神はどこにいるか(おまけ)

前回の記事のおまけですが、JW統治体が勧める「研究」とはJW教材のみをお勉強することで、「個人的な研究」は禁じられています。

聖書の調査や討議を行なうために証人たちが独自に作った様々なグループを,「忠実で思慮深い奴隷」は認めていますか。

これは、当時「真理真」さんというハンドルネームの方が作成した資料の中で転載されている、2007年の王国宣教に載せられた質問です(31P)。まだその資料全部に目を通した訳ではありませんが、圧倒的な情報量と考察によるものすごい力作です。

上記に対する質問の答えは、当然のごとく「いいえ、認めていません」というものです。

その様々なグループが「意見交換や討議のためにウェブサイトを立ち上げている」ことも言及されているので、当然ネットも監視しているでしょう。

「『忠実で思慮深い奴隷』の監督のもとで制作もしくは組織されたのではない、いかなる文書も、集まりも、ウェブサイトも、その『奴隷』は認めていません

他の「奴隷」が同じ仕事をしようとすると打ちたたく「よこしまな奴隷」のようです。だれが「忠実な奴隷」であると見なすかはイエスのはずですが、その「奴隷」を認めるのも「奴隷」であると、いつからそうなったのでしょうか。

こういう記事を書くこと自体、そういう文書・集まり・サイトが現役JWからも一定の支持を集めていることを認めてしまっています。組織信者は統治体とは、「長年聖書を研究していて自分たちよりもずっとずっと理解がある人たち」と思わされています。しかし元統治体レイ・フランズの証言によればそうではありません。彼は統治体になる前は「聖書理解の助け」を執筆したことでも知られるように「聖書研究者」でした。しかし統治体になると、世界中の事例に対して指示するための多数決による規則作り、人事の形式的な承認作業などに追われ、全信者に影響を持つ統治体のメンバーに聖書そのものを研究する姿勢と時間が不足していることを危惧し始めます。

組織の統制や資産管理の事務手続き、中央集権を維持するための密室会議や無数の秘密文書のやり取りに明け暮れる人間たちに、自らの保身や組織の利害抜きに聖書を調べるピュアな姿勢が欠落していくのは当然の末路です。フリーな立場で聖書を真摯に研究する個々の人に神の霊が注がれて、その多様な感性や考察に他のクリスチャンが刺激を受ける・・そんな当たり前のことを否定し、ただ上から必死に統制を図ろうとする行為そのものが、もう彼らの記事や集会・大会の内容の魅力が危機的なまでに薄れていることを証しています。

「イエス・キリストが今日の地上の会衆を通して成し遂げておられる事柄から、個人的な探究によってそらされてはなりません」

「個人研究」はよくても、「個人的探究」は禁止どころか排斥の事由にさえなり得ます。平信徒は現時点でのJW解釈を説明した教材だけを使って聖書を学んでください。

「イエスが成し遂げておられる事柄」??

たった6年前の記事ですが、このあたりからでしょうか、組織の解釈=神の約束、組織の制度=神の取り決め、組織の活動=イエスが成し遂げ中の事柄・・崩壊間近の独裁政権じみた、半ば自暴自棄とも言えるファシズム的な解釈や表現が溢れてきたのは・・
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