批判することについて

批判することからは何も積極的なものは生まれない、という批判(笑)も聞きます。

でも、それはどういう批判をするかにもよる、と自分は思います。

学生時代かじった程度で哲学を専門に学んだ訳ではありませんが、止揚=アウフヘーベンという考え方があります。何でもうのみにするんじゃなくて、いったん止める(否定する)、でも下げるんじゃなくて揚げる。

「古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される」

否定するにしても全否定するんじゃなくて、いい所は保持する。そういう建設的な批判をするべきなんじゃないでしょうか。宗教に限らず、人間の思想・芸術・制度はそうやって「新しいもの」を生み出してきた面もあると思います。

ラッセルは様々なキリスト者の考えに自由に耳を傾けることで、聖書を調べる喜びや新鮮な理解を再発見した、とエホ証DVDで紹介されていた。その部分だけ面白かったです。やがてラッセルは伝統的キリスト教の価値観を大胆に否定することで人々の支持を集めます。

しかし2代目ラザフォードは“専制”だと批判する理事たちを一方的に排除し、「自分たちだけが神の組織」と他宗派との強引な差別化を推進し、内部の批判も弾圧するようになった。

「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求め・・実際的な知恵に逆らって突き進む」

エホ証は外部からも内部からも批判を一切拒絶し、自らを孤立させることで、知恵(聖書の理解)において何の進歩もなくなります。ひたすら組織拡大により自らの正当性をアピールすることだけに「突き進んで」きました。進歩してきたのは、外部からの批判を一切拒絶し、内部からも批判させないようにする教育、批判者は即刻排除できる制度・理論作りであって、その統制の結果、数は多少増えてきたのでそれを「神の祝福」と勘違いしています。

自分も十分に建設的な批判ができているとは思いません。でも無責任な批判もしたくないので、このブログでは聖書への信仰や宗教心そのものは否定しない、というスタンスで書いています。エホ証の聖書解釈も全部を否定しませんが、組織を高め賛美するために聖書を利用するような解釈は、その矛盾を指摘します。

この組織を改革しようとかは考えていませんが、留まるにしろ離れるにしろ、組織の指示をただうのみにして実行し、他者にも強要するロボチックな存在になってほしくないというだけです。そういう人は自分の心身が削られ苦しむか、組織の名において他人を傷つけ苦しめるか、どちらかに(両方にも)なる、という現実をイヤというほど見てきました。

このブログの内容もエホ証の解釈や組織の批評がメインですが、肯定的なことだけは全部公式に書いてあるので批判中心になってしまうのは否めません。でも当然全部をうのみにする(そんな人いないと思いますが)のではなく、客観的に評価してほしいと思っています。
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考える

崇拝は
「理性による神聖な奉仕」(ロマ 12:1)
なわけですから、「考える」という過程は必須ですよね。
中学校の英語でも習いました
“stop to think”
は、考えるために立ち止まる、という意味で大切なことであると。

しかし、今は思考停止の感が否めません。
私が納得できないのは
「全血輸血はいけないが、分画の利用は良心による」
という解釈が出たときでした。
多くの方が疑問を抱かずにこの方針を受け入れていますが、私は
「分画は良心による」
という考えを聖書から示せずに悩みました。
クリスチャンは聖書に従って生きる。そうであれば、聖書に記述がない事柄をあたかも聖書の教えに見せるのはどうなのか?と。

個人的なことですが、私は身体的な問題があるために信仰の有無によらず輸血ができない体です。そうであっても、あくまでも「聖書的根拠」を考えたい気持ちが強いですね。

ではでは。今回も興味深い考察をありがとう。

Re: 考える

ちーさん、

自分も血液分画“解禁”の解釈あたりから気づき始めました。
血漿の90%は水分ですが、血から抽出した水を飲めるんでしょうかね。この人たちは。
血液にしか含まれない固有の成分ならなおさらでしょう。

人が死んでいるので組織の体面上、輸血禁止は撤回できないが中途半端な妥協が矛盾を生む。
そんな場当たり的な人間の解釈に神聖な命をかける気は失せました。
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