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恩寵

ヒトの自由意志絶対信奉者(WT含む)がそれを主張する理由の1つは、意志や努力による救いを否定してしまうと、人間は倫理的に堕落する、という余計なおせっかいです。

似た理由で「神のご要求」とやらに付け加えて垣根を巡らしたのが、(新約で描かれる)ファリサイ人、中世のカトリック神学者、そして現代の原理主義者(JWトウチタイ)です。

ルターが否定したのは、善行(とされるもの)ではなく、善行(と権威が命じるもの、自分が考えるもの)によって救いが得られるとの、権威信仰、自分理解信仰です。

『彼らが善い行いをきわめて狭く限って、ただ教会における祈祷、断食、施しなどにとどめ、それ以外の行いは、すべて神にとっては無価値のものだとみなしていることがわかるであろう。こうして彼らは、のろわれた不信仰によって、いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄はいっさい神への奉仕になるべきであるにも関わらず、その奉仕の道をせばめ制限しているのである』


さて最近のも塔で恩寵(grace)の話が出てきました。ギリシャ語カリスです。

『この言葉は人間に対する神の愛ある親切の完全かつ絶対的な無償性を説明するために・・キリスト教の著作に見られるように新たな仕方で強調されるようになる素地を備えていた。例えば,アリストテレスはカリスを定義して,まさしくこの点を専ら強調している。すなわち,その恵みはお返しを期待せずに無償で施されるものであり,その唯一の動機は与える側の惜しみなく与える気持ちや気前のよさなのである」と述べています』(WT洞察)

あれ、カリスが完全かつ絶対的な無償性を示すとか、しかもそれを定義したのはアリストテレスだとか、「キリスト教の著作」でも使われるようになったとか、洞察って相変わらず、JW的にもあぶなっかしいことが引用されています。


そしてぶどう園の報酬の話。

丸1日の労働でも、1時間の労働でも、その労働に対する報酬として支払われるのではありません。たとえ最後の1分でも、そして全く働かない人にさえ、主人は「自分のもので自分の望むことを行ってよい」のです。

それが初めから分かっていたらどうするでしょうか?

わざと遅くいく人もいるでしょう。どっちにしても同じカネ貰えるんだろ?

それでも、いやだからこそ、より早く行く人もいるでしょう。

それが信心か不信心かはカミのみぞ知る、(意志決定による)行動が絶対の基準ではありません。だから万人救済説も、カミの意志をヒトが決めつける逆の極端だとオモイマス。


信仰に至れば、それは必ず言動に何かの「表れ」がある、というのはあたりまえの因果です。ただ何がその人にとって、ルターの言う、「いやしくも信仰において生じ、語られ、考えられる事柄」なのかは、ヒトには裁けないのです。

なので特定の言動、まして特定の教団の宗教活動が報酬の「条件」にはなりません。その報酬が仮に先払いだとしても、何かの責任を発生させることもない。だからキリスト教が倫理的にも善とされる行いを広めるとしても、ヒトには自由意志があるか否かという哲学問答でも、脅しを伴う「救いの条件」としてでもなく、その救いは神の側からの完全また絶対の無償性による、というシンプルな信仰からの応答としてなされるべき、というのがルターのバランス感覚なんでしょう。
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信仰義認

ルターが徹底した信仰義認を説いているのは分かるんですが。

でも「信仰のみ」が人を義と宣するとしても、いろんな聖典や宗教を比較検討して識別して、キリスト教信仰を「選択」することは、その人の意志ではないんですかね。

どうやら違うようです。

「聞いたこともない者に信仰を持つか」というパウロの言葉が示すように、仮にいろんな宗教を「自発的に」調べよう、その中にキリスト教や聖書も含めようとしても、伝える者がいなければ聞き及ぶことすらありません。(キリスト教や聖書の存在自体を知らなければ選択の対象にならない)

パウロやモーセに「自分が神を選んだ」という意識はなく、「神が彼らを選んだ」のです。だから新約でも「正しい宗教を選んだ者たち」ではなく「召された者」や「選ばれし者」という表現が使われている。

つまり、そのことに対する信仰、になります。

JWはこれをトッケン階級限定にして、そこは自分のチョイスじゃない、召されるものだ、その感覚は平信徒庶民には分かるまい、と教えてしまうので、大部分の信者が新約の本質から置き去りにされてしまっています。


それは自分が正しい宗教を選んだ、という確信ではなく、自分が召された、という証しです。


何が違うのか(大汗)


自分や他人の人生を狂わせる勘違いカルトや自称教祖も後を絶ちません。

ウォーウィック宮殿には自団体ワールドを支配する「自称選ばれしセブン」がいます。

宗教嫌いの人から、そんなのどっちも思い込みだろが、と言われても反論はできません。

でも悲しいことに?それが信仰なんです。

それを客観的に「見分ける」ことなど誰も出来ませんが、多少の見分け方になるのは、自分の信仰に関しては強い自己主張や独善的な反論をしない人です。自分の選択を擁護する必要がないからです。

JWに限りませんが、自分の宗教宗派を擁護したい人って、自分の選択は間違っていなかった、という保証が欲しいんですよね。その手前味噌な保証が信仰だと勘違いしてしまう。

批判派の人にも、自分が選んだ昔懐かしJWはよかった、間違ってなかった、そして見切りをつけた今の選択も間違ってない、という保証が何が何でも欲しいという思考から抜けきらない人もいます。まあ、そういう考えも「間違っている!」とは言い切れませんが。


もう一度、カール・バルトを引用します。

『神を愛する者たちは・・神を愛するつもりでいるか、あるいはそう申し立てていながら神を愛さない召されない者たちとは明らかに対立して、召された者たちと呼ばれている・・神を愛する者たちは、見分けるのがむずかしいほどにかれらと似た者となることに決して抗議しない。彼らを正当なものと認めることができるのは召命そのものだけであって、決して、召命されているとの訴えではないということをよく考えた上で、かれらは自分たちが召命されているとも訴えないだろう』

自由意志

周期的に書いていますが、福音主義(そこから派生したJWも)が神議論で持ち出す自由意志...こそ神すら侵さぬ絶対領域、という発想についてです。

繰り返しますが、そんな教えは聖書にありません。

自由意志、という言葉すら出てくるかあやしい。

選べ、という言い方はちょいちょい出てきます。

でも思考して選択する能力がある、というのと自由意志がある、というのは違います。

その能力が絶対なものではないように、絶対の自由意志など、自分はないと思います。

イエズスは「何を食べ、何を飲み、何を着るのか」と思い煩うなと教えた。

「今日は何を着ようか」という日常的な選択の自由があることは誰も否定しない。

繰り返しになりますが、科学でも哲学でも宗教でも結論は出ていないようですが、行為(選択)の自由がある、というのと、絶対の自由意志が存在するかどうか、というのは別問題です。

何を着るか、という単純な選択さえ、天気、流行、店員さんが勧めてくれた、誰かが褒めてくれた、その日会う人にどういう感情を持っている(持たされている)か、などの縁に影響される。

まあWTが言うように、自分の決定を外的要因だけに負わせることはできない、というのはそうだと思います。アンタが造ってくれたオンナが、しかも割とすぐに食えっつったんでしょーが、という言い訳はできないことになります。

ただ見方を反転させれば、オトコはオンナに言われ、オンナはヘビに言われ、そのヘビはヤハウェが最も用心深く造ったというご丁寧な但し書きまである。ヒトの最初の意志決定(に見えるもの)に対する言い訳としては、ヒトの本質をついた至極まっとうなものとも言える。


これはルターの奴隷意志論争など、宗教者も形を変えて考えてきた問題です。

一般的な責任論としては、行為に対する結果は負わなければならないが、神の救いは非理性であり、「行為・行動の結果」とも何の関係もない、とするのがルターの立場です。

旧約や、プロテスタントでは外典扱いされている旧約文献では「選べ」「従え」「守れ」がよく出てきますが、ルターは、アンタらが理性だの自由意志だの言うなら、良い医者が、病状を気楽に受け取っている病人に、それ以外の方法ではそれを知らせることができない時に、不可能なことや嫌なことをするよう命じたり、禁じたりして、経験によって自分の現状を悟らせようとすることに例えたらどうなのか、と反論する。

論理的だの、理性的だの、という例えなら自己解釈に都合よく「理性」とやらで思いつくよと。


律法への帰順が意志や努力では成しえないゆえに、キリストは律法ごと磔にされた。

それは、意志や努力でエホバ様への忠節を保ったご褒美として、もうこれからは苦労せずあらゆる決まり事を守れる「完全なロボット」に改造してもらえるためなのか。(お断りしたい)

「選べ」という字句だけ抜き出し、自分の解釈に従って「特殊」から「普遍」を引き出し、神と人間のすべての言葉においてそれが成立すると判断してしまう僭越さを諫めている。


自由意志問題に限らず、WTの輸血禁止や誕生祝禁止など、あらゆる禁止や命令事項も「特殊」を抜き出し「普遍」にしてしまう、その僭越さから生まれているのでしょう。

お慰め宗教

ニーチェがキリスト教を嫌った理由の一つは、執拗な罪悪感情と劣等感をウィルスのようにばらまいて精神病患者にするキリスト教は、人類の進歩に百害あって一利なし、という感じです。


でもイエズスのスピリットには割と共感していて、何より嫌いなのはパウロ、というかパウロを原理的に解釈するキリスト教権威です。

「この世のすべてはくず」というパウロ発言を、現代でもまんま適用しちゃうのがJWです。

大学教育はペットの糞尿とかね。

学業、出世、研究、蓄財、そんなに大それたことでもなく、ただ家族や後世により良いものを残したいという自然の感情でさえ、悪しき物質主義、というグノーシスぽい霊性?とやらで断罪する。

「不完全な人間」は何の努力をしたところでムダという、せっかく創世記がヒトを神の像に造って「すべては良い」と宣言したのに、政治でも、技術でも、思想でも、「より良きもの」を生み出そうとするスピリットがヒトを進歩させてきたのに、パウロの原罪解釈に病的に囚われてしまう。

罪人、病人、弱者、としての劣等感や悲観やひがみ根性を植え付け、宗教権威に隷属させる。

聖書とは弱者の視点で読むべき本、とは書きました。

権力の正当化ではなく、権力の抑止となるべき本です。

でも、弱者をより弱者思考にならせるために使う本でもないと思います。「医者は病んでいる人に必要」(イエス)だが、病んでいる人をより病ませて依存させる詐欺医者はいらない。ルカ8章43節に出てくる女性のように、この組織に全生涯や全財産を使い果たしたところで、絵に描いた餅のような「夢」を貰えるだけです。

弱者に寄り添うキリスト教精神は尊いものですが、愛されること、気遣われること、慰められることばかりを要求し、何かや誰かに依存しないと生きていけない人をわざわざ作り上げる精神ではない。イエスは弱き者が弱きまま別の何かに依存することではなく、宗教者に罪人と蔑まれた者たちの魂の解放を説いた。


問題にまみれてできることが限られているあなたも神の目に貴重です?

えーと、あなた方が蔑む「この世の人」はですね、自分が何かカミ?なるものの目に貴重な存在でありたい、なんて大仰な願望は刷り込まれていないし、さらに「正しい業」で評価されて大虐殺を生き残りたい、という驕った自己中願望が前提にあるから、いりもしない「慰め」や「励まし」が必要になる。

慰めが必要になるような考えを刷り込み、その慰めが与えられているかのような錯覚に陥る。

目の前の現実は何も変わりはしない、というか宗教にのめり込むと現実は普通に悪化する。

それは悪魔の妨害であり、それでもこの宗教を第一にするなら全宇宙主権(笑)を擁護できる。

家族も、若さも、交友関係も、仕事も、すべてを失った自分にはもうこの組織しかない・・

重度依存者のできあがり。

そろそろ、うつ病を誘発するお慰めキャンペーンはやめた方がいい。

アンチクリスト

JWについては擁護できるところがもはや見当たらないのですが、聖書やキリスト教については批判なのか護教なのか、書いてる自分もよく分からない内容になっています。

アンチキリスト(教)と言えば、ニーチェです。

キルケゴールやシュライエルマッハーのように、ニーチェすらある種の護教批判のように解釈する人もいますが、何冊か読んでみた程度では、主にキリスト教を相手に(意識)しながらあれこれ書いている、という印象です。このブログも、自分が関わったというだけのJWというはるかにちっさい団体を反響版にして、似たようなことを飽きずにやってる訳ですが。

そういうアングロサクソン人だかゲルマン人だか、キリスト教絡みの西洋哲学本など、日本人は一切読まなくても社会生活に何の支障もありませんが、そもそも現代日本人とはそんなに関係ないキリスト教思想や聖書解釈に興味があるなら、読んでみるといいと思います。


ニーチェがキリスト教を精神病院扱いしたのは100年以上前で、キリスト教の在り方もこの100年でそれなりに変わってきています。良くも悪くもキリスト教を意識した個所では、キリスト教と関わりのない人が読んでもあまりピンとこないこともあるでしょう。

が、JWと関わると、彼がこきおろした前時代キリスト教の困った部分を、JWはまんま引きずっている、むしろより悪質に歪めている、ことに気づきます。100年前に「最も聖典に字句通り忠実なキリスト教」と称して頑なに孤立路線を取ってきたので、キリスト教の変化(進歩?)に置き去りにされて、時間が100年前から止まっています。


「自分を孤立させる者は・・あらゆる実際的な知恵に逆らって突き進む」


100年で変わったのは、キリスト教スキマ産業カルトが、原理主義の狭いニーズに応えて既存キリスト教市場にちょっぴり割り込めたのと、その組織マネジメントの規則や制度作りです。

明石氏が見切りをつけたように、聖書解釈には何の進歩もない、と言えるでしょう。

「1914年から一世代」が「二世代」になったとか、「忠実な奴隷」がラッセルではなく、ウォーウィック宮殿に棲息するアブラ肥満体セブンになったことくらいですか。

そんなんでキリスト支配100年の証拠!というこじつけ組織賛美本のお勉強が始まるようです。


この100年で、死海文書やナグ・ハマディ文書、各種キリスト教関連の思想文献が発見され、当時の背景についての知識がどんどん深まっていて、「聖書」の厳密な枠組みさえ揺らぎを見せています。様々なスタンスからの「鉄の研ぎ合い」のような比較文献研究によって、原著者たちの意図により近づこうという試みは、これからも続いていくでしょう。

JWはそんなの高等批評だよね(高等批評なんて発想がもう100年前)と、WTしか読めない文盲にさせられて(WTさえ理解できているか怪しい)思考が100年前の原理主義のままです。「ダニエル」や「ヨハネ」が、セレウコス朝に迫害されるユダヤ人や、ローマ帝国に迫害される原始クリスチャン向けに書いた黙示文学を崇めて、この現代で自分たち以外の人間が大虐殺されるハルマゲドンを夢見ています。

100年以上前のニーチェにすら、重度の病人集団、と言われてしまいそうです。

またそれました。そうニーチェの話でした。

罪の許し

模範的受け答えで思い出したのが、映画ショーシャンクの空に、です。

仮釈放委員会でのレッドの受け答え。


刑期30年目の仮釈放委員会。

長机に座って書類を見る複数人によってたかって質問されるのはJW復帰委員会と同じ。

審問官1:書類によると、終身刑で30年をここで務めたようですね。
審問官2:あなたは自分が更生したと思いますか?

レッド:イエッッサー、疑いはないです、別人のように変わりました(必死)。神に誓って正直に申し上げます。社会にとって危険な存在ではありません。完全に更生しました。


⇒ あっさり仮釈放不可


刑期40年目。

審問官:終身刑で40年を務めましたね。自分が更生したと思いますか?

レッド:コウセイ?待ってくれ・・その意味が全く分からないな。

審問官:そうですか、つまりあなたが社会に復帰できる準備が・・

レッド:坊や、君が思いつく意味くらい知ってるよ。だがオレにとっては政治家が作った言葉だ、君らみたいな若造がスーツとネクタイを着て仕事にありつけるためのな。何が本当に知りたいんだ?自分がやったことを後悔しているかどうかか?

審問官:ええ、後悔していますか?

レッド:後悔しない日など1日もない。自分が刑務所にいるからでも、君らが後悔すべきと考えているからでもない。あのときのオレは、重い罪を犯した、若くてバカなガキだった。アイツと話がしたい。物事の意味や道理ってやつを教えたいが、それはできない。その子はとっくにいない、残ったのはこの老人だ。それを背負って生きていくしかない。更生?クソみたいな言葉だ。さっさと書類に(不可の)判を押せ、坊や。オレの時間を無駄にしないでくれ、正直どうでもいい。


審問官は何も言わず、仮釈放許可のスタンプを押す。

JW審問とは真逆の結果ですねぇ。さたんの世が作る映画なので。


『あなたの罪は許されていると言うのと、起き上がって歩きなさいと言うのでは、どちらが易しいのですか』 (ジーザス)

クイアラタメ?

そんなのは宗教屋が作った言葉だ、アンタらみたいな「罪の許し」とやらを司るつもりの聖職者ぶった若造が、ネクタイとスーツを身に付けて自己満足に浸るポジションにありつけるためのな。


田川健三先生風のジーザス解釈でした。

模範回答

前回のおまけですが、JW審問で長老が望む受け答えとは、こんな↓感じです。

懐かしのも塔1970年より。表現は古風で、今は月に1回のレポート義務とかはなさそうですが、制限解除の保護観察期間など、基本は変わってないと思われます。


クリスチャン:「ジョン、委員はこの事件に関する証拠および事件に関連する事情や要因のすべてを考慮しました。さて、君も承知のとおり、君が犯したことは、人がそれをならわしにするなら、神の御国にはいれなくなるほど重大な事柄です。クリスチャンの会衆の上にエホバの霊がとどまるようにするには、ぜひとも、そうした事柄から会衆を清く保たねばなりません。ジョン、君は、君の両親の助言を完全に無視し、また、わたしたちの警告にさえ逆らって、悪い仲間とつきあい、そのために、エホバに対して、このような罪を犯すはめに陥ったのです」

ジョン:「おとうさん、おかあさん、すみませんでした。わたしは、ほんとうにまちがっていました。まちがったところに交わりを求めていたんです。わたしは今、それを認めます。また、エホバと会衆に対して罪を犯したことを告白します。でも、今後も会衆の一員として、神に仕えたいと思います。また、委員が言われることは、なんでも喜んでいたしますし、会衆との良い関係と、エホバの御前における霊的な正しい状態に、わたしが戻るのを助けるために与えられる、どんな懲らしめにも喜んで服したいと思います」

クリスチャン:「よろしい、ジョン。君は反抗的で、悪い人々との交わりを求めていたね。君は今、19歳なんだから、確かに、自分で正しい行動を取れるほど成長したにもかかわらず、悪事を働き、しかも、それを隠そうとしたので、両親に連れられて、わたしたちのところに来なければならなくなったのだね。しかし、エホバの御前における自分の立場がどんなにまちがっていたかを知って、罪を告白したのは、良いことです。わたしたちは、君が今、敬虔な態度で、悲しみを、つまり、真の悔い改めを表わしている、と信じています。また、君は、自分の行なったことの非を悟り、エホバの御前で事態を正したいと願っていることをも、わたしたちは信じています」

ジョン:「確かにわたしは、分別を働かせませんでした。どうしてこんなに道を踏みはずしたのか、自分ながらわかりません。わたしは、自分のしていたことのために、ほんとうにみじめでした。しかし、兄弟たち、許していただけるものでしたら、エホバの組織にぜひとどまらせていただきたいと思います。さきほど言いましたように、盗んだものは、弁償する覚悟でいます。また、神の律法からみて、わたしに要求されていると、みなさんがお考えになられることには、なんでも喜んで服したいと思います」

クリスチャン:「ジョン、聖書が述べているとおりだね。『悪い交わりは有益な習慣をそこなう』。それで言いつくされているのだよ。君は今回のことを教訓とすべきです。君はすっかり問題に陥ってしまったが、今は悔い改め、エホバの組織とともに奉仕したいとの願いを確かに表わしています。したがって、君の罪をおおう、キリストの犠牲に基づいて、あわれみを君に示すことができます。それで、ジョン、委員は君を会衆から排斥しないことに決定しました。ただし、委員は君のために試験期間を設けることにしました

ジョン:「クリスチャン兄弟、神の組織にとどまる機会を与えてくださり、深く感謝いたします。最善をつくして事態を正すため、あなたがおっしゃることは、なんでも行ないたいと思います。わたしは、自分のしたことのために、排斥されてもしかたがなかったのです」。


終始上目線のクリスチャン様と、マイコン若者の小動物みたいな怯えっぷりが愉快です。

たしかに親切な組織です。排斥にならないための模範回答例まで教えてくれるんだから。

キリストを通した「カミとの個人的な関係」など、この宗教には無意味で、JW役職者にはユダヤ教の祭司以上の権限がある。彼らこそが唯一の真理であり、道であり、命であり、その組織や、組織の役職者が仰ることは何でもします、が救いと許しの条件です。

2人の2世

ある程度の実話を基に、比較のため分かりやすく脚色した譬え話としてお読みください。

2人の2世男子君がいた。

どちらも「模範的」JW2世でも、トッケン志向でもなく、かといって特に離れる理由もなく、JW活動はそこそこ適当に人間関係のみで留まり続ける程度のスタンスだった。

2人とも「この世の女性」と付き合うようになり、深い関係になった。

ここまでは同じで、ここからが対照的です。

一人は、トッケン?興味ねぇし不良2世を気取ってはいても一線を越えるや、幼い頃から植え付けられたハルマゲドンの滅びが怖くなり、長老に泣きついて洗いざらい話し、その女性との交際はきっぱりやめますと告げる。2世なので、どういう受け答えをすれば排斥にならないかはわきまえていて、長老が望む通りの受け答えに終始して、排斥を免れます。


もう一人は、同居する狂信者母親から「未信者」との交際について執拗に問い詰められ、あまりにしつこいので仕方なく、深い関係になったことを告げる。すると今度は「チョウロウの援助」を受けるようにしつこく言われるが当人にはその気は全くないので、母親がチクる。

その子は、審理委員会の召喚にも応じる。自分がしたことは、聖書の教えとしても、エホバの証人としても間違っている、だから反省してはいる、悔いてもいる、神に祈って許しを求めた、でも自分はその子が真剣に好きになったから関係した、だからその子と一緒になるつもりです、もうエホバの証人としての活動も続けるつもりはありません、と正直に告げる。

悔いている、神に祈って許しを求めた、そんな、カミのみぞ知る「心の状態」や「神との個人的な関係」など、実はこの組織では全く、何の意味もない。目に見える組織活動を続けるつもりがなければ、彼らにとっては悔い改めていないのと同じ、結果はためらいも容赦もなく排斥で、それはこの子も知っています。そしてJW活動を続けるつもりがない、それは狂信者母からの永遠の忌避を意味することも。

審理部屋を出る前に、彼は自分に破門を宣告した長老たちに、深々と頭を下げた。

「今までお世話になりました。今回のことでご迷惑をおかけして申し訳ございません。ただ一つだけ、母のことを、どうか宜しくお願いします」

母親が、もうこの組織でしか生きていけないことを知っているのだろう。


彼は自分の言葉通り、その子と交際を続け、結婚した。子どももできて普通の家庭を築いている。一人の女性への想いを貫いた、決して不道徳な男ではない。しかし親からの連絡はなく、組織の命令通り、相手の親族への非礼などお構いなく結婚式にも来なかった。

親を責めても仕方ない、彼らにとってはその原因を作った悪者は自分で、組織に戻るつもりがない=悔い改めない邪悪な者、彼らが崇める神には永遠に許されないことは分かっている。しかし事情を正直に話すと、相手の親族には「何と狂った宗教だ」、そして結婚した妻からも「あなたにこうしてほしい、ということはないけど、ただ一つのお願いがあるとすれば、絶対にそんな宗教に戻らないで」と言われている。本人にもそのつもりはない。

数年後、JW長老が排斥者訪問の「取り決め」でやってくる。来てくれたことには感謝して、玄関先で話をする。自分も2世なので、聖書で学んだことは残っている、神を感じる時もあるし、祈って感謝することもある、でもエホバの証人に戻るつもりは一切ないので、もう来ないで頂きたい、と。

慰めが必要

なんか9月に特別号を配るらしく、また何か月ぶりかに一般号を覗いてみた。

前回の「エホバに忠節を保ちましょう!」みたく、最近のキャンペーンて、もう勧誘するというより信者の自己充足キャンペーンなんでしょうか。

彼らが言う「世の人」はそんなに慰めらしきものを求めてますかね。

国によって生活環境は違うし、日本は恵まれている方だと思いますが、それにしてもこの世の方々は、JWのように「理想の楽園」や「完全な健康」なんて夢見てません。そんな妄想してるから今の生活を楽しめず、実現しないことばかりに目が向いてストレスや不安を感じるんじゃないかな。

多少のストレスがあるのは皆同じ、世の中で生きていくには向き合わなきゃいけない現実として受容しているだけで、すべての人に何か神がかった慰めが必要だ、そして自分たちだけがその慰めを伝えることができる、なんて迷惑で驕った考えで自己充足しているのはJWくらいでしょう。


思わず吹いてしまったのが最初の、「だれもが慰めを必要とする理由」です。

これ、JWになるとだれもがこういう慰めが必要になります、という事前告知なのか。


JWになると、失業リスクが高まります (失業してでも布教や集会を優先するよう教化される、最近はそんなビデオ教材ばっかを視聴覚教室で見せられます)

JWになると、結婚破綻のリスクが高まります (「未信者」の家族と過ごす時間より布教や集会を、家族よりもエホバ様への忠節を優先するよう教化される、これでこじれないのは、JWツマが出かけてくれるとむしろ気楽な冷め切った夫婦くらいで、信者同士の夫婦でも片方が強力に教化されたままもう一方が醒めると悲惨なことになります)

JWになると、深刻な健康問題を抱えるリスクが高まります (「健康面で限界ある人」にも毎日3時間布教して開拓者になれと狂った生活プランを提示されます)

JWになると、死別のリスクも高まります (上記のストレスを抱えながら「エホバと王国が第一」、どんな辛くても「世界一幸福な民」を自演させられる矛盾が心身を衰弱させ、原因不明の体調不良や難病を患う人、場合によっては早死にする人もいます)


何よりも彼ら自身の慰めのために受け取ってあげるのはいいですが、不幸の手紙と一緒で、まともに読まない方がいい。この宗教にのめりこむと本当にこういうことがよく起きます。

引き寄せの法則ってやつです。

それこそが聖書の教え通りの「サタンの試み」だと教えられ、「この組織限定の慰め」に依存しないと生きていけない中毒症状を起こしますのでご注意ください。そういう中毒症状を晒している組織崇拝者のブログもあるので、症例サンプルとして読むのもありです。つっつく必要はありませんが。
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