中には絵が上手くなる子もいるのかもしれません。しかしついていけない子供は、「自分は絵を書くのが人より遅い」「どうせ下手だ」と落ち込み、そのピュアな動機を汚すだけです。

エホ証の現実でも、責められるようなことばかりを意識し、落ち込むどころか気持ちを病む人もいます。

当の家庭教師は、自分の指導で傷ついた子供など存在しないかのように業績だけを誇ります。

やがてこの家庭教師は愛情深い親が雇いたいと思っていた人とは全く別人の、なりすまし自称スパルタ教師だったことが明らかに・・そんな結末だったら本当に悲惨ですね。
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No title

 私は「知りても行わざれば未だ知らざるなり」ということもあるかなと思います。

 「良い」と分かっているけどやらないという人は,それの「良さ」を本当に分かっているとは言えないし,逆に「悪い」と分かっていてもやってしまう人は,それの「悪さ」を本当に分かっているとは言えないのではないかと。

 おそらく聖書が促しているのは,神に喜ばれる「業」があったとして,それをすることが本当に良いことだという確信と情熱を担保する「信仰」を育てていくことではないかと思っています。

 心に満ちるものを口は語るのだとするなら,私たちの行動もまた同じでしょう。そして,何らかの行動を神が喜ばれるのだとするなら,神がご覧になるのは,その業ではなくその言動を支える(あるいはその背後にある)心の特質でしょう。

 子供の絵を見てうれしく思うのは,その絵の上手さや美術的価値ではないでしょう。むしろ,子供がその絵を描くときの親に対して抱いている子供の思いを喜ぶのだと思います。

 イエスが磔にされたときのこと。イエスの隣で磔にされてまさに悪党として死のうとしていた人の信仰の表明に対して,イエスはその人を是認する意味のことを仰いました。この悪党さんがそのときにいわゆる「業」を行えたとは思えません。この悪党さんにとっては,もう一人の悪党さんを叱って,イエスに対して「イエスこそが約束のメシアだと思う」という自分の信仰を表明することこそ,彼の信仰をあらあわす「業」だったのではないかとか。

 つまり,神が喜ばれる業の種類と量は当人の状況によるものであり,人間が客観的にはかれるものではあり得ないでしょう。

 ノアの時代に,神は人の心の考えの傾向をご覧になったという記述があります。私たちが今まで何をしてきたか,今現在何をしているかも大切な点でしょう。しかし神が人を評価されるときには,これからどうしていきたいか,どうなりたいと願っているかという方向性をご覧になって評価されるというのはぜひとも覚えておきたいと思います。

Re: No title

とても考えさせられるコメントありがとうございます。

残念ながら、自分の属するJW組織では布教の量(数字)と方法論ばかりが強調され自信をなくす信者もいます。肝心の信仰を育てるべき教えでは、現行の上層部による支配体制を維持するための奇妙な解釈変更を繰り返します。

磔にされ五体の自由を奪われた罪人が命の最後に口にしたイエスへの信仰の「ことば」・・
それを「業」と言うにしても、人が客観的に量れるものではないというくだりに感動しました。

大切なことに気づかせてくださるコメントに感謝です。

No title

こんばんは
私は 未だに 月に30や50時間が補助開拓で 70時間が正規開拓者という制度に 違和感 を 感じます
神は 心を調べられる方 と 学んだはずなのに こんな 営業ノルマのような数字を課せられるなんて ・・・ 何のためなんだろう  って
ずっと 疑問でした。
  

Re: No title

>よっこさん

必ず記念式にあたる3月4月、巡回さんがくる年2回の月は30時間で“補助開拓”になれますとか、ペラッぺラのパンフを“出した”数も報告せよとか、最近はもう数字の見栄えを良くして予算を獲得することに腐心する官僚組織に成り果てた感があります。

ダビデは人数を数えただけで神罰が下ったというのに、そんな数字を自慢して神が喜んでくださると本気で思っているのでしょうか。
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