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宣伝ですか

初期のキリスト教が広まったのは「宣伝」よりも「口コミ」に近いと思います。

誰もがパウロのようなアグレッシブな布教者だったこともなく、彼やフィリポのような布教者が行く先々で民衆に語る福音と行う「しるし」が話題になり⇒ 口コミで広がる、という感じです。

「宣伝」とは何かの組織に属している人が、営業目的でする商行為です。

ある程度いいものだという自覚があってするとしても、基本的には仕事(義務)で、ノルマ(目標)も課せられる。その分の見返りもある。

「口コミ」とは雇用関係にない(利害関係もない)人が、自主的に広めることで生じます。

ものみの塔は後者だと言います。

雇用関係ではない、だから何の補償もしない、というのはまさしく事実です。信者の方は組織のため、と思っていても、組織(協会法人)の方は、ウチのサイトや機関紙見て勝手にやってるだけ、事故や事件が起きても「わたしたちはその人を知らない」と逆否認されてしまう。

ガイ・ピアースはおんどりの鳴き声を聞いたか (近日公開)

本当に話題性のあるものは、その団体の構成員よりも、構成員ではない(利害関係がない)人によって良くも悪くも広まるものです。それが口コミです。

良い評判でも、悪い評判でも、それを聞いた人が自分で確かめてみたいと思う。

イエスの初臨も、良くも悪くも彼の噂(口コミ)はユダヤ人社会を二分した。「ユダヤ人社会」の終末だったのでローマ側の史実では言及がない(数十年後のタキツス他がわずかに言及)。


でもJWの場合、良くも悪くも利害関係ががっつりある人によってしか広まらない。

も塔がなくなると困る擁護者か、なくなってほしい批判者です。


利害関係のない大多数の人は知らない、関心もない。

一応は三大異端と評価?されているので、その他2つと似たり寄ったりの知名度はありますが、その程度でJW宣伝が世の滅亡前兆だ、と言われても説得力ゼロです。

キリスト教系の新興集金団体としては、それなりに役立っている歯車の一つでしょう。


主力英語圏のようにJW問題がメディアでもっと報道されればいいのに、という人もいますが日本では必要ないと思います。わずかな利害関係者には死活問題でも、それ以外の大多数の人は興味がない、あえて知る必要もない。何も知らずに勧誘を受けた人、何も知らされずに育てられて迷い始める2世も、ネットの口コミや解釈検証を少し見れば十分です。

ゴリゴリ信者はメディアで叩かれると「アッシリア人の攻撃だ」と活気づきそうです。
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WT商法

WTが批判される商法はあげればキリがないですが、次の2つだけでも十分でしょう。


解約時のペナルティが悪質、しかもそれを明示しない

JW.orgでは「エホバの証人ではなくなった人」を、集会・奉仕などのJW活動をしなくなった人、という別の定義に変えて忌避しませんよと言いながら、「やめます」と意思表示した人を「エホバの証人ではなくなりました」という文言で告知して、変態性犯罪者と同じように忌避させる。理由は一律に極秘なので、性犯罪者も社会的には匿われてしまうパラダイス。

誇大広告や不実告知

「1914年に生きていた人の中にはこの世の終わりを目撃する人がいる」

「1914年に生きていたアブラ者と、この世の終わりを目撃するアブラ者の生涯が重なる、という意味だったようです(現在はアブラ期間が重なる、に再調整)」

これを期待ではなく、広告媒体に載せて宣伝している。

全能創造神が経営する唯一の代理店と称して、未契約者、解約者の裁きを宣伝している。


こういうのって、「不完全さ」とは関係がないです。

かつてある巡回さんは、「この会衆が寒いと愚痴る前に、自分がどう暖かくできるかを考えなさい」と言った。JWの場合、霊的パラダイス(コミュニティー)なるものは品質の一つです。今や解釈が破綻しまくっているこの団体には、もうコミュニティーしか残されていない。

勧誘された側に、その大仰な看板主張を立証する責任があるのかは知りませんが、JWはマルチマーケティングを徹底する(対面販売でしか売らない、販売に加わってからでないと売らない)ことで、客に売り手側の連帯責任を負わせて、契約者からのクレームが出にくいようにしている。

ローカル会衆の品質は人に依存する、というのはそうかもしれないが、商法が上が決める。

そして何より、その商法が批判されている。


問題になるのは「宣伝」という行為です。

『王国を宣伝し、宣伝し、宣伝せよ!』

そもそも、キリスト教は「宣伝」によって広まったものなのか。

品質と商法

クレームが起きる場合、いくつかのケースがあります。

品質に対するクレーム

商法に対するクレーム

自分がクレームをつける場合は(滅多にないと言いたい)後者が多いです。

多少の品質にはうるさく言いたくはないです(一応これでも)。

自分が吟味・納得して買った商品にいちいち細かなクレームはつけません。

値段相応の価値があるかを見極めて、それに見合わない期待はしない。

値段に見合わないと判断すれば、そもそも買わない。

一度は納得して入信・経験した団体にケチつけるなよ、という批判もあります。

でも、品質はそれなりに気に入っていたので、一度は自ら有料会員にまでなって通った店があったのですが、わざわざ送ってきたDMの広告宣伝内容とは違う対応をされてクレームを入れたことがあります。

その信頼を、商法に裏切られた、と感じる場合です。

その場で指摘しましたが、決定権のない末端店員さんを問い詰めても可哀想なので、DM送信元の本社にメールを入れました。

翌日すぐに、「本社から連絡がありまして・・」という謝罪電話と、広告通りのサービスを受けられなかった埋め合わせ補償として、本社から提示された選択肢からお選びください、という申し出がありました。

謝らない宗教団体とは、どえらい違いです。

謝らないどころか、巨額訴訟裁判で負けても「背教者のウソ」でつっぱねますからね。


話を戻すと、品質と商法の違いです。

WTが批判されているのは品質の欠陥(不完全さ)よりも、主に商法だと思います。

商法が誠実なら、多少の欠陥(不完全さ)でそこまで悪くは言われないでしょう。

しかもその商法がますます姑息になっている。

品質の欠陥(不完全さ)は姑息な商法の言い訳にはならない。


欠陥品なら、きちんとそこを明示して「ワケあり品」として売りましょう。

世界最高品質の教育!と自賛誇大宣伝しておいて「不完全ですから」はないだろう。

グラフェー

類似性の話に戻ると、比較文献学による類似性の発見は、どっちがどっちを借用したという安易な結論に陥りやすい傾向もありますが、それとは別に、ごく単純な事実として、近い時代に存在していた宗教思想には似通った点がある、ということです。

それを謙虚に認める人は、自分の宗教宗派や聖典だけが唯一無二の超越啓示だ、という縛りから自由にされますが、JWは己以外の宗教宗派や聖典解釈はすべて悪魔が似せて作った偽札だと、根本主義の中でもずば抜けて過激なことを言います。


イエスが口述筆記を含め、何の聖典(と崇められるもの)も書き残さなかったのは事実で、自分が属するユダヤ教を反響版にして、その枠組みに留まりながら言質を与えずに(律法の一字も過ぎ去らない)、字句主義を転換させる(そのままの字句で本質的思考を真逆に裏返す)発想から、「彼」をユダヤ教律法権威主義者を苛立たせる覚醒者とする見方もあります。

牧会書簡(第二テモテ)にある「すべてのグラフェー(現在のビブリアではない)」に何が含まれていたかを確証する術はなく、ブログ初期の無知な頃は(今も無知ですが)旧約のことだと書きましたが、基本的にはそれでよくても突き詰めるとそんな単純な問題でもないようです。

WTが新約正典の根拠として、そこだけは絶対の信頼を置くかのように採用する証言をした初期教父たち(エイレナイオス、クレメンス等)も、現在の正典以外のユダヤ文献を「グラフェー」として引用している。

WT洞察は一箇所(それだけか)、第二ペテロがパウロ書簡を指して「グラフェー」を使っていると指摘するが、これが逆に第二ペテロの成立時期を示唆している、と解釈される場合もあります。

反対する者も多かったパウロ書簡が権威として定着したのは2世紀から、正統・正典論争の火付け役の一人となった2世紀のマルキオンも、ルカ福音とパウロ書簡を「聖書」だと主張した。



最新のも塔でも、ヘブライ4:12の「神の言葉」は聖書(グラフェー)のことではなく、それは「言葉」によって明らかにされ、形作られる神の目的のことを指していて、その一部が「聖書」(になったもの)にも記されているにすぎない(略述されている)、という記事があります。

神の休みに入る、という約束も神の目的の一部なので、その休みに入るために、モーセの律法を守ったり、エホバの是認を得るために他の業を行なったりすることもない、とあります。

TVイメージキャラ出演に忙しいハッピー☆統治体も意味が分かっていないであろう、こういう記事がさりげなく入っているあたり、まだ良心的な執筆者が残っている可能性をうかがわせる。

じゃあ、現在の新約含めて一字一句が神聖無謬の、唯一絶対の聖典として崇めなければ読む・学ぶ価値もない、となるでしょうか。そんな極端なことにはならないと思います。「聖書の神」というちっさい枠にはめないでほしいですね(そんな限定的な定義づけは聖書にもない)。

それよりはるかにちっさい「WTの神」を作ってしまった人たちもいますが。

偽作文化

キリスト教を含めた各種思想の類似を考察する比較文献資料も読むと面白いです。

といっても、類似があるだけでほら異教由来だ、というのは短絡的です。
(WTも都合のいい時は、三つ組みだけで異教由来だとか主張する)

盗作なのか、インスピレーションを受けたのか、も断定は難しい。

モノを作る、書く人間は、何かにインスピレーションを受ける。同時代に生きていれば同じソースや価値観からインスピレーションを受けている可能性は普通にあります。

聖書の土壌でもあるヘレニズム文化では偽作は普通に行われていた習慣です。

その人からインスピレーションを受けたのか(またはその人のスピリットを受け継いで書いたのか)、それともその人物の名を騙ってだまそうとか、箔を付けようという意図があるのかないのか、単純にその名前がその文化でごくありふれたものだったのか、さらにそれをペンネームとして使っただけなのか、はるか後代からは判断がつかない場合が多いようです。

だから「偽作」とか「偽名」というと響きが悪いですが、真筆か偽筆か、単純にありふれた名前の別人か、なんて結論の出せない後代の議論なので、そういう議論があること自体のみで、その文書の史的価値や内容の信ぴょう性が失われることはありません。

WTのように、原始伝承通りの著者でなければ「信じる」に値しない、偽作=意図的な偽物(本当にそういう可能性もゼロではないですが)と決めつけるのも極端な話です。

一例として、新約巻末の「ヨハネ啓示」を書いた「ヨハネ」も誰なのか分かっていません。その書自体も、それを書いている当人が「イエスの直弟子であるゼベダイの子ヨハネ」とは一言も名乗っていないし、それを伺わせる記述もありません。

WTが採用する「イエスの直弟子だった」説は、例によってかのパピアスを初めとした初期教父たちの連なる証言に基づく原始伝承にすぎないので、そんな大昔のことは証明も反証もできません(可能性を論じることしかできない)。完全に反証できないなら「信じる」ことも否定できまい、と意味不明なループをする人がいますが、証明というプロセスを経ていないものを反証はできません(間違ってさえいない)。

今でも、聖書の著者名を使ってブログを書いている人もいます。

自分を含め、今ブログ書いている人なんてほぼ「偽名」です。そういう文化ですから。

「偽名」を使って書く人が全部嘘を書いているとか、全部事実を書いていることもない。

取捨選択することは必要です。

「聖書」を細切れにして取捨選択している(そういう人もいます)という批判もありますが、原著の真意を洞察する(悟る)には史的研究や文献比較は必須だと言っているにすぎません。

そうやって得られた奥深い洞察に「神の霊感」を見る人は、そう結論すればいいでしょう。

断片的な字句を神の命令だと振りかざす底の浅い権威主義はカルト被害を生むだけです。

いわしの頭

いわしの頭も信心から、ということわざにあるように、宗教とは「信じる行為・拝む行為」のことで、あとは信じる対象として何をチョイスするのか、そしていわしの頭だろうが奇妙なJW解釈だろうが、「信じている」と言いさえすれば聖域になる、という考えが今も根強いですね。

そういうのって、もう古い宗教観だと思います。

これも伝統的な信仰を見下すリベラリズムの驕りなんでしょうか。見下す人もいます。

でもこれは新しいことでも何でもなく、イエスが教えた思想にも見られます。

イエスがキュコニス派の影響を受けたシニカルな哲人だ、というのもやや極端な主張です(共通する逆説的な要素などは見受けられますが)。

Q資料やイエスのオリジナル語録とか、というくくりも好きではありません。

でもマタイ5章から7章の、いわゆる山上の垂訓をまっさらに読んでみましょう。

「信じる」というアイデアはそこになく、冒頭の八福にも出てきません。

「言葉」であるイエスは、すべてを自明の事実として、またその事実を基に語ります。

その観察可能な自明の事実から何を悟るのか、それをどう生き方に表すのか。

その意味を悟り、行う者は岩塊の上に家を建てる者のようである、と締めくくります。

それとは対照的に「信じる行為」に重きを置く宗教観は、砂上の楼閣です。

嵐が打ちつけると、その崩壊は酷いものです。

「信じていた」ものの根拠が崩れ去ると、その信心も容易く崩壊する。

聖書に書いてあることを一字一句その通りに「信じられなくなった」(創造とか復活とか奇跡とか)からクリスチャンをやめた、という人はJW以外にもいました。それに対して「聖書を信じる」根拠を必死に提示しようとするのがJW布教です。自分がこれまで読んできたキリスト者たち、そしてまだ部分引用しか読んでませんが、前記事のオズワルド・チェンバーズの信念もそんな浅くて脆いものではないようです。

信仰や信心を 「信じる行為」 に置き換えてしまうと、人の判断であり、行為です。

何をチョイスするのか、その根拠は何か、という見かけの論証(砂)の上に築かれる。

自分のチョイス(これが正しい)やジャッジ(根拠がある)を信じていることに気づかない。

本当に何かが証明されるなら、もう意見は割れない、そこに選択も信仰も意味をなさない。

観察/経験可能な自明の事実から理を悟る人の価値観は、岩塊の上に建つ家のように、(宗教)信条というPOPやラベルの表記論争によって崩れ去ることはない。

「信じるかどうか」ではなく、その意味(中身)を悟る者 (マタイ13:23) でありたいと願うこの頃です。そういう視点での「個人研究」はこの組織では教わりませんでしたからね。

「信じるか信じないか」「従うか従わないか」という二元論をつきつける、教条主義・戒律主義の宗教宗派は、いずれ変革や衰退を余儀なくされるでしょう(と願いたい)。

雲の中に

神学や史的検証の本は少し飽きてきた(笑)こともあり、読んでみたいと思った人の本があるのですが少しお高い…ということで検索すると幾らか引用があったので、主たる自分のブログの趣旨を超えない部分引用の範囲で、著者の宣伝になればと思い拡散します(まだ買ってないのに)。オズワルド・チェンバーズ(1874~1917)という人です。

『私たちがある信条の擁護者になるとき、何かが死ぬ。つまり、神を信じているのではなく、神について自分の信じていることを信じているにすぎない』

教条主義になること、解釈論争すること、への戒めでしょうか。彼は、まず自分が属するキリスト教への自戒の言葉が多いところが読んでみたいと思う理由です。


『イエスは弟子たちに奉仕において成功を収める事を喜ぶのではないと言われた。にもかかわらず、それこそほとんどの者が喜ぶ一事であるように見える。私たちは商業主義的な考えを抱いている。「こんなに沢山の人が救われ、きよめられたのだから、やれやれこれで大丈夫だ」と言う。働き人が神の中でキリストと隠れたところで交わりの生活をもって生きていなければ、神の霊がその内に宿る人ではなくて、気短いさしずがましい人になる・・弟子になるということはいつも選択が与えられているということである』

商業主義とは金儲けに限定されないんですね。新約には受洗した人数の記録がわずかにあっても、会衆ごとの人数やクリスチャン人口をカウントする指示はないですね。布教時間まで紙に書いて提出させる、時間数でランク分けして個人名を発表する、不動産ビジネスで蓄財するリアル商業主義セクトもありますが、そういう人たちには「指図がましい」特徴があるようです。


『神の名を汚さないようにせよ。神は決して反論されないし、ご自分の正しさを擁護しないので、神のご性質に泥を塗るのはたやすいことである。神は聖徒を最も役に立たない所に置かれる。われわれは言う。「神が私をここに置かれたのは、私がとても役に立つからだ」と。しかしイエスは最大限に役に立つという視点でご自分の生涯を評価されたことは一度もなかった』

神の名をたやすく汚す方法は、愚かしい人間の説明や勝手に考えた穴だらけ解釈で神を擁護するとか、自分たちだけが神に用いられている(役立っている)唯一の団体だと主張するとか、たくさんあります。


『雲とは神がそこにおられることの証拠である。悲しみや死別や苦しみが神の乗って来られる雲であるとは、なんという啓示であろうか!

神は雲なしにはわれわれに近づかれない。神は輝く白日のもとには来られない。神は試練によってわれわれに何かを教えようとされていると言うのは本当ではない。

神がもたらされるすべての雲によって、神はわれわれが今までに学んだことを忘れることを求めておられる。最も暗い、最も暗澹たる事実を、神のご性質を損ねることなしに直視できるようにならなければ、神を知っているということにならない。

「彼らが雲の中に入って行った時、彼らは恐れた・・」 (ルカ9:34)

あなたの雲の中にイエス以外に誰かがいるのだろうか。もしいれば、さらに暗くなるであろう。

あなたは「もはやイエス以外にだれもいない」という所にまで来なければならない』


彼がたどり着いたキリスト者の境地が凝縮されているかのような箇所です。JWが「エホバ」を求めて雲の中に入ると、余計な人たちがたくさんいそうです。満面の笑みを浮かべたレット君とか。

余計な例え

「耐えられる以上の試練には遭わせない」 (コリント第一10:13)

これを本部付きの人がどこかの話か何かで橋の強度に例えていた。

橋を作った人は耐えられる重量(リミット)を知っている。

創造者も一人一人のリミットを知っている=A

だから生じるすべての試練は自分のリミット内のはず=B

だって創造者はリミット以上の試練を許されることはないから=Aに戻る

という相変わらずの循環論法。

まず人を橋に例えていいんでしょうか。モノ扱いですね。

橋はギリギリの重さに繰り返し耐えることで強度が増すことはない。

むしろ劣化が早くなる。

人をモノか、組織を富ませるための駒か、くらいに都合よく使われて早いと30代で燃え尽きるとか、原因不明の体調不良に悩まされる2世もいますね。

創造者の精錬に耐えられなかった脱落者決定です。

だって創造者はその人が耐えられる以上の試練は許さなかったはずだからね。

重い荷物を持っている人を見て、あれくらいの荷物ならあの人が運べるリミット内だな、と判断して助けるかどうかを決める人がいるのかな。人は神の像どころか、神の方が人以下ですね。


そして先週使われたも塔。

「終わりまで耐え忍んだ者が救われる」 (マタイ24:13)

さてこれも例えちゃいますよ?

「船が転覆したとします。生き延びるためには岸まで泳がなくてはなりません。岸まであと数メートルの所であきらめる人は、それよりずっと早くあきらめた人と同じ結果になります」

ヨブの記事でも書きましたけど、聖書的に耐え忍ぶって信心を失わない(神のみぞ知る)ことで、ヨブが目に見えて「何をしていたか」と言えば、悲嘆にくれて座っていただけですよね。

あと数メートルの所まで必死に泳いで「もうだめだ」とあきらめる人を、「あと少しだったのに残念だね~」と見捨てる神ですか。キリスト教って、荒波に放り出して自力で岸まで泳がせることで、その褒美としての救いを説くような、スパルタマゾヒズム宗教でしたっけ。


聖書はそれほど悪くないとしても、所々の字句から短絡的に連想するだけのWT例えが余計な邪魔をして、聖書やそこで描かれる神の評判を下げているようにしか思えないんですが。

血液の闇

旬はとっくに過ぎた感はありますが、宗教書の箸休めに「血液の闇」を読んでみた。

輸血に限れば大筋でWTの主張と変わらない。

輸血が必要と判断されるヘモグロビン値の基準はあてにならない
輸血ではなく輸液でまかなえる
輸血はリスクいっぱい

このあたりは聖書とは関係ないお話なので、専門家にお任せするしかないですね。
この人も専門家らしいので、この人を信用したいならすればいいんじゃないでしょうか。

面白いのは、医療全般に対してはWTよりも過激な主張が含まれている点です。

輸血利権はロックフェラーを中心とする闇の勢力に牛耳られている
緊急時でも輸血より海水療法が効果的・・カントンプラズマ(海水由来血漿)?とか

ボランティアじゃないし、医療にそれなりの利権が絡んでるのはあたり前と思いますが。
リスクがある臓器移植と同じで、できるだけ輸血しないのにこしたことはない。

WTが問題視されるのは絶対的輸血拒否を「信者の地位」の条件にしているからです。年端もいかない子どもにまで「輸血という救命行為はエホバ様が憎まれる」と教え込むよう指導している。

この人も現行の西洋医学で行われている99%の輸血は不要と主張しているが、それを額面通りに受け取るとしても、残りの1%の状況でどうすべきかを明言していない。

その1%の事例として、一昔前はほどんどが死産に終わっていた産婦人科疾患の胎盤剥離を挙げている。現段階では私にもこの分野だけは結論が出ない、と言っているが、その少し後では交通事故でも同じ状況(輸液では追いつかない急速な大量出血)があり得ないとは言えない、と書いている(あれ)。

自分の妻が今そのような状況になったら無輸血で他の処置を可能な限りやってもらうことを選択するだろうが、その判断が正しいかは分からない、と正直に言葉を濁している。WT信者の輸血拒否が問題になるのは、まさにそういう状況での、絶対的輸血拒否なんですけどね。

それはこの人自身が使っているたとえが説明している。砂漠で脱水症状を起こし、命が危険な状態になるが手元には体に悪い?コーラしかない。水分補給に適しているのは水やスポーツ飲料だがそんなものはない。じゃあ体に悪いからとコーラを拒否して死ぬ人がいるのかな。

安易な輸血はやめよう、相対的にリスクの低い代替療法を促進しよう、という主張なら結構だと思いますが、絶対的輸血拒否信条は、体に悪いとか、リスクがどうのとは別次元かと。

ま、こういう本を書けば、も塔関係者にはそこそこ売れたでしょう。

カントン療法は医療利権に潰された!というなら、金満WT協会(最近は財政難らしい)とタッグを組んで自前の病院を作って失血死寸前の患者に海水でもポカリスエットでも注入してみたらいいのにね。まず認可が出ないと思いますが、それも闇の勢力がクリーンな医療を潰そうとする陰謀なのかな。

この本に専門的に反論する知識も暇もないが、真偽はともかく、鵜呑みの塔信者には利権まみれ(笑)の病院で治療を受ける時には「血のブロシュアー」よりも、この本で「証し」してほしい。

「西洋医学は闇の勢力を牛耳るロックフェラーの利権温床で、赤十字は人口削減機関、輸血は医療報酬目当ての最たる悪事ですよ?死んでもいいからやめてくださいね?」

それが事実かどうかに全く興味はないが、医療界での立場がさらに悪くなるのは間違いない。
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