輸血について③

では最後に、「避けよ」という命令はどんな方法でも体内に取り入れてはならない、という意味か。

前回書いたように「血と絞め殺されたものを避けよ」という聖書の命令は、当時は食用の肉を血抜きせずに食べてはならならい、という意味でしかない。その点はWT教材も認めている。

彼らはこれを現代の輸血という医療行為にも適用する。その理屈は「避けよ」=「食べてはならない」→だからどんな方法であれ体内に取り入れてはならない、という過大解釈。

食べることと体内に取り入れることはどんな場合でも同じなのだろうか?

前回、輸血とは、血の滴る肉を食べる野蛮な行為とは異なり、命を救うための医療行為である、という点で臓器移植に似ていると書いた。事実エホ証は、臓器移植は容認に転じた。

では臓器移植において、「食べる」ことと「体内に取り入れる」ことは同義なのか?動物のレバーやホルモンのように人間の臓器をも食べることと、命を救うために臓器を移植することは、どちらも「体内に取り入れ」ているのだから、同じように野蛮な行為なんですかね。


「血を避けよ」という命令を文脈や聖書の教えを全く無視して、ただ「血を避けよ」という文句のみを利用してそれを輸血にも強引に適用しようとする統治体は、輸血という命を救うための医療行為を、人を殺してその血が滴る人肉を食べる、という野蛮な行為と同列に置いている。
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輸血について

はじめまして。輸血に関する記事を興味深く拝見致しました。私は現役エホ証ですが、所謂「無活動」状態です。心はもう既に彼らから遠くかけ離れています。理由があって未だに留まっています。初めてエホ証の存在を知ったきっかけは大ちゃん事件からでした。それまで考えたこともなかった輸血という問題に気がつかされました。  結論から言えば、「輸血を受けるかどうかは個人の判断で十分」だと思います。あなたが仰る通りです。それをまるで神からの命令のように扱う組織のやり方に問題があります。ただ、殊子供に関しては、親の判断が必要です。大ちゃんのときも、通常なら親の判断として尊重されるべき問題でした。そこにエホ証という訳の分からない新宗教が絡んで来た為にあれだけ大きな報道の扱われ方をしたのだと思います。
大人が自分で選び、判断し、結論したことに対しては、個人の意志として尊重されて然るべきです。

組織は、普段なら考えもしないような問題を時々取り上げて、意識を刺戟します。輸血に関してもそうです。私たちは、医者からある医療を勧められた場合、それをよく調べたり考えたりすることなく、医者の言うことだから、と安易に受け入れる傾向があります。輸血にも多くのリスクがあることを知りました。輸血由来の病気も多々あるようです。

組織は、確かに極端です。如何にも人間指導のやり方です。決して組織を擁護するのではありません。少し距離を置いて見たときに、自分自身で考えなければならない問題に、改めて気付かせられると思います。

組織の狭量さは、この先恐らく自らの首を絞めるでしょう。

Re: 輸血について

私も、個人で聖書を読んで輸血したくないと思う人がいるならそれは尊重されるべきものだと思います。しかし実際には様々なリスクのためにできるだけ輸血をしたくない、という人はいても、昨日のニュースのように、尊い命そのものを犠牲にし、不測の緊急時に救命措置としての輸血までをも拒否する、という人をエホ証以外に知りません。

そしてご指摘の通り、これが大きな社会問題になったのは、エホ証という宗教団体が自分たちだけが神の経路であり他に救いの道はないと主張することで、信者をハルマゲドンと破門の恐怖で縛り、事実上の輸血禁止の命令をしていたためでした。

その一方で「統治体の責任」の記事で書いたように、「信者は個人の決定でそうしている」と言い逃れできるよう非常に巧妙で狡猾な書き方をすることには長けています。信者を「聖化」するために様々な禁止事項が加えられていった時代の、明らかに行き過ぎた過大解釈ですが、人の命が実際に失われてきたのでもはや引くに引けなくなっている、という現状だと思います。
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