サタンの手先②

寄付徴収の発表のおかげで中断しましたが、その前の記事の続きです。

そもそも普通の人生にささやかな幸せを感じることができる人はエホ証にあまりいません。エホ証の典型的な勧誘方法は、「家族でも問題が生じているのはどうしてだと思いますか」とか「世の中にはどうしてこんなに問題が多いのでしょうか」など、とにかく現状に対する不満を煽るものだからです。

一方、ほとんどの人は自分の家族は完ぺきではないが、それなりに幸せである、世の中にも問題は多いが、自分はそれなりに充実した人生を送っていると感じています。

しかし、エホ証はとにかく現状への不満や疑問を募らせてからの、自分たちが描く「理想の家族」「理想の組織」「理想の楽園」を宣伝します。

そんな謳い文句につられるのは、自分を犠牲にするより「何かを求めて」エホ証になるタイプの人が多い。しかし入信しても、自分の家族は「理想の家族」になるどころか、非社会的な戒律と義務要求で家族崩壊の危機、でも自分が絶対に正しいのでエホ証にならない夫や子どもを「サタンの手先」呼ばわり、家族が反対を諦めてもその先は同居離婚状態、さらに唯一の救いであるはずの会衆も「理想の組織」からは程遠く、「理想の楽園」も何度も先延ばしにされる現実にやがて気づきます。会衆に居座り続けるオバチャンたちからは、自分の境遇に対する愚痴と、会衆と他人への批判とねたみの言葉ばかり、そんな人間が集まる針のむしろのような場所に行ってもさわやかになるどころか、気が滅入るだけの若者は離れていく。これが、日本という増加が頭打ちになった国でエホ証が行き着く末期的状況です。

エホ証信者向けの記事に「不満を持つな」「批判するな」という内容が多い理由は、もともとそういうやり方で人を集めているからです。「今受けている祝福に注意を向けよ」とか言いますが、あなたたちの勧誘と教育は、神が義なる者にも不義な者にも、分け隔てなく与えてくださった「今あるささやかな幸せ」に満足するどころか、それを否定するようなやり方ですよ。まず無理です。

エホ証という一宗教団体に所属しなければ味わえない祝福なんて所詮、言葉巧みに作られた人工的な幻想によって生じる自己満足という錯覚でしかありません。聖書の神はそんな人を偏り見るちっこい方ではありません。絵に描いた餅のように、現実とは程遠い「理想の家族・組織・楽園」などの写真や絵を見せて回る布教など、本来のクリスチャンの布教ではありません。

「だれがまず神に与えて、その者に報いがされなければならないようにしただろうか」

聖書は結果として、神は忠節な者に報いてくださる、と書いています・・が、↑の聖句にあるようにまだ信者にもなっていない人「まず、報い(=祝福)」ありきの、神に先んじるような布教をしてはならないと思います。使徒17章のギリシャ人へのパウロの証言はそれを教えてくれます。「柔軟性のある紹介の言葉」なんて小手先のテクニックばかりで取り上げられますが、本当に大事なのは証言の中身です。

パウロがユダヤ人の背景を持たない人への布教の際にも、改宗することの利得など微塵も語らなかったのはなぜでしょうか。パウロ自身がそういう仕方でイエスに召されたのではないからです。

「彼がわたしの名のためにいかに多くの苦しみを受けねばならないかを、わたしは彼にはっきり示すのです」
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忘れてはならない事実

イエスが天から行動なさる時が近づいている現代社会です。
この時代の人々の特徴は、世の悪に嘆き悲しんでいることではありませんでした。

新世界訳から: 
マタイ 24:37~39
「人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。洪水前のそれらの日、ノアが箱船に入る日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。そして、洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが、人の子の臨在の時もそのようになるのです。」

ここで判るのは、自分の生活に満足している人々が多く、嘆き悲しむ人の多さではありませんね。悪への嘆きが特徴ならネフィリムの暴虐に悩んでいた例を出したはずです。

「聖書の言葉など知らなくても私たちは幸せですよ。」
という人々が現実に多いことが忘れてはならない事実です。無関心なのではありません。個々のみなさんがそれなりに幸せ感じ上手になっているのですよね。イエスの言葉をキチンと読むとこのような結論となると思いますが、どうでしょう?

No title

GUABELLOさんだったら、報いを強調させないどんな証言をしたいのですか?

幸せか幸せじゃないかの尺度は人それぞれですが、きっとこの世の悪に対して焦点を当てているのは、「真理を求めている人」がこの世の悪に対して非常に嫌悪感を持ちやすく、人知の限界をどこか理解している特徴があるからではないでしょうか?

ネフィリムの件に関してもそうですが、旧約の場合は特に聖書は神からの視点がメインなのではないでしょうか?神にとって悪として映り、それを反映して人間のノアも希なことに当時の人間の生活に背を向けていたのではないでしょうか?ネフィリム時代の人たちにとって、ノアは「超珍しい、超変わった価値観の人間」の記録なのでは?

聖書で褒められている人たちって、この世でも十分幸せ♥な人にとって、見えないものに対してめちゃくちゃ熱くて、めちゃくちゃ空気読めない人たちばかりだと思います。しかし神には愛されているじゃないですか(笑)。それは訓練で鍛えられるよというわけです。ものみの塔に書かれているのは、「神に愛され体質になっちゃおう★」みたいなものでは?(笑)



Re: No title

いろいろと質問をいただき、一度に答えるのが難しくなってきました・・「終末論」でも「幸福論」でもないのなら、聖書を信じる人が今伝えるべきメッセージとは何なのかはいずれ記事にしようと思い、下書きはできているのでお待ちください。

旧約聖書の事例や預言者を引き合いに出して「異なった価値観」を植え付けようとするのはものみの塔の常套手段です。舟を作るようにとの命令は神からのものであり、ノアが人生のすべてを費やして舟を作る姿は奇異に映ったに違いありません。この事例を使って布教に人生のすべてを費やすように、そして「変わり者」と思われようが「神からは愛されている」と信じさせる教育です。

でも、その命令が「神の代理」と主張する人間からのもので、舟が完成して100年経っても洪水など起きず、その舟がただ朽ちていく中でノアが死んだとすれば、なんて「哀れな人生」だったんだろう、と思われたでしょう。本人が「巨大船を作ったことで自分は神に愛されているはずだ」と思って幸せに死んでいくならそれでいいのかもしれませんが・・。「1975年」や「1914年から1世代」を信じながらも死んでいき、1914年から100年経って朽ちかけている巨大老朽船のような組織に支配されている善良なエホ証を可哀そうだと感じるのも同じ理由です。繰り返し外れたタイムリミットに弁解の余地はないと思います。神は偽らないので。それでも信じ続ける信者がまだいるのは、通りすがりさんの仰る通り、とにかく「組織の指示を実践すれば神に愛される」という思考パターンを培う「訓練(笑)」がそれなりに効果的なのだと思います。

No title

GUABELLOさん、回答ありがとうございます。
私が質問したことをまとめておきますね。

一、研究生時代とバプテスマ後のクリスチャンからの扱いが変わったと実感したのは具体的にどのような事ですか?どんな風にGUABELLOさんは感じたのですか?

二、GUABELLOさんが組織が”返報性”を強調した教えに嫌悪感をいだくとありますが、GUABELLOさんの場合は報いを強調させないどんな証言をしたいと思っているのですか?→これは追って記事にされるみたいですね、待ってます。

三、 GUABELLOさんが”1975年」や「1914年から1世代」を信じながらも死んでいき、1914年から100年経って朽ちかけている巨大老朽船のような組織に支配されている善良なエホ証を可哀そうだと感じる”とありましたが、それは本人たちはさぞかしガッカリしたでしょうが、命が奪われたわけでもない彼らの人生が哀れだったかというのはどうなのかなと思いますね。実際に人生台無しにされた感が否めない人たちはどのような人生の選択に切り替えたのでしょうかね。
それは、命懸けで布教したのに、ちっとも神の目的がなされないのを見たヨナが、非常にガッカリし不満を持ったのと同じような意敷でしょうか。ヨナはあのあと、人生台無しになった感満載で生きたのか気になるところですね。

ところでGUABELLOさん、この組織も今は随分変わってきたのではないでしょうか?私には努力が感じられますけれどね。人間の組織として見れば、相当頑張っているように思えますが。

四、GUABELLOさんがなぜこんなに不満を感じる組織から離れないのか、それも知りたいですね。どうして捨てられないのか、聞かせてくださいますか?

Re: No title

一、一つ後の回答で具体例を書きましたのでご覧ください。でも、このブログは組織の解釈やあり方についての考察を書くことがメインです。その過程で自分が経験し見聞きしたことも多少含めてありますし、これからも含めていく予定です。

三、預言者ヨナも、ものみの塔がよく持ち出す旧約聖書の事例です。でも、別の記事でも書きましたが、神が裁きを撤回したのはヨナの予言でニネベの全市が悔い改めたからです。エホ証の予言が外れたのは、人間の解釈の間違いです。それに気づいた人はガッカリするんだと思います。

四、通りすがりさんと同じく今は「人間の組織」として見ているからです。このブログは「神の唯一の組織」と主張する時に生じる問題を考察しています。解釈や方針が「調整」されるとか、寄付集めをするとか、上層部はまず自分と組織の保身を第一に考えるとか、別に人間の組織なら当たり前のことです。そういうカテゴリーで考えればいい面もある、というのは全く同感です。

身近にいるエホ証には善良な人もいますし、ちょっと困った方(笑)もいますがそれは組織の偏った教育による被害者的な側面が強いです。研究生や現役の方も「人間の組織」として冷静に判断できれば、人間の指示や解釈を「神からのもの」と思い込んでしまうことによる行き過ぎや被害が少なくなるのではと思います。当面は同じ現役としてそのメッセージを発信することにはメリットがあるとも考えています。

Re: 忘れてはならない事実

返信遅くなりました。ちーさんのご指摘のマタイの聖句は、ものみの塔が「普通の生活」をしている人でも裁かれますよ、と主張する時に使ういつもの聖句です。

でも、創世記には神が洪水で当時の人類を滅ぼそうとした理由が、「地は暴虐で満ちていた」「肉なる者がみなその道を損なっていた」から、とあります。なので、当時の世を嘆く人がいなかった理由は、ネフィリムなどの一部の存在だけが暴虐を働き、その他の人は「普通の生活」を幸せに満喫していた、からではなく、「肉なる者がみな」暴虐を働く側だったからだと思います。そういう人もイエスの言葉のように普通に食べたり、飲んだりもすると思います。

洪水の後、「殺してはならない」「盗んではならない」という今では人類共通とも言える、当たり前に聞こえる成文律法が神から与えられました。ノアの時代に至るまで人類は神から全く疎外されており、その期間の人間の堕落の程度は今の自分たちの想像を超えていると思います。そして創世記の表現によれば、ノアの時代には人がさらにネフィリムの影響を受け、動物的な性向を示し日常的に暴力を振い、だれが一方的な被害者ということではなく、まさに「肉なる者がみな」捕食動物のように殺し合い、奪い合っていたものと自分は理解しています。ネフィリム以前でさえ神は義人エノクを取り去られましたが、ノアが舟を完成させるまで無事だったのも、奇跡的な保護があったのではと考えます。

「幸福論」と「終末論」はまた別の問題だと思います。少なくとも、自分はエホ証統治体が主張するように2000年前のイエスの言葉を「今この時」に適用するには少し無理があると思います。それはまた別の記事で書く予定です。

No title

GUABELLOさん、ありがとう。
このように聖書の言葉そのものについて討議できることが嬉しいです。

No title

GUABELLOさん

四の下に質問しましたが、GUABELLOさんは組織に対してそこまで疑念を抱くなら、もう組織は必要ないのでは?或いはここに書いていないけれど一方では組織からお世話になっている部分があって、独り立ちできないニートが親に対してボヤいている程度で「おかんに悪口いうと、明日から食べさせてもらえないからブログにおかんの悪口書くんだ」みたいな感じですか?

これは社会常識的な話ですが、組織について批判的意見をブログに書き続ける事をするより前に、きちんと組織に対して意見しないのですか??エホバの組織は身元を明らかにしているのに、批判者はそれをしていない。もっとフェアに闘ってみたらいかがでしょう?良い業績をあげて信頼された社員の意見は、社長は聞きます。GUABELLOさんも、自分が言えるだけの生き方をしてきて、正当な意見だと思うならば、ご自分の長老、そして支部に赴けばいいのでは?実は自分の意見の正当性に自信がないのでは?或いは信仰の欠片もない偽クリスチャンなのでは??

エホバの証人は聞かない人たちでもありませんし、納得できなければ、強制的にこの組織に関わる事など誰も勧めていないのだからGUABELLOさんご自身が自ら好きで入った組織ですよね?エホバを神として崇拝したいと思ったのですよね?宗教に関しては、自分から親を選べるわけですよね?

組織のお陰でここまで他のキリスト教のクリスチャンよりも聖書を早く深く理解することができ、組織のおかげでバプテスマを受けて一員になり、ここには書いていないだろうけれど、祝福された数々に対しては数えないんですか?実はすっかり甘えてしまったのではないですか?人の組織であると考えるならば、尚更言いやすいじゃないですか?相手は人間ですよ、人を恐れては何もできないです。私は、自分で選んだ会社で嫌な事がありつつも技術を教えてくれたことに関して、御礼奉公のように業績をあげましたよ。変わってほしいのは自分の組織なら、その組織の人間に説得出来るだけの材料を持って、うったえ出てみて下さい。今の状態より一歩進みますよね。

GUABELLOさんは昔のイスラエル人と同じ状態なのでは?自分みたいな人間を受け入れてくれた、というエホバへの憐れみ深さと感謝があれば、批判したいなんて思いもつかない気がします。(あなたは自分が組織以上の事ができると人間だと思いますか?)その組織に対して、今は「なんでもっとこうしないんだ」という思いが勝っているんですよね?

これはあなたにとって結構重大な問題なのでは?エホバの組織にとってはよくある事の一つとして、想定内の出来事かもしれません。私は神様ではありませんが、GUABELLOさんがエホバに愛されることをしているとは思えないんですよね。むしろ「我が子よ,賢くあって,わたしの心を歓ばせよ。わたしを嘲弄している者にわたしが返答するためである」という神の言葉とは正反対の悲しませている行為にしか私には見えないんですよね。現役を名乗るところが、余計エホバを悲しませていると思います。

パウロ達がサウロから迫害されたとき、イエスは「あなたが迫害している者です」とご自分のことを仰ったとありますが、仲間クリスチャンへの批判(カルトだの被害者だの組織や仲間のクリスチャン)はイエスは自分の痛みだと言っていましたよ?

GUABELLOさんはきっと、組織以上にエホバをもう愛していないんだと思います。愛のある人はこういう発想もできないと思うんですよね。私はまだ研究生ですが、このくらいはわかりますけど。神を騙せるはずはないと思いますよ。

組織やエホバの証人たちを被害者だから、洗脳されているから、カルトだと気づいていないから、と、決めつけた解釈をする人は、物理学者の寺田寅彦さんの言葉をよく理解してみたらどうかなと思いました。

「物事を必要以上に恐れたり、全く恐れを抱いたりしないことはたやすいが、物事を正しく恐れることは難しい。」

GUABELLOさんはエホバを知っている様で、知らないのでは??組織のカルガモの水面下のみずかきの働きのような努力を理解していないのでは?実は自分たちがカルトだとか被害者とか言っている人たちは、GUABELLOさんよりもずっと理解が深いのかもしれませんよ?

まずはじめにそういう疑問を持ったときは、自分を疑う事から入ってみたらどうでしょうか?どうしてこんなことが気になって仕方がないのか?もしかしたら自分が好きではない人が自分より立場が上で、妬ましいのかも知れない。どこへ行っても、何かしら決められた事に対しての反発心を持ってしまうような性質があるのかもしれない。自分だったらもっとできるのに!という自信過剰な部分があるのかもしれない。それが本当の自己分析であり、客観視であると思います。だから、あなたは自分が正しいと思い込んでいるという可能性も疑ってみて下さい。何よりも、自分を知る事って勇気がいります!

では検討をお祈りします!(笑)
私はもうあまり、得るものがない気がしているので、引き続き聖書の研究を頑張ります!!ではでは!!

Re: No title

非常に長い文章なので、通りすがりさんの意図をすべて理解できた上での返信は難しいかもしれませんが、まさに通りすがりさんの仰るような「社会的常識」が完全に通用しない組織だ、ということはなかなか研究生の方に理解してもらうのは難しいと改めて感じました。むしろ、神ではなく「組織のお陰」を思い出せ、とか、「組織」は自分たちより理解があり、水面下で正しく扱っている(カモ)など、研究生とはとても思えない(笑)、現役どころかその中でも「組織」に極めて忠実な人に近い考えをお持ちの方だと思いました。

いろんな意見は有り難く受けますが、ここは基本的には自分の考えを自由に表現し、それを読んでもらうブログで、「家」のようなものです。通りすがりさんがドアを叩いてくださり、ただ聞かれたことに答えたつもりなのですが、なかなかお帰りいただけない(笑)ばかりか、さらに上がり込んで来て「ニート」呼ばわり(笑)される・・エホ証がわざわざ人の家に何回でもしつこく来て、その人の考えや信条の「間違い」を感情的に指摘しようとする・・この組織に関わるとそういうマナーも守れなくなる、というお手本にもなるのでこれを最後にコメントは残しておきます。自分もその手本の一人なのかもしれませんが(涙)

いずれにしても、自分のような現役信者もいる、ということを知っていただけてよかったです。ありがとうございました。

Re: No title

ちーさん、ありがとうございました。自分もこのブログを始めてから、聖書そのものを統治体の解釈という枠に囚われず、ありのままに読み、調べるようになり、今まで気付かなかった新しい観点や視点の発見を経験していて、すごく楽しいです。

横から

以前匿名で投稿していた者です。

私は2世で、親からはものみの塔に書いてあることをそのまま教えられましたが、子供の頃は常にハルマゲドンの恐怖がありました。
ですので、楽園に行きたいがために校歌を歌わない、集会を休まないなどなどいわゆる「業」を行なっていたのですが、神の愛は全くわかりませんでした。
それで一時期限界を感じて、「事故にでもあって死んでしまった方がいいのではないか」と思うようになりました。

子供の頃にこう思ったのは、ものみの塔が報いを中心として教えていたからだと後々思いました。


それで、色々と頭で考えられるようになってから聖書を読むと、「救いは業の報いではなく神の賜物だということ」「神を愛することが大切だということ」を知り、あくまでも救いというのは神を愛して行動した結果であって、救いを目的として神に仕える必要はないということがわかりました。


つまり、神の愛を感じた結果、自発的に神に仕える気持ちが大事であって、ここに「報いがどういうものであるか」はあまり関係ないと思います。
これに気付いてからは重荷が外れたような感じでした。


つまり、ものみの塔の教えは私にとって重荷であったということです。
それは報いを中心として教えているからだと思います。
確かにものみの塔のおかげで聖書のある程度の概観を知ることができましたが、これはものみの塔でなくても、聖書や教会史を読めばわかるようなことだと思います。
それより、ものみの塔にいた私が神の愛を子供の時に感じることができなかったのが致命的でした。


それなのに、ものみの塔が「神の組織」とか「組織に歩調を合わせる」とか「組織に感謝」とか言っているのを見ると、疑問を持たざるを得ません。
さらにエホバの証人がそれに同調して、組織から離れた人を「選り分けられた」とか言って責任転嫁しているのを見ると、結局のところそういう人は、単なる人間の集団である「組織」という偶像に仕えているのではないかとも思います。


だから、組織に疑問を持った時はまず自分の理解を疑ってみる、というようなことを平気で言うのでしょう。
これは組織が神だと思わないと出てこない発想です。
組織が単なる人間の集団であるという事実を認識していれば、立場関係なく批判の内容を吟味できるようになります。


ものみの塔が「自分たちは神の組織」だと勝手に思っているのは構わないですが、そういう教えを広めて一般信者並びに一般人を惑わすのはやめてほしいですね。

Re: 横から

ものみの塔の典型的な信者統制方法はアメ(特権)とムチ(懲罰)です。「数字重視」「業(=活動)重視」「報い(=特権)重視」「取り決め重視」「評判重視」の教育や制度に神の愛を感じられない人は少なくありません。そういう人と、組織のすべてに生き甲斐と拠り所をあずける人との差が、何年か前から開き始めていると感じます。組織賛美が暴走する最近の教育が、もうさすがについていけない人と、めちゃめちゃ感化されちゃう人をさらに二分してるんだと思います。

自分も「組織」に忠実だったとき、どう励まそうとしても徐々に元気をなくし、集会には屠り場に連れられる羊みたいな様子で来るようになり、さらには精神まで病む人がどれだけいたことか。そういうことがあまりにも多すぎて、ザルで水を汲み上げているかのような無力感でした。

自分も一番かかわった宗教はエホ証ですが、他のキリスト者の本を調べたこともありますし、特に組織支配から目ざめてからはけっこう読みました。それでもキッカケとしては「この『組織』で聖書を知った」ことに縛られていた時期もありました。そこからどう「自由」になったかはいずれ記事にする予定です。

No title

通りすがりさん。、、あなたのコメントは まだこの組織の実態がどういうものか知っておられないようです、今研究しておられるので無理もないとおもいますが、研究司会者は組織の教えに従って巧みに導きますからこの組織が嘘偽りのない清く誠実なものだと思われているようです。    バブテスマをめざしているなら、司会者の教えや、塔の出版物だけでなく、外側からよく調べてみることをおすすめします。      あなたも、たぶん、教えられることを疑うことなく信じ納得させられる純粋な方だとおもいます。     司会者の方を含めほとんどの成員は、調べてはならない、間違いがあると思っても信じるようと教えられ、そして組織の教えを繰り返し頭にすり込むのでいつの間にかこれが真実だと思うようになります.私も14年間組織 の中にいましたが、長老の悪行を知り聖書に従い訴えたところ、調べもせず脅されて排斥になりました。真の実態を知ったのはその後で、中にいた当時はみじんも疑いませんでした。      成員は統治体と支部にうまく操られているのです。

Re: No title

その方へのコメントはこれ以上控えますが、ゆうこさんの仰るように、親も含めて「司会者」の責任は大きいと思います。騙す意識と悪意で人を騙す被害とは違い、エホ証司会者自身が何も知らされず、悪意のかけらもありません。宗教の勧誘とはそうなりがちですが、エホ証はその“善意”と“知らなさ加減”のギャップが激しいです。

自分が教えた人(子供も)が、何年か経って自分も知らない・教えてもいない何かを知り、エホ証をやめ人生の取り戻しに苦労するのを見ても「サタンに惑わされた」くらいの目で見て、教えた側としての責任を全く感じません。自分が信じるだけならいいですが、人の家のドアを叩く、まして人に宗教という精神や人生を根本的に左右する何かを教えるときは、もうちょっと客観的に情報を取り入れてからにしてほしいですね。

赤の他人ならまだしも、子供や教えた人が何かを知ってエホ証をやめると決定したなら、何を知ったのかくらいは聞いてあげる責任はないのでしょうか。それすらできずに、あなたはどの家の人に何を教えに行くのか、と言いたいです。自分の子供すら「背教的資料」を見せてきたと思い込めば読みもせずに「サタンの手先」呼ばわりです。キツイ言い方ですが「盲人が盲人を導く」、とはこのことです。
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