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義に過ぎてはならない

↑は聖書の教えです。自分もこんなブログ書いていて時々感じますが、「自分は義に過ぎているのではないか?」という思いです。

自分は間違ったことが嫌いです。かといって、自分が「間違っている」と思う事ばかりを批判しないように気をつけたいとは思っています(一応)。

でも現役JWの方々に思い出してほしいのは、みなさんがJWになった理由の一つも「間違ったことが嫌い」だったからではないでしょうか。

実際、JWは人の正義感のようなものにアピールして勧誘します。この「世」で一部の人がしている悪事・犯罪・戦争・不正ばかりをクローズアップして、この「世」全体に幻滅するように仕向けます。

一方、ひとたび信者になれば、自分の組織にはいつも「積極的で寛容」になるよう教育します。メディアやネット、また自分の目でJW組織の間違いを目撃しても、

「一部の人間がしているだけ」
「これくらいの“不完全さ”は大目に見ろ」
「“つまづく”のは信仰が足りない証拠」

と繰り返し言い聞かされます。同じように寛容な見方を「世の人」や「この世の組織・宗教」に向けてあげられないものでしょうか。最近話題になっているホテルレストランのメニュー“誤表示”問題でも「自分の組織には甘い」傾向が見られます。

「利益のために騙そうとする悪意はなかった」
「認識が不足していた」

など、“偽装”であるとなかなか認めようとしません。

この人は組織のトップですから、仕方がない面もあると思います。 組織には何百人もの従業員がいて、大部分は真面目に働いている人でしょう。組織がつぶれてしまえば従業員が職を失い行き場に困るので、「自分の保身」というよりも「組織の保身」を考えなくてはなりません。これが組織立つことの宿命でしょうか。JW上層部にも同じような意識が働いているかもしれません。

メニューの中に「言葉」として文言に含めておいて、それと違う食材であることを知っていたのであれば、「悪意」があったか、「騙そう」としていたか、という主観の問題で済まされるものではないと思うのですが・・JWも解釈変更のたびに似たような自己弁護をします。

「騙そうとする悪意はなかった」
「“別の”理解ができることが分かった」

絶対に、それが「偽り」「間違い」であったことを認めません。多数の信者に「真理」であると大見栄をきって言葉にして書いたことが間違いであったのなら、「悪意はない」で済まされる問題なのでしょうか。民間企業であれば一応謝罪もしますし、トップが引責辞任することもありますが、JW組織はそれすらありません。宗教権力・組織には自浄作用がないと言われても仕方がないでしょう。

『偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう』

この聖書の教えからすれば、痛みを伴うにしてもまず自分の属している組織にこそ厳しい目を向けるべきではないでしょうか。“大部分の信者はいつもついてくる”と上層部がタカをくくれば、この組織はますます間違った方向へと進み、さらなる犠牲者を生み続けるでしょう。

高い金を払ったのに自分が思っていたのと違う種類のエビを食べさせられた、程度ならそれ程実害はないですが、輸血や終末の解釈なんかは、命や家族、そして人生がかかっています。悪意のない“誤表記”でした、で解釈を変えられてはたまったもんじゃないですね。
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納得しました。

わかります

とても、考えさせられる記事でした。ほんとにそう思います。

「自分は義に過ぎているのではないか?」
自分もこう思うときがあります。
これをいつも自分に問いかけていくのも大切と思います。
それを続けている限り、あるていど大丈夫でないかと。(笑)

そして、僕も間違ったことが嫌いですが、
義に過ぎている人も嫌いです。
義に過ぎた人は自分が中心になっていることが多いから。


このバランス感覚ってとっても難しいと思います。

ほんとにむずかしいけど、
聖書に書いておるとおり、そこに”愛”があるかどうかではないでしょうか
それも、自分を中心とした一人よがりの”愛”ではなく。
いつも隣人を中心とした他人、特に弱い人たちの目線から考えた”愛”かな~、と。
いつも、そこに気をつけていれば大外れはないのかな~、っと。

でも、小さな親切大きなお世話になったりすることもあり、ほんとに、難しいですね。

でも、やはり、聖書に関わった人間として、これからも”愛”を示せる人として生きていきたいですね!

Re: わかります

この点は自分もいつも考えていますが、何かを基準にする、と言ってもそれを解釈するのは人間なので、結局、だれもが自分が正しいと思うことを信じるしかないのでしょうか。ただ自分の義を示すことより聖書の説く“愛”を示すことの方が大事だ、というのは本当にそうですね。

でもだれが見ても正しい、あるいは間違っている、ということもあるはずです。

他のJWブロガーの方が書いていましたが、一つは「数字」です。1+1=3にはなりません。

もう一つは「言葉」です。この記事で取り上げた食材偽装のように、ただの「ネギ」を「九条ネギ」と言い張ることもできません。たっぷり愛情を込めて料理したと言ってもウソはいけません。

それでものみの塔が数字や言葉で何かを「宣伝」してそれが間違っていたのであれば、何をどう言い訳しようが、それは「偽り」です。それを指摘するのは義に過ぎたことではないと信じたいです。「真実なことと共に歓び」たい、願いはただそれだけです。

重ね重ねわかります(^^)

組織が嘘をつくとき、そこに仲間の兄弟姉妹たちに対する純粋な”愛”はないと思います。
あるのは、組織を守ろうとする”愛”と、組織の中にある自分の立場を保ちたいという保身の気持ち=利己心だけ。
ですので、気づいた者がそこを糾弾するのは私も正しいことと思います。

イエスはパリサイ人の偽善を容認されませんでした。
古代の預言者たちも神の民であった、王たちを含む古代イスラエル国民の偽善を糾弾しました。

ですから、毅然として、正しいことは正しい。間違いは間違いである、と、述べるのは聖書的に見ても正しいことと思います。
まして、ここ最近になって組織の間違いは単なるミスではなく、明らかに意図的なものであることがハッキリしてきていますので、そこを指摘することは義に過ぎたことではないと思います。

Re: 重ね重ねわかります(^^)

>スナフキンさん

ありがとうございます。

自分も最近の解釈変更には確信犯的なものを感じます。騙そうとしているとまでは言いませんが、これが「今の」組織に必要な解釈で、信者にも「その時」必要なものをあてがい、状況が変わればまた別のアイデアを考えればいい、それが「時に応じて」与える我々の神聖なる使命だと開き直り、もうそれが真実かどうかは本人たちもあまり気にしていないと思います。

「時に応じて」というのはごはんの時間(笑)のことを言っているだけで、「時に応じて」解釈を変えて真実を犠牲にする、という言い訳ではないと思うのですが・・
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