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神の手柄

いい加減、人にハゲマサレルことをエホバの愛ある気遣い、はやめた方がいい。

仲間に助けれられた、チョウロウに気遣われた、そんなのはカミでもなんでもない。

じゃあ仲間と思っていた人間に傷つけられた、組織チョウロウに痛めつけられた。

こっちはソイツの 「不完全さ」 なんですよね。

つまり、部下の手柄は自分の手柄、部下の手落ちはソイツのふがいなさ。

そんな上司に誰が付いて行きたいと思うのか?

サイアクの上司だよね。

部下の成果はきちんと評価し、部下の不始末は自らの不始末と背負うのが理想の上司だよね。

キリストの贖いってそういうことじゃなかったのか。

理想のカミを描きながら、支離滅裂なんですよ。

人格者チョウロウに癒されればエホバ(組織)の手柄?

非人格者チョウロウに痛めつけられてもソイツの至らなさ?

なんだよ、その人を馬鹿にした物言いは。

くだらないカミだ。

ヒトが作った偶像だからね。仕方ない。

そんなカミを作って崇めよと命じる組織の上層部に 「監督責任」 という概念はない。
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死海文書②

類似性があるだけでほらパクリだ、という安易な印象操作はやめましょう、が比較文献学の主流になっています。WTも都合のいい時は、類似性があるだけでほらバビロンだ、と言いますが。

キリスト教サイドの基本スタンスはネットで探すとおそらくこのあたりです。

http://mikio.wada.catholic.ne.jp/QMRN-nt.html

宗教なんて、独自性と類似性があって当然のような。

ただ残念ながら、それは聖書も例外ではないというだけの話です。

死海写本中の、ユダヤ教共同体文書と新約文書の類似性は最も熱い論争点で、キリスト教関係者が果てしない本文分析と解釈論争を繰り広げているようです。

まあ、日本人にはさっっぱり関係ないことですが。

類似を探したい人はそう見るし、独自にしたい人はそう解釈する・・・そういう「鉄と鉄の研ぎ合い」から徐々に「定説」とされるものが構築されてゆく。


ただ、中には解釈の余地がないほど酷似している箇所もあります。一例だけ。

『これは偉大な者となり、至高者の子と呼ばれるでしょう。エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え、彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして、彼の王国に終わりはありません』 (新世界訳ルカ1章)

『彼はこの地上で偉大なる人物となるであろう・・彼は偉大なる神の子と呼ばれ、その名で呼ばれるであろう。彼は神の子と讃えられ、彼らは彼を至高なるお方の子と呼ぶ・・そして、彼の王国は永遠につづく王国となろう』 (死海文書4Q246、神の子文書、と呼ぶ人も)

書かれたのは死海文書が先です。

これはもう類似ではなく、借用したと言われても仕方ないレベルの酷似です。もちろん、新約とはその性格上、旧約からたくさん「借用」しているとも言えるので、それが借用なのか、引用なのか、発展させているのか、は別にしても、旧約正典以外からの明確な引用がある、という可能性だけでもかなりの事実ですね。

以前に、メシアが神の子でありそれが人になって降誕する、という概念は旧約には見当たらないと書きましたが、旧約正典に含まれていない死海文書にその発想らしきものがある、というのは面白い発見でした。

さらに言うと、死海文書にはダビデ系のメシアを待望する記述がありますが、旧約正典ではメシア(マシーアハ)がダビデの子孫である「救世主」として、固有に結び付けられている個所はない、という解説を読んでほんまかいなと思って調べてみたら、本当でした(ダニエルのような黙示文学を例外とすれば、神に選ばれた者、任職された者として普通名詞的に使われている)。

他にも、神の国思想、山上の垂訓に見られる霊的教訓、これも旧約では明確になっていない神と悪魔、光と闇の二元闘争、などの類似(の可能性)が見つかっています。


以前に少し書いたナグ・ハマディ文書も含め、新旧約外典、ユダヤ教文献、初期キリスト教関連文書の発見・比較研究により、キリスト教が、当時の多様なユダヤ教宗派や種々の霊的思想の影響を吸収したり、弾いたりして発展したものだ、という事実が明らかになっています。

それが聖書の価値を失わせる訳ではありませんが、「現在の聖書」だけが特別で、絶対だ、という聖書崇拝者にとってはますます分が悪くなっていると言っていいでしょう。



死海文書も、ナグ・ハマディ文書も、研究者が生涯を費やすほどの対象です。その膨大な蓄積を本にまとめてくれて、読む側は数日で読めてしまうとは非常にありがたいです。筆者なりのスタンスはそれぞれなので、裏を取りながら事実を抽出する二次的な作業は必須ですが。

WTの答え探しと線引き作業を「個人研究」だと教わっていた頃が懐かしい。

効果的か

漁の話は、批判側にも言えるでしょう。

どの、どういう批判が 「効果的か」 という観点で考えすぎてしまう傾向。

ああいうやり方は効果的ではない!と言いたくもなってしまう。

すべてのJW関連ブログが「効果的かどうか」という観点で書いてないと思います。

現役の人が「食いつく」ようなネタや、それをどう料理して盛り付けようとか。

自分のケースや見知っている範囲ではこうだった、と思い込む(決めつける)傾向も。

まあ、JWに勧誘されてしまった信じやすい思い込みやすい人を、同じようなやり方で逆説得するのも、ありっちゃありです。特定のサイトや何かの手法に意見する訳ではありません。


どういう批判が最も 「効果的か」 に唯一の正答はない(決定できない)と思います。個々のJW、元JWは漁網に入った大量のサンマやイワシではない。

宮殿に住んでテレビを通して語る、7人の小太りおじさんたちはそう思っているようですが。

今いる魚を逃さず、寄付を集めるにはどういう手法が 「効果的か」 を忙しく考える取り巻きさんに囲まれていることでしょう。


話を戻すと、それぞれの理由や信念で発信しているのでスタンスが一致するのは不可能だし、一致している方が気持ち悪い。批判色が強く出る人もいれば、穏やかに懐古する人もいる。

JWになった理由も、醒めた理由も、受けた傷も、人それぞれです。

自分の考えや感じ方を発信すればいいのであって、他人の感じ方にくってかかる必要もない。

JW経験者が群れる自由もあれば、群れない自由もあります。

あたりまえですが、人はイワシじゃないってことです。

死海文書①

20世紀での、聖書関連では最大の写本発見と言われています。

全写本公開からまだ20数年しかたっていません。

陰謀系の話が好きな人には、この死海写本の発見と絡んで、イスラエル建国1948年から「70年」にあたる2018年終末説を語る人もいます。死海文書でも70という数字がちょくちょく出てきます。

マヤ文明との絡みから出てきた2012年など、WTの世代解釈と同じで、何回でも外れたところで次のネタには事欠かないようです。



死海写本についてWTで教わるのは、イザヤ写本に関することばかりで、現存するマソラ本文(MT)よりいきなり1000年以上もさかのぼる旧約写本が発見されて、それを比べてみたら驚くほど一致、やっぱり聖書ってすごいよね、正確に保存されてきたんだね、という話のみでした。

イザヤ写本だけについて言えば、間違いではありません。

が、MTよりギリシャ語70人訳と一致する箇所もあります。例えば、70人訳のエレミヤ書はMT(ヘブライ語)の八分の七程度の長さしかなく、この70人訳に近い死海写本が発見されています。

つまり「イザヤ写本は一致していた」というのは、単純に同じ本文を元にしていたからということで、マソラ本文とは異なる底本の存在(バリエーション)を示す写本も多数発見されています。

死海写本の内、旧約関連の写本(約200本)で数が多いのは、申命記、イザヤ、詩編の3つで、このユダヤ教共同体で重視されていた書であることを示唆していて、新約でもこの3つの書からの引用が多い事実との類似性が指摘されています。

これくらいのことならも塔2001年2月15日号にも出ています。世代解釈が外れて一度は放棄された流動的なスキマ期間、WT解釈にとってはあぶなかっかしい、良心的な記事が時々出ていた頃です。


イエスや新約筆者の思想が、当時のユダヤ教思想の背景や文脈で語られたものとして再考されるきっかけ、また流れを作った発見とも言えるでしょう。


WTではあまり習わない死海写本についての基本事実はこんな感じです。


・死海写本とは、死海近くに存在したユダヤ教信仰共同体が保持していた写本群

・それは「旧約」の写本ではなく「現在の旧約」にあたる文書は全体の約4割にすぎない

・他の6割は現在では旧約偽典、外典とされるユダヤ教文献、そして共同体独自の文書

・共同体の独自文書には、新約文書との類似点が存在する

漁業と布教

前に書いたかどうだか忘れましたが、イエスの真意はさておき、具体的な手法として布教を漁業に置き換えるWT適用は前から好きではありません。


魚が獲れる時間帯 = 人に会える時間帯

効果的なエサ = 人が食いつく話題


こんな感じで、人を「魚」くらいにしか思わないんですね。

本当に相手の立場で考えようとする姿勢が皆無。

そんな良心的な姿勢を身に着けたら、JWなんかやってられませんけどね。

忌避される立場になってみようとか、反対する家族の気持ちも考えてみようとか。

だから彼らは「自分たちの勧誘が効果的かどうか」という観点でしか考えない。

イエス様も、そんな適用をされるとはびっくりでしょう。

あと漁獲のように、数字で測るとか。


ある水族館の人が、大量のイワシが泳ぐ水槽になぜサメを入れるのか、という質問に「その方がイワシが危険を察知して群れて泳ぐ様が美しいから」と答えていました。

イエスの譬えに出てくる漁網をJW組織オンリーと解釈するWT協会も、信者を魚群くらいに思っている。「さたん」や「はいきょうしゃ」というサメを記事に放り込んでしつこく意識させることで、イワシのようになんとか一つの塊のまま泳がせようとしているのでしょう。


サメにはきちんとエサをあげればイワシを食べることはないそうですが、目の前に来たはずみでぱくっと食べちゃうことがたまにあるそうです。

そのイワシがかわいそうじゃないか!残酷だ!と抗議する人はいないでしょう。

イワシですから。

「ふさわしくない」魚を網から放り投げるように、WT協会も「ふさわしい」基準にかなっているかどうかにしか関心がなく、2、3匹の雑魚に情はかけない。

ジャラズ氏の名言いわく、そこに「かわいそう」という意識がないわけではないらしいが、観賞用(宣伝用)のイワシの魚群が乱れずに泳ぐことが何よりも重要なのです。


漁や草木の水やりやら牧羊だの、人を魚や動植物くらいにしか考えない布教や団体運営は、もういい加減やめた方がいいですよ。

そういう譬えは、勧誘布教や信者統制のテクニックを教える意図で語られてはいませんから。

今いる魚

『キリスト教世界の聖職者は、「人をすなどる者」となることよりも、すでにいる「魚」を逃さないことに思いが向いているようです』 (先週のも塔)

「きりすときょうせかいのそうしょくしゃ」 と 「えほばのしょうにんのとうちたい」

違いがよく分からない。

日本の地域大会出席者数は2013年で、ピーク時から約7万人も減少しています。

それ以降は知りません。

でも信者数はピーク時と比較しても、数千人程度の減少でしょうか。

もう地区大会への新規さんご招待には関心がなく、ビラ配りをやらせることで「自分たちは違う」と言いますが、その力において実質のない形だけの業への劣化が激しいようです。

今年の招待状とやらをのぞいてみても・・・



エホバへの忠節を保ちましょう!



いきなり太字で強調されても、これ招待する気ないよね。

日本語の忠節て、封建チックでもはや死語だし、「保て」とは誰に言ってるんでしょうか。

イスラエルの王ダビデは祈りました、なんか響きがこわいです。

選民思想(えこひいき)の象徴みたいな人ではありますが。

しかも聞いたことない番地にある「エホバの証人の大会ホール」て何ですか。

こんなのポスティングされて気持ち悪くないんでしょうか。

まあ、そんなのお構いなしでしょう。

増加頭打ちの先進国では「今いる魚を逃さない」ことが大事ですから。

神の休み

何のために全世界の罪(エゴ)を贖うべく、「神は死んだ」のか。

その贖いとやらに感謝しているかを、戒律解釈とその実践で争わせるためですか。

キリストに啓示される神は、自分の正しさを主張も、擁護もしない。

神でありながら神と等しくあることに固執せず、卑しむべき罪人として逆らいの言葉を受容し、己のみを崇拝せよと定めた宗教?の成れの果て、宗教裁判によって罪に定められ、磔にされることを選択した神が、自分の正しさを主張するために代わりの宗教を作り、その宗教に帰依するかどうかで選別し、そうしない人間を報復虐殺するんでしょうか。


「すべてのヒトに対応する贖い」・・すべての人に対してあらゆる者である、初めなる完全他者の自己放棄の真価は、「救われ(てい)るかどうか」という、自己意識や御利益を論じる神学にではなく、ヒトを贖いその霊を生かす、キリストによる永遠のバシレイアにあるのでしょう。

そのバシレイアは、ここに!いやあそこに!のように、言い争うものではなく。


その救いを自己利益や自己正当性の実現として語る人は、神を知るようになっていない。

業によって義を示すことに忙しい者たちは、神の休みに入れなかった。

業に忙しいマルタと、ただ座って主の言葉を聞いていたマリアの逸話は、「必要なものは一つだけ」と教えています。彼女が選んだ良いものは、彼女から取り去られることはありません。


ただの宗教団体をチョイスした程度のことを、誇る/後悔する必要もありません。そこから出る/留まるにしても、その選択を信じることをやめる人には、神の休みに入る約束が残されています。

宗教そのものを目的化してしまった当時のユダヤ教はキリストを退けたとはいえ、ユダヤ人に生まれたことを呪う必要も、ユダヤ教に改宗したことを後悔する必要もなかったようにです。宗教(戒律の実践)によって自分たちを義とする業を休む人には、神の休みに入る約束が残されていたからです。

その時に良いものを選択したのなら、そのきっかけでしかない団体が劣化しようが、その偽善が暴露されようが、いずれ衰退/消滅しようが、それがその人から取り去られることはありません。

宗教団体が業(営業活動)へと駆り立てるために作り出すステータスやつぎはぎ終末解釈は風向きのようにめまぐるしく変わっても、永遠の父には回転による影の変化もありません。


『わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである』

『一人の人がすべての人のために死んだ、だからすべての人は死んでいたのである』
(パウロ)


『永遠のいのちとは、時の長さとはなんの関係もない。それはイエスが地上にあって生きられたいのちのことである。いのちの唯一の源は、主イエス・キリストである』 (オズワルド・チェンバーズ)

宗教の選択

同じ騙されるなら景色はより広くて自由な(と思える)方がいい、たどり着くことはなくても、できるだけ上からの景色は見てみたい、というのは人の性です(そこに山があるから)。

宗教というものに騙されていたと、もう一つ覚醒するのもいいですが、結局は、誰でも感覚器官を経由する何かの情報に振り回されて生きていく、その情報源と居場所を自分で「選ぶ」ことしかできません(善悪の知は選択することでしか取得できない)。

「選ぶ」と「信じる」は違う。

シュライエルマッハーのようにそれを「知った」上で(彼の場合はキリスト教に一度は幻滅した上で)、何かの宗教という枠組み(階層)を居場所として留まる(選ぶ)人が増えれば、それだけでもカルト団体の実害は軽減されてゆくと思います。

選んだだけで、その選択(選択した宗教や宗派)が信仰の対象にはならない。


聖書でも、人が神を選ぶのではなく、神が人を選ぶ。

人がまだ生まれもせず、善や悪を成す前から、神の選びは召される方に依存する (パウロ)

モーセやパウロに、自分が神を選んだという意識はない。

宗教団体のチョイス、神名表記のチョイスは、神の選びとは何の関係もない。

そのチョイスを「真の宗教」だと自賛する人は、自分の選択を崇めているだけです。

「真の」神が存在しないように「真の」宗教も存在しない。
(神や宗教が実在しないと言っているのではなく)

「真の」ラーメンや「真の」ハンバーガーが存在しない(決定できない)のと同じ。

選択できるだけなのに、その選択を誇る人は、自分が創ったのでもないものを讃える偶像崇拝者や表記(ブランド)崇拝者、または自分の目利きを高める自分崇拝者です。


神が神でないのなら、神にとって恥なのは人であり、その逆ではない (カール・バルト)

おこがましい表現を使うと、宗教の迫害ではなく、宗教の変革です。

でもバルトによると、宗教事象(というヒトの営み)の根本的制限を知らない者が「宗教の変革」を叫べば、どこかの新興教団のように、ただの劣悪な変種に堕ちるそうです。


キリストの恵みさえ罪悪感を煽るのに利用してとにかく業を!ですからね。

お前たちはこんなにありがたいキリストの恵みに感謝をシメサナイのか?

ワレワレに従わなければその恵みを失うのだぞ?

何という劣悪な「恵み」へと変種してしまったのか。

忌避対象

信者統制強化の一環なのか、統治体は「エホバの証人ではなくなった人」と「エホバの証人をやめた人」という、とても分かりづらい2つのグループを定義づけたようです。


エホバの証人ではなくなった人・・集会や奉仕に来なくなった人(忌避せず)

エホバの証人をやめた人・・エホバの証人をやめる意思を言動で示す人(忌避対象)


集会や奉仕をやめる、だけではエホバの証人をやめるとの意思表示とはみなしてくれないようです。この巧妙な区別は「エホバの証人ではなくなった人」を忌避していない、と対外的に主張するダブルスタンダード以外に目的が見当たりません。

でも信者向けには、15分でも奉仕報告出すのをやめたら「終わりまで耐え忍ぶ」ことにはならない(救われない)と、組織の神が任命したモリスは公に明言した。つまり戒律違反者かどうかは彼ら(統治体)の神には関係ない、布教と集会やめたら戒律違反者もろともハルマゲドンで殺す神、ということです。

JW布教集会への参加も「神の命令」だ、当人の命もかかっている、というならそれを怠る者は「キリストの教えにとどまらない者」と解釈することも余裕ですよね、も塔さん。

集会奉仕をやめた人間もエホバ様に倣って忌避したらいいのに。


彼らが一律に弱さゆえの援助対象(それもどうかと思うが)なら、理由はどうあれ戒律違反を犯した人は援助対象ではないのかな。「弱さ」か「弱さでない(やめる意思あり)」か、表向きの言葉にするかどうかで忌避対象を決めよ、というのが聖書の教えらしい。

援助と言いながら、個々の人には全く関心がない。

彼らの援助とは、組織のルール通りに扱ってあげること。

排斥も愛ある援助で、年に1回、排斥者を訪問するルールもエホバ様の寛大な憐みです。

ルールがすべて、そのルールとやらも、いよいよ支離滅裂になってきた。


勝手に神を代弁して家族関係を弄ぶのはやめましょう。あらゆる家族が負うのは宗教団体の名称や評判ではなく、神ご自身の名です。その恐れはないのでしょうか。

聖典宗教

WTに騙される、キリスト教に騙される、後者の方が幅は広いです。どっちの実害が大きいか、で言うと・・歴史も規模も違うし単純な比較はできませんが、今のISがやってるように異教徒を殺戮し、異端者は火炙りにしたキリスト教は遠い過去のことで、異端者や戒律違反者をこの現代で忌避するのがJWです。

ある福音系牧師の方は、イスラム原理主義(定義が難しいですが、イスラム教支配による主権というくくり)が変わるには、国際世論の高まりに応じて内部からの神学的改革が活性化するのを期待するしかない、と言います。外からの強制は内政干渉や宗教迫害になるからでしょう。

キリスト教もそうやって議論と変革を重ね、今では政教分離がスタンダードになっていると言いますが、一部のキリスト教に今も根強く存在するのは、自分たちこそ他の宗教すべてに優越する唯一の啓示宗教だ、という驕りです。

その優越性は、聖典至上主義の上に成り立ちます。

今さら十字軍の話をしてもね、というのはあるが、イスラム教とキリスト教の歴史は遠い過去のことだと、当事者たちに割り切らせることは容易ではないようです。

あるアメリカ人イスラム教徒(おそらくキリスト教からの改宗者)に、キリスト教徒はイサクをアブラハムの「独り子」だと聖書を改変した罪で地獄に落ちる、とすごまれたことがあります。

別に聖書が「改変」されているとかどうでもいいんですけど。原本が存在しないのに。

成立過程を調べるには奥深い対象ですが、キリスト教神学と同じで、新旧聖書正典化も発展を重ねて確立したものだし、その編纂(改変?)過程のどっからどこまでに神の霊感なるものが働いていたのかという、「神の霊感」の線引きには興味がない。


話を戻すと、彼らにとってコーランが「絶対」であるように、キリスト教でも聖書が「絶対」だ、という前時代的な信仰が根強く、その根本主義がぶつかり合うと収拾つかない。

その至上主義がある限り、キリスト教も平和と寛容と愛を謳いながら、不和と憎しみと恐れの種もまき続け、WTのように、それをこじらせた戒律カルトを生む土壌でもあり続けるでしょう。

コーランが読めるかどうかで判別して処刑するイスラム過激派、教会権威を批判した改革者を火炙りにしたというはるか大昔のカトリック、アロンの処刑された息子を例示して殺されないだけマシだと思えと、「反逆者」への忌避命令を正当化する現代のWT協会・・


世論の高まりに軟化するどころか、主流派のように世間の良識や学識に妥協するなと、内部の情報・思想統制と序列維持に躍起になるのがカルト支配の末期症状です。「自分たちの時が短いことを知り、大きな怒りを抱いて」信者をしつけようとしているかのようです。
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