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失独家庭

失独家庭、という言葉を目にした。

中国が一人っ子政策を撤回したが、政府が面倒を見る、という約束を信じて一人しかもうけなかった子どもをなくした親たち。政府に約束を果たせ、と抗議の声をあげているらしい。

日本JWもいずれ失独家庭が増えていくでしょう(あ、一人もつくってないのか)。

子なし2世夫婦が高齢者になるまで、どれくらいかな。

現在の高齢者1世には、なんだかんだ子どもがいる。

「サタンに取られた」呼ばわりされて疎遠になった、場合によっては悔い改めない邪悪な者と忌避される離れ2世たちも、いずれ必要になれば、なんだかんだで親の世話を見るだろう。

しかし離れなかった2世夫婦には子なしが多い。

「えほば様は見捨てない」と約束しても、組織は組織都合のリストラを繰り返す。

調整、という聞こえのいい言葉で、ハルマゲリミットを何度撤回すれば気が済むのだろう。

都合よく宗教信仰に逃げて責任の所在をぼかさない、抗議の声がストレートに上がって報道される無神論共産体制の方が、まだ健全なのかもしれない。

その共産体制に幻滅する人をひっかけて、「愛ある組織&間近い楽園」という耳をくすぐる無責任かつ甘い勧誘文句で、かの国に狙いを定めて目先の信者を増やしているようですが。
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人物崇拝

宗教権威が謝らないのは今に始まったことではありません。

新約にもその前例らしきものがあります。

『この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、それからそちらを通ってマケドニヤにおもむき、そして再びマケドニヤからあなたがたの所に帰り、あなたがたの見送りを受けてユダヤに行く計画を立てたのである。この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか』

も塔の説明によると、パウロが後に計画を変更した流れは↓のような感じです。

① その計画を知らせた後にコリントで深刻な問題が幾つも発覚

② パウロらしいキツめの手紙を書いた(コリント第一)

③ 彼らを悲しませたくない(行きづらくなった?)という理由から「彼らの益を考えて」助言を適用するための時間を置いてあげることにした

パウロらしくとても上目線ですが、それはいいんですよ。分かりましたよ。

でもさ、正当な理由だったと言い張る前にですね、「人」には先見できないことが山ほどあるんだから、一度は約束したことを変更するなら、まず普通に謝ろうよ。神なるものが存在して、その神が明言した意思を撤回するとしても謝る筋合いなどない、被造側が説明謝罪を請求する権利などない、というならそうなんですが、パウロは神じゃないですよね。

『神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に「否」というようなものではない。なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである』

いやだからさ、そんな話はしてないよね。

論点変わってますよ。

自分は軽率ではない、そして我々があなた方に伝えたキリストにおける神の約束も違えることはない!ということなんでしょうが、それは分かりましたよ。

キリストが生前に選ばなかった彼の使徒職に難癖つける人がいて過敏になっていたのかな、というのも分かるんですが、計画変更は普通に謝ればいいんでない?

勘違いしないでほしいのは、自分は偉大な布教者パウロ兄弟をリスペクトしていますが、彼の言動すべてを全能神の権威と奉るつもりはないだけで、それはパウロ兄弟本人も拒んでいます。

ただの人物崇拝(パウロ教)だよね。統治体崇拝やJW商標崇拝はさらに論外ですが。



パウロは私的弁明をしただけなのに、こういう私信もひっくるめて「聖書という絶対権威」と崇め利用して支配する宗教権威は・・頑なに間違いを認めないし、絶対に謝らないからね。

計画変更くらいならいいですが、命の脅しを伴うハルマゲリミットを言い切って何度も外すとか、児童虐待を組織的に隠蔽するとか、謝るどころか事実認否さえ拒む宗教権威もあるようです。

謝罪と許し

「たとえその人があなたに対して一日に七回罪をおかし、『わたしは悔い改めます』と言ってあなたのもとに七回戻って来たとしても、あなたはその人を許してあげなければなりません」

ルカでは「わたしは悔い改めます」と言って戻ってくる、というくだりが入っています。

聖書は許すことを教えていますが、謝罪することも教えています。

WTの教えは「とにかく一方的に許せ」に偏っています。

まあ、謝らない相手でも許すのもいいかもしれませんが、何かの実害が生じた時に当然の償いをするという意味での「悔い改め」を要求するのも悪いことではないと思います。

その償いをして初めて、その人は「許しを請う」というスタート地点に立てるでしょう。

例えば、その人が無謀な車の運転をする傾向があるなら今後の抑止になります。

妄想偽預言解釈癖を繰り返す傾向があるオオカミ少年団体はもう変わらないでしょうが、そこに属する個々の人の良識に、無責任な宣伝をやめるよう働きかけることにもなります。


これは一般論ですが、「人の不完全さを許す」のと「当然の償いや謝罪を請求する」のは、次元が違う話のような気がします。それをごっちゃにしてポジティブやネガティブという精神論で片づけていいのかなという。

ちなみに、聖書の神も謝らない(悔い改めない)と殺す神ですよね。

永遠の都

WT解釈をからっぽにして白紙の状態で、皆さんが「神の言葉」と信じるものに素直に耳を傾けてみてください。新世界訳より引用します。

『信仰によって、アブラハムは召された時それに従い、自分が相続財産として受けるはずの場所へ出て行きました。しかも、自分がどこへ行くのかを知らないのに出て行ったのです。信仰によって彼は、異国にいるようにして、約束の地に外国人として居留し、自分と共にその同じ約束の相続人であるイサクやヤコブと共に天幕に住みました。彼は真の土台を持つ都市を待ち望んでいたのです。その都市の建設者また造り主は神です。信仰によってサラも、年齢の限界を過ぎていたのに、胤を宿す力を受けました。約束してくださった方を忠実な方とみなしたからです。 そのゆえにも、一人の人から、しかも死んだも同然の人から、数の多い点で天の星のような、また海辺の砂のような、数えきれないほどの子供が生まれたのです。

これらの人はみな信仰のうちに死にました。彼らは約束の成就にあずかりませんでしたが、それをはるかに見て迎え入れ、自分たちがその土地ではよそからの者、また一時的居留者であることを公に宣明しました。そのように言う者は、自分自身の場所を切に求めていることを明らかにしているのです。 しかも、もし彼らが、自分たちの出て来たその場所をいつも思い出していたのであれば、帰る機会もあったはずです。しかし今、彼らはさらに勝った場所、すなわち天に属する場所
(天にあるふるさと:口語訳)をとらえようとしているのです。ゆえに神は彼らを、そして彼らの神として呼び求められることを恥とはされません。彼らのために都市を用意されたからです』

では質問です。

アブラハムは地上の楽園に復活するのでしょうか。

彼らが生まれ育ち、出てきた場所を思い出した(自分のふるさとのように:口語訳)なら、いつでも戻ったであろう、と言っていますよね。彼らは流浪の前から、川向こうのメソポタミアの地でも、自分たちがどこかよそ者のように直感していた、だから出て行ったんじゃないかな。土地の神を崇拝する父親をハランの地で葬ってから。

たった一人で小さな祭壇を築いて知られざる至高神を呼び求めた(信仰の父)、それがエル・シャッダイであり、エールエルヨーンであり、偶像を持たないアブラハムの宗教の始原ですよね。だから彼は初めから見えざる実体を想い見た、それがヘブライ11章のテーマですか。

では足の幅ほども相続地を与えられなかった(使徒7:5)、仮に相続できたところで、今では彼の胤=末裔たちが空爆とテロの応酬を繰り返す血塗られた土地が、彼の報いなのか。

どこへ行くのか知らなかったのに、それをはるかに見て迎え入れた彼に対する約束の成就とは、彼が足の幅ほどの相続分も与えられなかった、この地のどこかにあるんでしょうか。


世界政府(昇天した歴代統治体)が支配する楽園では土地が分配されるんでしたっけ。

でも上意下達で指示されるから自分が住みたい場所には住めないんですよね。

キリストが自分の命に移された人のために用意する父の住処とは、不公平感や切なる願いを押し殺して統一政府の指示に絶対服従することが強要される、全体主義の世界なのかな。

そんな唯物/可視的世界にアブラハムは「復活」すると新約筆者は考えていたのか。

この地ではよそ者であり、一時居留者であることを宣明する者は、自分自身の場所(自分が本来属する場所)を切に求めていることを明らかにするのです。

それがゆるがぬ土台を持つ永遠の都=天に属する場所でないのなら、新約を読むことに一体何の価値があるんでしょうか。アブラハムの神が敵(異教崇拝諸国家)を滅ぼしてユダヤ神権統一政府を樹立するなら新約いりませんね。「新約聖書」がなかった頃のユダヤ人追随者はイエスに革命家になることを期待したんだから。



『かたくなで、心と耳に割礼のない人たち、あなた方はいつも聖霊に抵抗しています。あなた方は、父祖が行なったとおりに行なうのです。どの預言者をあなた方の父祖は迫害しなかったでしょうか。そうです、彼らは義なる方の到来について前もって発表した人たちを殺し、あなた方は今、その方を裏切る者、また殺害する者となりました。み使いたちによって伝えられたものである律法を受けながら,それを守らなかったあなた方が』

魂の故郷

初期教父オリゲネスはキリスト教の復活教理が、インドの賢者たちが唱えていた宇宙観=生成と消滅(死と再生のサイクル)に「共通の土台」を持つのではないか、との指摘に反論します。

「われわれが復活についての教えを唱えるのは、ケルソスが言うように、魂の輪廻転生の教説を誤解したからではない・・すなわち、魂は本性上非肉体的かつ不可視なものであるが、そのつどの肉体的な在り処で、その本性上その場所にふさわしい身体を必要とするのである。そもそも魂がそれまで担っていた身体は確かに必要不可欠なものではあったが、今や第二の境涯には余分なものとなったので、魂はそれを脱いだ上で、現在の身体を担っているのである。さらには、それまでの身体の覆いの上に、さらに純粋で澄んだ大気の天の場所に居るために必要となるもっと上等の衣を重ね着することになる」

もうこれ、そういうことですよね。後は読まれる方の判断にお任せします。

ただ、イエスが肉体のまま雲に隠れながら見えなくなり昇った「天」とは上方の別世界(魂の故郷)・・さらに純粋で澄んだ大気のある場所と考えられていた、そんな時代に抱かれていた願望なんですよ。

教会史家のエウセビオスもこれに続きます。

「胎児が地上に生まれてくるときには、定められた月数の時が訪れるやいなや、胎児はそれを脱ぎ捨てると、その後は光へ向かって進み、新鮮な空気を呼吸して、以後は人間という本性に与る者として数えられる。それと同じように、見かけばかりが完全な人間種族も、天にあるさらに優れた種族に比べれば、まだまだ子供であって、いまだに地上で懐胎されて、この朽ちゆくべき身体の皮膚を着せられている状態にすぎない」

そういうことのようです。

パウロが自らを「月足らずで生まれた子」と評したように、人間とは外面ばかりは「神の像」であるが、内面は愚かしい「みどり子」のようである、すべての罪深き人間も神の栄光に達することはなく、キリストの丈を目指して円熟=成長すべき、現世とは魂の修練(自己放棄)の場であり、とらえるべきものは今の命でなく「真の命」である、という思想にも通じるものがあります。

と考えると、神が現世の悪を放置しているのはなぜか、という疑問も論議もパウロは一切持ち出していないのもすっきりします。この世界とはそういう場所だからです・・(この世界は真の住処ではない、キリストが用意してくれる父の元にある住まい、真の土台を持つ都市へ、信仰の父アブラハムはそれを知らなかったがはるかに見て迎え入れたという霊的解釈)

初期キリスト教時代にはいろんな思想が混在していて、主流派が各種の異端思想を排除し、この宇宙と自然は本質として善であり、旧約含む「聖書の神」は常に万物を司る神聖な存在である、という一体性が確立されたアウグスティヌスの時代から神義論らしきものが始まります。

これをこじらせると、天=上方にある来世の命(JWでは来るはずの楽園の命)を夢見るあまり、現世における主の業を限りなく狭めてしまう(ひたすら宗教解釈知識の宣伝のみ)という、新約にも名残があるグノーシス的弊害が生じる事実は、一部のキリスト教関係者も認めています。

己の信念のままに福音を説く人は尊重しますが、生涯のあらゆる見込み(命を伝える可能性さえ)を教団のヒト・カネ集めのために放棄するよう仕向け、そうしない人間、トッケンを目指さない人間、宗教信条(単なるPOP)が違うという理由で「不信者」との結婚を断罪する、信者夫婦の出産さえ「布教や特権の障害」にしてしまうWT教化はとても福音などと呼べる代物ではない。


結論としては、聖書の復活思想は統一されたものではなく、それぞれの時代環境やスピリットの影響下にある人が、それぞれの願望や生死観を表現しています。

それを各自が受け取るままに願望の拠り処とするのはいいと思いますが、現世のすべてが「今の命」を試す悪魔の陰謀としか見えなくなる、黙示文学の独自解釈に比重を置いて「不完全で邪悪な世の滅亡」をひたすら吹聴するのはイエスのスピリットではないと思います。

殺せない魂

キリストの先在=永遠性=不滅性という啓示の付随なのか代償なのか、ニワトリが先が卵が先かは知りませんが、魂の先在=不滅性もキリスト教神学の定説になりました。

人には体を殺せても、プシュケーまでは殺せない、という新しい光(笑)です。

ヘブライ語のネフェシュとギリシャ語のプシュケーが同じ思想?概念?実体?を表せるはずもなく、単純に統一させようとすること自体が、稚拙な字句主義なのです。

かみ=エール=セオス=GODも厳密に成り立たないのと同じです。

実在と唯名のどちらが普遍なのか?人の理性に先立つ真理なるもの(言)が「初めにありき」で、それを指示できる表記体系がない(発見?考案?啓示?されていない)だけなのか?

とにかく便宜上の表記を作って、後でこの単語はこれこれこういうことだと定義論争すれば(「えほば」みたいに)いいのか?という話はここでは置いておきます。


話を戻すと、するとヒトの受胎の瞬間に魂もそのつどクリエイトされているのか(無限に増える)、それとも体とは魂がこの「罪深くて不完全な世界」に産み落とされる時に入れられる「土の器」(パウロ)なのか、という議論が生じます。

パウロの「土の器」発言、「地上にあるあなたの(現在の)肢体を死んだものとせよ=肉欲の否定」発言、より勝った朽ちない「カエレスティアの体」を身に着ける発言が、その時点でギリシャ思想の影響を受けていたのか、それとも後代の教父がギリシャ風に解釈するようになったのか、はよく分かりません。

自分はおそらく前者と考えます。

JWは聖書を文字通り信じると言いながらキリストの肉体における復活を否定しますが、そのあたりの流れを全く分かっていないからです(自分も素人ですが)。

霊体の復活てなんかグノーシスぽいよね、と当時ですでに異端認定されています。

その体とは天界用の体なのです。

えーでも不滅の魂(永遠の命)があって器が変わるだけなんて、それはそれで輪廻っぽくない?

・・と思った方、自分もそう思います。

そういう議論はすでに2000年近く前の関係者が本気でやりあっています。

そのことについてはさらに次回。

復活信仰

何人かのキリスト者の著作を読んで、命と霊を遺すことを人生の目的(と単純に明言する人はいないがそういう「スピリット」を感じた)と捉えている(と自分は読み取った)内容を書きましたが、すると聖書の復活信仰はどうなるの、という話になります。

やはりこれも、聖書の筆者がそれぞれの生死観や願望を書き綴っているので、統一した定義をはじき出すのは困難でしょう(もう統一、という言葉がなんか怖いしイメージ悪いよね)。

それは「矛盾」なのかという議論はナンセンスです。攻撃か擁護かのささいな違いだけで、「神の言葉なるものに矛盾などない!」という演繹前提の狭い土俵で押し合っているのはどっちも同じ。


さて旧約時代からいきます。

基本、旧約では死後がどうたら、という教条的な言及はありません。

願望ならいくつかの箇所で表現されています。

族長ヤコブ

彼は慰めを受け入れようとせず、しきりにこう言うのであった 「わたしは嘆きながら我が子のもとへ、シェオルへ下るのだ!」


ここではただ自分も死ぬ、とだけ語っているようです。我が子のもとへ、とありますが「嘆きながら」なので死後に会えるという思想は見られません。

ダビデ

もう死んでしまった以上、どうしてわたしは断食をするのか わたしはあの子をもう一度連れ戻せるだろうか わたしはあの子のところへ行こうとしているが、あの子はわたしのところに戻っては来ない


ここもあの子のところへ、ですが微妙なニュアンスの違いはありそうです。はっきり会えるとは言っていませんが、どこかの場所に「いて」、そこへ自分も行こうとしている、という感じです。

ヨブ

強健な人が死ねば、また生きられるでしょうか 私の強制奉仕のすべての日々、私は待ちましょう、私の解放が来るまで あなたは呼んでくださり、私はあなたに答えます ご自分のみ手の業をあなたは慕われます


WTが旧約でも復活が語られている、としつこく指摘する唯一と言っていい箇所ですが、ちょっと文脈を見るだけで↓のような表現があります。

樹木にさえ望みがあるのだから たとえ切り倒されても、それはまさしく再び芽を出し、その若枝は絶えることはない

自然界に見られる生命の再生(命は永遠に続く)、世は去り、世は来る、どちらかというと輪廻っぽいです。新約にあるような天界への超自然の復活思想と結び付けるのは困難です。


事実、パウロを含む初期キリスト教の復活思想は、ギリシャ人がもともと考えていた輪廻転生思想を焼き直したものだ、という可能性は当時から指摘されていました。

それも含めて新約側の復活思想については次回。

現在的終末

クリエーターを信じるのもいいですが、創造神ならこの世を滅ぼさないことも、気が向いた時に滅ぼすのも自由、各人は今夜にでも言い開きをすることになる(イエスの現在的終末論)。

それが、かのユダヤ人信仰者にも宿るスピリットだった。

神が、宗教会議と伝統で決めた「聖書」に縛られる筋合いがあるのかな、という素朴な疑問。

WT解釈に行動や性格を限定されるWT神はさらに論外ですが(拝むに値しない)。


現在的終末思想は信じた人が「黙って」生き方に表せばいいと思います。

そういう思想を語って広めるのもいいですが、「人の命を救う」と称して具体的なタイムリミットまで宣伝するなら、起こらなかった全責任は取るように。

現在的終末論(明日にでも来る)は偽預言解釈を正当化する言い訳ではない。

そういう者たちに付いて行かないように、とイエスは警告した。

躓かせる者は臼石をくくりりつけられて海に沈むより災いだと。

そもそもJW活動への参加/不参加というちっこい話が裁きの根拠になるとは思えませんが。


JW親の立場にある人が生み出してきた「実」とは何なのか。

腹を痛めて生み出した「命」に受け継がせるスピリット=霊とは何なのか。

聖書を子育てに役立てるのもいいですが、ハルマゲの恐怖を刷り込み、JW活動戒律でがんじがらめにして尊い命のポテンシャルを限りなく狭めてしまう、それが聖書のスピリットなのかな。


恐れを生じさせる奴隷身分の霊(パウロ)を植え込む、強迫観念に貶められた神。

恐れ、恐れ、死を課する者たち(エリフ)が利用するスピリットは恐れです。


『主は霊である、そして主の霊があるところには、自由がある』

主の霊は束縛や恐れとは無縁です。

主の霊がその人の霊=スピリットと同期して「アバ、父よ」と叫ぶからです。

人生の目的

WT信者のように5秒で言い切る(エホバ様の御意志を行い、エホバ様を賛美することです)人はいないでしょうが、今まで読み漁った中でぐっとくるインスピレーションがあった本は何冊かあります。

あえて名前は挙げないのは、宗教関係者はもれなく政治的な活動や発言もしていて、「政治に関わる発言はすべて悪だ」というJWの短絡的な中立思想は論外としても、このブログでは宗教のお話にとどめておきたいので。

何かを読むときに、誰かが「こう言っていた」という引用(利用)目的の読み方はつまらない。その人の言っていることの何が正しい/間違いか、とジャッジしながら読むのはさらに最悪。

怪しい言い方をすると、その人の霊=スピリットを感じる読み方です。聖書にも様々な霊感(スピリット)が宿っているように、本にも書いた人のスピリットが宿って(生きて)います。

本とは何かを主張するために、何かを伝えるために書くものですが、正しい間違いを単純に主張する次元を超えて「魂」で語っている人の本や、逆にできるだけ主観を排して(不可能ですが)検証目的で書かれているストイックな本が好きですね。


人生の目的はそれぞれ考えればいいと思いますが、何人かのキリスト者に共通するスピリットは感じました。

スピリットは永遠で、命も永遠です(啓示された真理)

それを後世に伝えることです。

命だけなら全生物に共通ですが、スピリットを遺せるのはヒトだけです。

命を育むのは尊いことですが、願ってもできない人はいます。

でもスピリットを伝えることは誰にでもできます。

といっても、後世に語り継がれる思想や本を遺すことも限られた人にしかできません。

発信する方法はいくらでもあります。

毎日会う人に「証し」すればいい。

その証しとは、もっともらしく「持論の正しさ」を語ることではありません。

宗教に限らずウザがられます。持論はブログにでも書いて夜中にひっそり読んでもらうくらいがいいでしょう。片道発信だから、ウザいと思えば読まない自由もあります。

話し方、接し方、言動に表れるスピリットは人に伝わります。自分もJW非JWを問わずインスピレーションを受けた人(本の著者含む)はたくさんいます。

できるだけそういう人や本に巡り会い、その霊を感じること。「キリストの霊」(パウロ)を伝えたい人はそうすればいい。持論を独善的に主張するよりもキリストの思いが宿る言動でね。

どの宗派や団体がナンバーワンだとか、不毛な聖典解釈論争に明け暮れるよりも、クリスチャンとわざわざ称するなら、自分を見ればキリストを知る、こんなに自分と長く付き合ったのにあなたはまだキリストを知らないの?と、真顔で言えることを目標にして頂きたい(自分には無理ですが)。

たった一人が後世に伝えられる命や霊はわずかなものですが、それらは永遠に続きます。キリストを愛する人は「彼の命」に移されています。

ものみの塔が潰れるかどうか、なんて永遠の観点から見ればどうでもいいですが、思考停止状態でWTのみを情報源に、大会集会で半分寝ながら睡眠教化されて「楽園での永遠の命と復活」を夢見て、やがてボケるのも悲しい人生です(思考を永年停止させて決まりきったJW日課を続けてきただけのご老人に多い)。

表れては消える新興宗教団体や、その都合よくコロコロ移り変わる偽預言解釈に人生をかけても、命も霊も遺せない。それが「滅び」なんでしょう。

合理的思考

福音書伝承が史実かどうかは別にして、そこからの教訓を考察します。

裏切りのユダはイエスが選んだ時点ではまっとうな人物だったのか、それとも予定調和で選ばれていたのか、という神学ぽいお話は置いておきます。

福音書では、イエスご一行の財布を預かっています。

『弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を三百デナリで売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった』

彼がどれくらいのお金を管理していたのか知りませんが、お金を扱うようになると合理的な考えをする傾向が強まるみたいです。

あれ、どこかの宗教団体に似てませんかね。

クリスチャンが高額の現金資産や不動産を「扱う」ようになった前例など聖書にはない。

イエスの命じた事柄を教えるように、という命令の遂行が「多額の寄付が集まらなければ滞るのです!」とテレビ伝道で懇願する宗教指導者たちの前例もない。

彼らはますます合理的になっていくでしょう。

「先進国で1つや2つの会衆で一棟の王国会館を使用するなど、なんと無駄なことを。なぜすぐにでもこの王国会館を売却して、貧しい国の建設に回さないのか」

彼らがこう言うのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分たちが信者の寄付をすべて預かっていて、その使い道の中身をごまかしていた(一切公表しない)からであった・・

なんてことはないですよね?

というか、あなたたちが自分たちの区域に王国会館を持て、と寄付を募ったんでしょ。

天の兵車て、おカネ集めのためにも急転回するんですね。天の自転車操業か。

そうじゃないなら、ローカル会衆に義務付けているのと同じ報告を行い、範を示しましょう。

法人が違うから義務はないよ、で逃げないでくださいね。

貧しい国、貧しい国、ともっともらしく言いながら、高齢化が激しい先進国のご老人方や彼らの送迎に勤しむ信者に「1時間なら通えるでしょ?」とさらなる負担を強いるのか。

自分たちは指1本動かさずにね。

60代、70代のシマイたちがさらに上の高齢者を「援助」している時代ですよ。

どうしてここまで腐ってしまったのか。

ユダの例からすると

まとまったおカネを一括して扱うようになった
その中身を自分(たち)だけが把握していた

というシステムも一因かもしれませんね。
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