陶器師はどっち?

真面目な聖書の話を書きます。昨日のものみの塔集会の記事。「神は陶器師」のたとえ。

神は自らを陶器師とし、形作られる人間をその手にある粘土である、言われました。

「陶器師が粘土で作っていた器は彼の手によって損なわれた。それで陶器師は戻って,自分の目に作るのが正しいと見える通りにそれを別の器に作っていった。そして,エホバの言葉が引き続きわたしにあって言った、『イスラエルの家よ,わたしはこの陶器師のようにあなた方に行なうことはできないだろうか』と,エホバはお告げになる」

陶芸家(陶器師)は自分が作った器が気に入らなければ割ります。そして作り直します。

当時神の選民であったイスラエル国民も当然、神の目に正しい状態でなくなれば、いつでも「割られ」てしまう存在にすぎませんでした。

しかし神は続いてこうも語っています。

「わたしがある国民,ある王国に向かって,根こぎにし,引き倒し,滅ぼすと語ったのに,その国民がわたしの責めたその悪から実際に立ち返るときにはいつでも,わたしもこれに下そうと考えていた災いを悔やむ」

つまり、人間の側が態度を変化させるなら、「割る」ことはしない、ということです。

ここまでは聖書に書いてある通りだと思います。問題はその後の“解釈”です。

「エホバはご自分の主権を行使する際、その贈物(自由意思)を無視されません・・とか、

「エホバは人間の反応に応じて扱い方を調整することにより、陶器師のような権威を行使されます・・など、

別に間違っていないのかもしれませんが、その書き方です。

ちなみに、「自由意思」という言葉は聖書にはでてきません。まして「神は人間の自由意思を無視されない」とも書かれていません。これは前々から思っていることなのですが、エホ証の大きな間違いの一つは、聖書の記述を過大解釈するあまり、「神は○○な方なので、こうされる(はずだ)、とかこうされない(はずだ)」など、形作られる人間の側が神のイメージを「形作って」しまい、神がその「自分たちが形作ったイメージ通りに行動する」はずだ、と恐れ多くも人間の方が神の行動を方向づけるかのような書き方をすることです。

人間が態度を変化させるとき、神がそれに応じてご自分の明言した意図をさえ変化させるのは、ただ過分の憐みにすぎません。それを「神は人間の自由意思を無視されないので、人間の反応に応じて扱い方を調整します」というのとでは、意味合いが大きく異なると思うのです。神に対してさえ上から目線かよ、と感じずにはいられません。

聖書は「神は愛」とか「神は善良」など、はっきり書いている部分はあります。しかし人間の側が、神は○○な方なので、こうします、とかこうしません、などその行動まで普遍化して言い切ってしまう事には問題があると思います。間違っているいないに関係なく、ただの人間側の解釈です。

意識せずともこういう教育が、エホ証が神の見方や行動を、組織が形作ったイメージに沿って思い込み、さらには他者に対する神の見方さえ一方的に決めつけてしまう、という勘違いのもとになっているような気がします。ただの勘違いで済めばいいのですが。次回に続きます。
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