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背教者

背教者への強烈な嫌悪。

それは原始クリスチャンから始まり、中世あたりでピークを迎える。

宗教改革が背教で終わらず、プロテスタント諸派はキリスト教として認知されている。

背教だの異端だの騒ぐ時代錯誤な人たちは、寛容になった現代ではもはや化石。

JW含む三大異端?も、特殊なキリスト教系団体として一定規模で存続すると思われる。

そのJWがこの現代で、自らの「背教者」に向ける嫌悪は強烈なものがあります。

何が背教か、とは、何を正統とするか、で決まる。キリスト教の伝統教義を正統とすればJWは背教者になり、JW解釈を正統とすれば、棄教しても信仰を持ち続ける人たちが背教者になる。

信仰そのものを捨てれば、援助対象となる「弱い人」とみなしてくれるようですが。

背教者への激しい憎悪で知られるのは、エイレナイオスです。

新約四福音書の確立に最も貢献した人物とされている。

『イレナエウス,アレクサンドリアのクレメンス,およびテルトゥリアヌスなどの人々は,クリスチャンの聖書を構成する文書をヘブライ語聖書と同等の権威を持つ文書として認めていたことが知られています』 (WT洞察)

新約書簡の正典性を語るときに、WT文献でも真っ先に名前が挙がる。彼は、地に四方があるように、正統なる福音書の数は「四」でなければならず、それ以上でもそれ以下でもあってはならない、と強く主張した。

その信念は師のポリュカルポス譲りで、彼の師は、ルカのみを正統な福音書として認めたマルキオンを 「サタンの惣領め!」 と罵ったという。

彼らが最も重要な神学とみなしたのが「ヨハネ」で、その福音書と同じく「主の愛された弟子」によって書かれたと彼らが伝統的にみなすヨハネ第二の手紙は、この教え=正統派のキリスト論を携えてこない者とは 「あいさつさえ交わすな」 と厳命する。

正統派原始クリスチャンは、彼らが背教とみなす教えを信じる者たちとは、語り合うこと、わずかな接触を持つことさえ、病的な恐れを抱いていた。原始クリスチャン、というより原始的なクリスチャンに倣うJWは、それと同じことを狭い世界でやっている。

イエスを信じていても、そのイエスが1914年にキングに任命された、そしてJWトウチタイのみを「奴隷」として全権委任した、という解釈が 「ちょっと違うんじゃないか?」 と言い始める者は 「まむしらの子孫よ!」 と背教者の烙印を押され、血を分けた家族でも強烈な忌避をくらう。

彼らもある程度、成功している。

教育水準の低い途上国で何も知らない新参者を獲得し、先進国での物言わぬ静かな脱落者は後を絶たないが、まとまった分派だけは絶対に作らせない、という点では。
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諸行無常

といっても「行い」に対する直接の報いを期待したり、期待させたりすることが絶対に間違っている、とも言い切れません。何かを絶対視するなら、二元論のループに取り込まれます。

すると、絶対視は「絶対によくない」のかな。

それも、無限ループに取り込まれます。

難しいですね。

話を戻すと、功徳に対するアンチテーゼが無功徳です。

「信仰」か「業」か。

そのバランスを取ろうとしたのがルターの信仰義認です。

キリストは「神」か「人」か。創造か被造か。

その底知れぬ溝が生む二極を和解させる、神性と人性のヒュポスタシス結合。

という定式でバランスを取ったのが三位一体で、カルケドン信条で確立した。

しかしバランス(調和)を生むはずのものが、やがて絶対視され、再び対立を生む。

その繰り返しで、これからも続いてゆくでしょう。

男と女の記事で書いた相補性とは、量子現象から生まれた言葉で、0か1かを決定できない不確定性が、どうやら否定できない(この)宇宙の真理のようです。

ということで、歴史の事実が示すように善悪の白黒決着はありません。

願望としては聖書にも表現されていますが。

二極の狭間で相克しながら、反発し合い、時に混ざり合い、変容してゆく。


JWも、絶対視された教会権威や伝統教義を否定したはずが、自分たちの組織とそのささいな業績、そしてお粗末な解釈への賛美と絶対視を要求するようになる。

ゴミ拾いのボランティアを末端信者にさせて、それすら自賛するネタにしてしまう。


諸行無常の響きあり

おごれる宗教団体も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし


真理ですね。

主の業②

自分はこれだけのことをやってきた、と業績を枚挙してどんな報いがあるか、と尋ねた武帝に達磨大師は一言、「何の功徳もない」と答えたそうです。

それが無功徳らしい。


『その日には、多くの者がわたしに向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」 と言うでしょう。しかしその時、わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れ去れ、と』

↑業績そのものは関係ない、またはその見返りとしての「報い」ではない


『その時、義なる者たちはこう答えるでしょう。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり、渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり、裸なのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは、あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか」。すると、王は答えて言うでしょう、「あなた方に真実に言いますが、これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは、それだけわたしに対してしたのです」』

↑しかし当人には全くその自覚(打算)がない


『わたしの愛する兄弟たち、あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから、堅く立って、動かされることなく、主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい』

↑無駄かどうかは人には分からない、信仰において為される言動はすべて「主の業」である


東寄りに解釈するとこんな感じです。


無功徳(無利益)どころか、御利益成果主義ビジネス宗教に成り果てたJW教。

信者は毎日、「楽園に入れるかどうか」「永遠の命やえほば様の是認を失わないかどうか」と病的に恐れながら、「ふさわしいかどうか」で自分と他信者の言動を裁いて生きている。

上昇志向信者は「どうやったらさらなるトッケンが得られるか」で心を病ませる。

まあ本人たちがそれでいいならがんばってね、としかいいようがないが。

無功徳

最近、東方神学系の本を読んでいます。

東と西、右と左、どっちから見るかの違いだけなのに、なぜかその二極が方向(ベクトル)として、空間にも時間にも思想にも存在する世界。

東方、というだけあって、「この小さき者に為したことは、わたしに為したことだ」という隣人愛解釈などは、東洋思想に通じるものがあります。

ということで、ようやく仏教哲学にも手を出し始めました。

無功徳(むくどく)という教えです。

ギリシャ語のカリス(恩寵)に通じるものがあります。

もともとギリシャ思想は東方と親近性があり、ラテン教父が西方神学を発展させた。


無功徳ですが、とてもシンプルです。

情けは人のためならず、善因善果、というやつです。

でも「期待しちゃだめ」なんです。

それは打算であり、善行にはなりません。

「小さき者」への無償の贈与が、めぐりめぐって無償の贈与(カリス)として戻ってくる。

目に見える、直接の見返りや結果がないと無駄、という個人成果主義ではなく、因果の理は人には把握しきれないので、何が無駄なのかは分からない、ということです。


仕事でそれが要求されるのは仕方ないです。本来はイエスのぶどう園話のように、雇用関係もこの無功徳(カリス)で成り立つのが理想なのかもしれませんが、歩合でも時給でも月給でも、基本は直接の成果・労働との対価報酬というビジネスなので、甘いこと言ってられません。


でも宗教には持ち込まない方がいいです。

役職や数字で管理されて、仕事よりも束縛してストレスを与える宗教とか、いらないです。

地の人③

「アダムはカミに反逆した最低の邪悪人間」という先入観ありきで読んでしまうと、かの心を揺さぶるアダムのスピリットに共感できなくなります。ここはどういうことなのか?と思ったときに、すぐにWT索引を調べるのはやめましょう。余計な先入観を植え付けられるだけです。


ユダヤ人が言うように、まず「自分で考えてみる」ことです。

答えは一つではなく、「三つ、いや四つ」場合によっては「六つ、いや七つ」思いつくことができるようになります。同時進行で良質な信仰書(聖書より上に立つかのような解説書はお勧めできない)を読むのもありです。同じく聖書より上に立つWTも、ごく稀に参考になることは書いてありますが、生ごみのような拝組織主義ときっちり分別できない人はやめた方がいい。

様々なスタンスに立つキリスト者や、信仰の観点に立たない学者さんの多様な解釈と比較します。聖書原文のスピリットだけでなく、彼らのスピリットも豊かに感じながら。

事実を抽出する=著者の解釈と分別する作業は必須(事実かどうかのジャッジは必要)ですが、解釈やスタンスの部分では「正しいか間違いか」をジャッジする必要はありません。


矛盾だらけの聖書は、ありのままに読めば人間の底(懐)を広く、深くしてくれますが、WTのようなこじつけ統一、教条・戒律・黙示・権威的な使い方ばかりだと、人間が狭くなります。

自分(の理解)が正しい、あなた(の理解)は間違い、という無限ループです。

そういう幅の狭い二元論は間違っている!と言えば、そのループに取り込まれます。選択はできる(二択でも三択でも)ので、選択肢は「一つではない」と知るだけでも損はないと思います。



多様なテキストや伝承を時代ごとに編者がまとめたものを、正典論争を勝ち抜いた正統派が選別して一つの「カノン」にしたものなので、純粋なテキスト分析のみで万人が納得する「統一された正しい理解」を編み出せるような、底の知れた浅い対象ではないことが「分かって」きました。

指月


「誰かがこう言っていた」に依存する信仰には、限界があります。


限界があるだけでなく、危険でもあります。


その人(組織)の言うことがどんなに奇妙でも、心身を、家族の絆を、ズタズタに切り裂いてでも、頑なに実践することが信仰になってしまう。


突き詰めれば、聖書(パウロ)がこう言っているから、に盲従する信仰も同じです。


文字がなければ伝わりませんが、文字は指月の指にすぎません。


聖書がなければキリストは伝わらなかった、くらいの「聖書のみ」でいいと思います。


「も塔の」言っていることが真理でないのなら、「誰の」言っていることが真理なのか。


どうして「人の言うこと」ばかりに頼るんでしょうか。


地の人②

それなりの量の本を読んでしまい、どこに書いてあったか思い出せないのですが、諸書の時代あたりに属する旧約外典ではアダムと木の実解釈がようやく解禁?されたのか、アダムを栄光ある神の子のプロトタイプと称える解釈や(創造神の絶対超越性 ⇒ すべてはこれで良い ⇒ 予定調和)、実を食う行為を堕落という言葉では済まされないくらいの宇宙的な穢れとする解釈など、多様性があります。


しかし全部ひっくるめて、旧約正典から外されました(笑)


パウロの原罪解釈は後者の流れに属します。パウロはユダヤ教異端どころか、異端さえすっとばして律法はその役目を終えた、と宣言したアグレッシブでリベラルなキリスト教哲学の第一人者なので、ユダヤ教サイドからどうジャッジされるかなど微塵も気にするはずもなく、大胆にこの話を解釈します。

↑触っちゃいけないのに


キリスト教ではこのパウロ解釈が唯一正統なものとして聖書に加えられましたが、「パウロ解釈の解釈」も一筋縄ではいかなくて、JWは「パウロ解釈のも塔解釈」を唯一の正解とする。

↑だんだん狭くなります


こういうマニアックな予備知識もいいですが、WT解釈は論外として、さらに言うと新約(パウロ)解釈ともいったん切り離して、白紙の状態で旧約を読む試みは、ありだと思います。

地の人①

パウロの原罪解釈のおかげで悪者扱い、さらに宇宙主権どうたら、というWT解釈オリジナルブレンドで旧約を読むと、もう最低最悪、クズ人間扱いの「地の人」アダムさんです。

一方ユダヤ教では、カミなるものに主権があるとして、その正当性が問われている、なんて発想自体がおこがましいのです。旧約を著し、重んじてきた当のユダヤ人は神義論になど興味がないのに、そのユダヤ人の神観さえ把握しきれない現代人が聖書という狭い枠内で神義論をこねくりまわして何になるのか。

ファーストヒューマンという超重要なキャラクターのはずが、モーセ以降の旧約正典では、実を食ったことも含め、全くと言っていいほど触れられていない。まさに禁じられた実のごとく 「そこは触っちゃいけない話」 という暗黙の了解でもあるかのようです。

つまり設定通り、絶対神が 「食べるな」 と無条件に(理由を伴わずに)禁じた実なら、その実は何なのか、なぜだめなんだ、を問うこと自体が、すでに精神を穢すことになります。

「心の中で女を情欲を抱いて見た者は、すでにその女と姦淫を為したのだ」 (イエス)

この実について言えば、なぜなんだ、何なんだ、という領域に立ち入ろうとする時点で、もうその実に触れたのと同じです。知りたい、が自然な欲求なら、性欲もごく自然な欲求です。神学として表現すれば、ヒトはその限度をわきまえよ、その暗喩話とも取れます。


自然科学では 「知りたい」 という欲求に聖域はありません。

創造論者は「分からない」から、その時点で分かっている以上のことは「存在可能な最大の存在者」であるカミによるものだ、と思考停止します。「分からない」からカミを持ち出しているのに、「分からない」とカミを信じることができない、という宗教信条は自己矛盾でしかない。

宗教は「カミのみぞ知る」領域を自ら作っている訳ですから。

今さら「分からない」「納得できない」で信仰が揺らぐなら、宗教いらないです。

「分かった」「これが正しい理解だ」と手前味噌解釈を賛美するカルト宗教には要注意。

男と女

湧き上がる興奮と悦びを押さえ切れずに、彼は叫びます。

すると人は言った

 「これこそついにわたしの骨の骨、
    わたしの肉の肉。
     これは“女”と呼ばれよう。
   男から取られたのだから」


ようやく、見つかりました。彼は自分がイーシュ(オトコ)であることを自覚し、彼女をイッシャーと名づけたからです。

ヒトが語った最初の霊感(スピリット)による言葉として記されています。これもありのままに読めば、それまでにヤハウェが連れて来た動物たちも「助け手候補」だったことになります。


yhwhが出てこない、創世記1章の創造伝承では超越する「神」がコトバを発しながら淡々と整然と造っていますが、ヤハウェ側の伝承では、ヤハウェが試行錯誤しながら、ヒトがどう名づけるかを見ながらその伴侶探しをしている、こういうカミさまも身近でいいのかもしれない。

ヒトからすれば「これはいらねえだろ」と言いたくなる生き物も、こうやって試行錯誤しながら造っちゃったんでしょうか。

相補性

ヤハウィストだの祭司文書だの、というくくり方はあまり好きではありません。

エホバの証人はクリスチャンではなく、エホヴィストと呼んで差し支えないと思います。

本題ですが、創世記をWT解釈に縛られずに読み直してみると、いろんな読み方ができて面白い。聖典を読むのが「面白い」という発想がもう不敬なんですが。


次いでエホバ神は言われた、「人が独りのままでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼を補うものとなる助け手を造ろう」。さて、エホバ神は野のあらゆる野獣と天のあらゆる飛ぶ生き物を地面から形造っておられたが、人がそれぞれを何と呼ぶかを見るため、それらを彼のところに連れて来られるようになった。そして、人がそれを、すなわちそれぞれの生きた魂をどのように呼んでも、それがすべてその名となった。

それで人は、すべての家畜と天の飛ぶ生き物と野のあらゆる野獣に名を付けていたが、人のためには、これを補うものとなる助け手は見いだされなかった。そこでエホバ神は深い眠りを人に臨ませ、彼が眠っている間に、そのあばら骨の一つを取り、次いでそこの肉をふさがれた。

それからエホバ神は、人から取ったあばら骨を女に造り上げ、それを人のところに連れて来られた。


「助け手を造ろう」・・WT解釈ではここだけ引っ張り出されます。

いわゆるヤハウィスト側の伝承では、地面を耕すアダムが「独りのままでいるのは良くない」とされていて、その時点ではヒトの伴侶に限定されていないんですね。まだ知恵の実を食ってないので、善悪を知る点で「ワレワレの一人」になっていない。

創世記2章4節以降の伝承では創造の順番が逆で、ヒトを造った「後に」ヤハウェはいろんな生き物を地面からせっせと造り続けています(未完了形:新世界訳脚注)。WT洞察も、アダムの創造後もまだ何か造っていたのかも?と認めざるをえない書き方です。

そして、いろいろ造ってはヒトのところに連れてきてどう名づけるかを見ます。

が、名づけはするが、助け手は見出されませんでした。桃太郎は鬼退治に「独りのまま」で行かず、サルとイヌとキジを相方にしましたが、アダムはどれを見てもグッとこなかったようです。

そこでヤハウェは思いつきます。同じホネから造って姿形の似たクローンにしてみよう。

そしてその「生き物」も連れてきて、どう名づけるかを見ます。

オトコとオンナの最初の出会いです。
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