存在証明

キリスト教関係の本を読み漁る過程で気づいたのは、キリスト教信仰は「絶対に正しい」と主張できる事実説明には依存していない、とするキリスト者が多いという「事実」です。

「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに、フィリポ、あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は、父をも見たのです。どうしてあなたは、『わたしたちに父を示してください』と言うのですか」(ヨハネ福音)

目の前にいる人が確かに存在するという証明(それも厳密には不可能)や、その人を親しく「知った」人にとって、その人がどういう人であるかの定義や証明が必要でしょうか。

イエスの教えは帰納でも演繹でもなく、事実証明を求める論じ合いには応じない。

アブラハムより前からエゴーエイミーなのです。

論理も根拠もへったくれもありません。

キリストは「言=ロゴス」そのものなので、その神性と永遠性は観察可能なあらゆる事象に先立っている、人の観察や思惟によって導かれるあらゆる原理や前提に先立っている、からです。

それを「発見」した、とされるのがアウグスティヌスです。

プラトンぽいカホリがします(笑)

「初めに言があり、言は神と共にあり、言は神であった」

三一論がギリシャ哲学云々言う以前に、新約にその要素がたっぷりです。

キリストこそ「見えざる神」の厳密な描出、完全なる、第一の、永遠のイデア?
初めからあったもの、わたしたちが目で見たもの、よく見てさわったもの=証明不要)

間違いなくプロスキュネオーの対象です。

それがキリスト(教)の本質というか、根幹となる公理のようです。


三位一体も「間違ってさえいない」ということになります(反証も不可能)。

それを知らずに三位一体は「偽りだ間違いだ」と騒ぐ人と、キリスト教関係者の論争は見事なまでに噛み合いません。同じ日本語をしゃべってはいても文法(公理系)が異なるからです。


三一性の枠組みは他文化にもあります(三つ組の神)。それが三一という観念の模倣なのか投影なのかは知りません。類似だけを指摘して「ほら異教由来だ」と言うのがWTです。

聖書と他思想の類似を指摘して「異教由来だ」と言うと怒るのにね。
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演繹と帰納

エホバの証人思考は単純な帰納と演繹を組み合わせたものです。

A書の予言が成就した
B書の予言が成就した
C書の予言も成就した

<結論>聖書の予言はすべて成就する(外れた予言も将来の成就がある)

こちら側が帰納です。


すると「聖書の予言はすべて成就する(永遠に外れない)」がWTの演繹前提になります。

<前提>「聖書」の予言は(いつか)すべて成就する

<結論>ヨハネ黙示の千年王国は原始クリスチャンの期待外れに終わった妄想ではなく、これから成就する


帰納法には限られた観察や調査で誤った結論(前提)を引き出してしまう可能性

演繹法にはそもそもの前提が間違っている可能性

がつきまといます。さらにWT解釈の場合、帰納側の事実証明にそこから導出されるはずの演繹前提が利用される循環論法がよく使われていて、帰納の基になる調査・資料も超限定的です。

一応の今さらですが、原理信仰系と高等批評系のどっちも本を読み漁ってみても、残念ながら旧約の予言が事前予言であることを証明する裏づけ(傍証)はありませんでした。

作者や成立年代が不詳の福音書伝承が、イエスという人物をモチーフにヘレニズム思想(神の子降誕=そは我らはその子孫なり、モノゲネースの先在=不滅性など)と旧約伝承を組み合わせて形成されたのか、それとも一字一句が史実なのか、に白黒つける歴史資料も存在しません。



すると、世の中には宗教に限らず「絶対に確実」だと言える事実説明がどれだけあるのか?

となってしまいそうですが、それでいいんでしょう。

分からないことは分からないと素直に認めずに、自分のジャッジを「絶対に正しい」と感情的に思い込むことを信仰だと勘違いすることの弊害は、この団体から反面的に学ばされました。

社会通念として許容され、受け継がれてきた伝統信条や慣習を「偽りだ、騙されている」と騒いでは人間・家族関係をブチ壊す、さらには陰謀論をこじらせてしまうのもどうかと思います。

奇抜な独自信仰は構いませんが、棄教したら忌避する団体にアポなしでインターホン押され、「人間関係のストレスを改善するためのアドバイスを~」「自分にしてほしいと思うことは人にもしましょうね~」なんて説教されても困りますよね。

事実証明

2011年鑑からの引用です。

『しかし時には、定評ある筋から来たと思える情報でも、詳細な点の十分な裏づけが得られない場合があります。例を挙げましょう。ガンジーがアーシュラマ(僧院)の中でアーウィン卿に語ったとされる、次の言葉がこれまで引用されてきました。「あなたの国とわたしの国が、この山上の垂訓の中でキリストが述べた教えについて意見の一致を見るならば、わたしたちの二国の問題のみならず全世界の問題をも解決することになるでしょう」。ところが、この陳述について詳しく調査した結果、アーウィン卿がガンジーの僧院を訪ねたという裏づけは得られませんでした。そのため、ガンジーがいつ、どこでこの言葉を語ったのか、またそもそもガンジーの言葉なのかという疑問が生じました。その結果、わたしたちの出版物では、この引用文は用いなくなりました。

アイザック・ニュートン卿と太陽系の模型についての話も、お読みになったことがあるかもしれません。その話によれば、ニュートンのもとを訪れた無神論者は模型を見て「だれが作ったのかね」と尋ねました。ニュートンが、「だれが作ったのでもない」と答えると、無神論者は、「君はきっと、わたしのことをばか者だと考えているのだろう」と言いました。するとニュートンは、この単なる模型は、はるかに壮大な太陽系に設計者や製作者がいたに違いないことの証明になる、とその無神論者に語ったとされています。この記述は心を動かすものではありますが、そのやり取りが実際にあったことを証明する歴史資料はなく、ニュートンについて研究する学者や伝記作家も裏づけとなるものを提示していません。興味深いことに、このやり取りに触れた最も古い資料は1800年代初めのものであり、ニュートンではなく、ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの名を挙げています。そのため、執筆部門はもはやこの記述を出版物では用いていません』

ガンジーがアーウィン卿にそれこれ語った、という伝承はものみの塔だけでなく、何人ものキリスト教関係者が触れています。JWも何人挟もうが盛りに盛られた経験談は大好きです。


そのような伝承(言い伝え)が存在する

複数の人がその伝承を事実として受け取り、かなりの期間に渡って連鎖的に言及してきた



↑という「真実」だけでは「事実の証明」にならない、とWTも認めるようになりました。

聖書にまつわる伝承にもこれくらい慎重で理性的な見方を示せばいいのにね。

も塔は、ダニエル書や「キュロス」を名指しする第二イザヤ書が仮に事後預言だったとしても、メシア予言は事後にはなりえないでしょ、と主張します。

でも「イエスが西暦29年に受洗してはとみたいな聖霊が下った」「イエスが銀貨30枚で裏切られた」などの福音書伝承も、それが実際にあったことを証明する歴史資料は存在しません。

聖書の予言が聖書の中で成就(内部で自己完結)しているという、裏付けできない伝承です。

もちろん、それが聖書の価値を下げることにはなりません。

反証もできませんが、「聖書に書いてあるから」事前予言だ、という根拠のない怪しげな演繹的主張の方が、ここ日本では人を聖書やキリスト教から遠ざけているようです。

年代不詳

新約福音書の成立時期や作者不詳の件を書きましたが、旧約になるとさらに特定困難です。

「モーセ」だけでも4資料仮説(もっと多いという人も)などが飛び交い、成立時期は実にBC1000年くらいからバビロン捕囚後まで意見の幅があります。モーセ五書の最後でモーセ死んでるけど、そこもモーセが書いたの?は素朴な疑問でした(そこだけヨシュアが書いたのかもよ、と言われてもね)。


とりあえず今回は1点に絞って超ざっくり書きます。

① ダニエル書の成立時期

不明です(ざっくりすぎる)

特定の人物が「わたし」という一人称で語っているからその当人が(生きていた時代に)書いた、という幼子のような純粋な思い込みを古代の叙事詩にも適用するのはJWくらいです。

反証できないなら否定もできまいと言いますが、そもそも「証明」できないんですから。

「間違ってさえいない」ということです。

諸書にカテゴリーされていることもあり、前半のダニエル物語と後半のギリシャ史までを、西暦前2世紀の最終編者がまとめた説を支持する人が多いですが、当然、こっちも完全な証明も反証もできません。

も塔が挙げるほぼ唯一と言ってよい外部の証言は、1世紀のユダヤ人史家ヨセフスが「古代誌」に記した↓のくだりです。

「西暦1世紀のヨセフスは、アレクサンドロスがエルサレムに近づいた時、ユダヤ人の大祭司がこれを出迎え、神の霊感を受けて記された、ギリシャによる電光石火の征服に関するダニエルの預言をアレクサンドロスに示したというユダヤ人の伝承を記録しています」(WT洞察)

すでに「伝承」と認めちゃっています。

当時のローマ人たちに低俗な神話だと見下されていた旧約を、非ユダヤ人向けに史実っぽく編纂した彼の「古代誌」は旧約よりも読まれていたようです。

ヨセフスは彼が生きていた時代のユダヤ戦争等に関する記述は史実性が高いものと評価されていますが、モーセのエチオピア遠征や↑のアレク話など、彼の時代よりはるかに遡る昔話は、ユダヤ人の間で語り継がれていた「伝承」を記録したものだ、とWT洞察も認めているのです。

ヨセフスが直接の目撃証人となった出来事でもなく、彼が記録した「当時のユダヤ人伝承の1つ」にすぎないものを事実かのように取り上げる姿勢は、ものみの塔の主張とも矛盾します。

続きます。

神の経路

巡回さんの質に言及したが、噂はあったが巡回さんだけは複数制にしない。

最後の砦でしょうか。

複数制にした結果、ローカル長老団から統治体会議に至るまで結局は多数決です。

フランズ氏が経験したように少数が多数によって排除されます。

ラッセルやラザフォードは執筆者であり代表者だった。同時期の新興でいうとエレン・ホワイトやジョセフ・スミスのように「一人の人間」を神の経路と認める人が集まるので物事が単純です。

エホバの証人はその「一人の人間」を「奴隷」という単数の集合体に置きかえた。

さらにその奴隷を代表する「一人の人間」(巡回さん)という構図はシンプルです。

ただ、この奴隷解釈を納得させるのはかなりの手間です。

複雑なWT解釈(しかも頻繁に変わる)を経由する必要がある。

つじつま合わせが面倒くさい文脈や他の聖句はむしろ邪魔、マタイ24:45だけでいい。


同じ手法で最も伝統があり手堅く「統治」してきたのはカトリックでしょう。

あれだけ汚点の歴史を繰り返しながら最大宗派として揺るがないのは、複雑な組織構造の上に教皇という世襲に依らない強力な一人のシンボルを維持してきたことも一因かもしれません。

初代教皇ペトロの後継者、最初に言い出した専売特許でいたってシンプル。

ペトロもあれだけ「不完全」で欠点のある使徒だった。

そのイエスが彼を選んだのだから、聖職者の大量児童虐待程度で敬虔なカトリック教徒の信仰はびくともしない。何人かとやりあいましたが、もともと「組織」や「教会」に信仰を置いている、という感覚がJWに比べて薄いのを感じます。ちまちま隠蔽して結局バレて裁判沙汰になってしまったJWはもう言い返せませんね。


神との個人的な関係(個人的な信仰)と言っても民(集合)はシンボル(象徴)を求めます。

現在の「奴隷=シンボル」解釈を定着させるためのテレビ出演に忙しい。

神の母

④ 神の母思想

キリストを神の子とした以上、神の母がいてもよさそうです。

「アウトゲネースなる神、キリストこそ、見えざる霊(至高神)が大いなる栄誉をもって讃えた者である。なぜならアウトゲネースは彼(見えざる霊)の最初の思考から在るようになったからである。このアウトゲネースを見えざる霊は万物の上に神として任命した」(ヨハネのアポクリフォン)

「最初の思考」とは原父の女性的位相となる配偶者です。正統派の三位一体が「父と子と聖霊」なら、裏の三位一体は「父と母と子」の位相を取ります。たまに三一論信奉者にも「父と母と子」で一つの家族だからと、アウグスティヌスが反駁したまんま異端の説明をしちゃう人もいます。

正統派では女性の位置付けが低く、牧会書簡では女は教会では黙っていよ、余計なことに手出しせず子どもを産んで家事に勤しめ、とあります。

さて至高神の客体との分化が最初の思考(我在り)の原点であり、その思考から「在る」ようになったのがオリジナルの「子」(これは我が子)になります。

ウルトラの父が「いる」ウルトラの母が「いる」そしてタロウが「ここにいる」

聖典解釈はそれくらいの軽快な受け止め方でいいのかもしれない。



「初めに言があり、言は神と共にあり、言は神であった」(ヨハネ福音)

この「子」こそ万物のロゴス、その上に任命されたモノゲネース(アウトゲネース)なる神です。

「太陽で身を装った女で、月がその下にあり、頭には十二の星の冠があって、彼女は妊娠していた・・そして彼女は子を産んだ。男子であり、あらゆる国民を鉄の杖で牧する者である」(ヨハネ黙示録)

ここは文脈を見れば万物に先立つ子が生まれ出ることよりも、神であり人である子の生誕について語っています。

子の生誕後に天界戦争で悪魔が放逐され、「自分の時が短い」ことを知って怒り狂っているから「イエスについての証しの業を持つ者たち」はローマ(大淫婦バビロン)に迫害されている、という解釈が前時代的になると、キリスト教がローマ国教になる「時に応じて」アウグスティヌスの霊的解釈が支持を集めます。

前時代解釈のままではローマ国教の正典に残すには都合が悪いでしょう。

というか平たく言うと単純に外れた、ってことなんですが、暗喩にしておけば「体型」をスイッチしていつまでも先延ばしにできます(永遠に外れない)。


WTも後付け的に文字通りの解釈を避けますが、当時の人が読むと、キリストに先在がある(アブラハムの前からエゴーエイミー:ヨハネ福音)なら天=霊の領域にもお母さんがいたんだね、となってしまいそうな箇所です。

魂の不滅(先在含む)がアウグスティヌスが西洋神学に取り入れたプラトン主義なら、キリストの先在がギリシャ思想との融合ではない、という根拠は何なのかな。

禁欲主義

③ 禁欲主義

「戯れとは縁のない人の子が不滅性から到来した。ヨハネがイエスの降臨を証しした・・彼は肉による生殖の支配が終わりを迎えたことを知っていたのである。すなわち、ヨルダン河とは肉体の力、諸々の快楽の感覚のことである。また、ヨルダンの水、これは性交の欲望のことである」(真理の証言)

「選ばれし14万4千人は自らを女で汚さなかった者たち、童貞である」(ヨハネ黙示録)

こうまではっきり書かれていてもWTさえこじつけ比喩解釈する箇所ですが、当時このヨハネ黙示録を読んで、キリストと共に支配階級になるには童貞じゃなきゃ!禁欲しなきゃ!と思わなかった人はいるんでしょうか。

グノーシスの霊性は、この世の物質世界はソフィアの過失(配偶者に無断で作り出したもの)による不完全な世界(エバはそのアンチテーゼとしての象徴 ⇒わたしはエホバの助けで子を生み出した)とし、その世界を支配するのは不完全な神(我の他に神などいない、我は妬む神である)、見えざる至高神の救済計画により完全なる永遠の霊の領域に還ることを真の目的とします。

終末願望はヨハネ神学にも色濃く、JWも「不完全で邪悪な体制」を存続させることに何の関心もなく(不信仰の証し)、こんな世は滅んじゃえ!(全員が子作りを控えて) くらいの勢いがある。

ヨハネ神学が言及する「この世の支配者」(ヨハネ福音) 「全世界は邪悪な者の配下にある」(ヨハネ第一)・・邪悪な者ってだれなんでしょうか。

気をつけた方がいいですね、邪悪な霊は光の使いを装うらしいですから。

人間くさい虚栄心と支配欲が強く、「至高神(我在り)」を自演模倣するのも容易いでしょう。

他人の神は自分の悪魔、自分の悪魔は他人の神、モノゲネースが証しするために来た真理とは、善悪と表裏の終わりなきエレンコス(論争)からの自由だったと願いたいです。


話を戻します。

昔、英国国教会の研究生を集会に連れて来たら、あまりの子どもの少なさに「エホバの証人は子ども生んじゃいけないのか?」と驚かれましたね。

禁じてはいませんよ。仕向けられているだけです。

表向きの二枚舌教理と否定できない現実のギャップに説明は苦労しました。

それに対して正統派(牧会書簡など)は「結婚することを禁じる者たち」を異端とします・・が、ヨハネ神学には冒頭に取り上げたような影響が見られます。

正統派側にも禁欲のカリスマで列聖された人はいます。

自発的禁欲ならOKで、JWカリスマになるにも必須の条件です(子持ちにはなれない特権)。

処女降誕を取り入れた時点でギリシャ神話的だし、そのイエスに洗礼を施したヨハネも荒野の禁欲主義者、イエスの女性との性的な関わりを示唆する記述は新約に一切含まれない。WTもイエスが生殖行為を控えるのは贖罪の条件だと解釈していた(現在は調整済み)。

そのキリストに倣えと言われているんだから、禁欲主義の土壌はもともと根強い訳で。

主の計画

ヨハネ福音書はまだいいとして、ヨハネ黙示録が正典入りしたのはなぜか。

そんなの、素人の自分が結論を出せることではありません。

が、ヨハネ神学は「イエス=言葉(ロゴス)=神」を成り立たせるのに欠かせません。

マタイ福音では神性を証明するための奇跡を「悪魔の誘惑」として頑なに退けたのに、ヨハネ福音のイエスは神性を証明することに熱心で、「アブラハムが生まれる前からエゴーエイミー」 というセンス溢れるかの爆弾発言を投下してユダヤ人指導者とガチバトルしています。

ユダヤ教お偉いさん:コイツ絶対にオレらのことバカにしてるだろ?

不毛な宗教釈義や聖典解釈に明け暮れる、宗教権威に支配され縛られる現代人もイエスのセンスを見倣ってほしいものです。


ヨハネ黙示録と同じ初期キリスト教時代には別の救済思想が存在した。

いわゆるグノーシス主義です。

「表のキリスト教」として歴史の勝者になった、正典系のヨハネ黙示録と陰陽の関係にあるかのような「ヨハネのアポクリフォン」には奇妙な類似性が見られます。

① キリスト論

神の子=モノゲネース (ヨハネ福音:唯独り生まれた子)
=アウトゲネース (ヨハネのアポクリフォン:自ら生まれた子)

② 救済論または救済計画 (オイコノミオン=計画または管理:パウロ神学)

このオイコノミオン、という言葉はヨハネのアポクリフォンにも出てきます。

知識を取り入れること(知るようになること)が永遠の命 (ヨハネ福音)
真の覚知者は完全性に回帰し、霊の領域に還る (ヨハネのアポクリフォン)

↑のあたりは永遠の父のもとに還る、を強調したヨハネ福音に通じるものがあります。

一度認識しながら道を逸れると永遠の刑罰 (ヨハネのアポクリフォン)
セカンドチャンスのない火と硫黄の燃える湖、第二の死 (ヨハネ黙示録)

パウロが「誰が主の計画にあずかったか」と釘を刺したのに、「ヨハネ」は預言者と称して主の計画を妄想しちゃったんですかね、背教ですよ。

続きます。

伝承信仰

このパピアスの証言を皮切りに、異端反駁を聖なる使命とする初期教父たちによって福音書や新約各書簡の真正性が証言され連なってゆく訳ですが、彼らはイエス=ロゴス論から三位一体、国家教会主義などを中心としてキリスト教の体系化にも貢献したクリスチャンたちです。

言い出しはじめのパピアスは、使徒や直弟子たちと「重なる世代(笑)」であったらしい「長老たち」からの証言を聞いた、と主張してはいます。

しかし、前記事のファンタジーたっぷりの稚拙な預言(解釈)を含め、彼の文献で書かれていることは、も塔を含めほとんどのキリスト教学者によって退けられています。

なのに福音書や新約書簡の正典性を主張するときに限っては、彼の証言が採用される。

その証言、というのもおぼつかないものです。エウセビオスの引用とは↓のような感じです。

「マルコスは主(の言葉)を聞いたことも主に従ったこともないが、わたしが今言ったように、後になってペトロスに従った。ペトロスは必要ならば教えたが、主の託宣をまとめることはしなかった。そこでマルコスは、記憶したとおりに逐一書き記し、何一つ誤らなかった。彼は、自分が聞いたことを書き漏らさぬことと、虚偽を語らぬことだけに、ひたすら注意したからである」


① 直弟子ペトロスは主の託宣をまとめなかった
(「ペトロによる福音書」も出回っていたが外典として退けられた)

② ペトロスからまた聞きしたマルコスが、書き漏らさぬよう書いた・・

③ と「長老たち」からまた聞きしたパピアスが作者不詳の書簡が「マルコによる」と証言した

④ の断片に言及するエウセビオスが「パピアス」はそう言っていた、と証言した


パピアスの時点で、4次情報なのか(最短)、5次情報なのか、それ以上なのか、定かなことは分かりません。

なので各福音書すべてに言えることですが、もともとは作者不詳の書簡が、後代になってその名が冠された使徒や弟子たちによって書かれた(との箔を付けた)、というのは証明も反証もできない(反証材料の方が多い)、伝承信仰なのです。


パピアスが「マルコスはペトロスから聞いたことを書き漏らさぬように書いた」と証言していますが、マルコ福音書は2時間かからず読み切れます(笑)。彼はペトロとの付き合いでその程度のボリュームの話しか聞かなかったのでしょうか。

ここにも、千年王国信奉者パピアスの誇大注釈が入っています。彼の文献が稚拙で妄想的だと当時でさえ退けられ、その書簡が断片でしか残っていないのもうなずけます。正典信奉者からは残ってるとまずい妄想注釈がたっぷりなのかもね。

そんな人物の証言や、その証言を都合よく断片的に引用している文献が信用できるのかな。

真理とは検証不可能な古代伝承に依存するものなのか。

作者不詳

四福音書は作者不詳です。

マタイによる福音書、マルコによる福音書、などの呼び方は後代の伝承によって付けられたもので、写本自体にそのような書名が付されている訳でもなく、書面でも著者は自分が誰であるかを明言していない。もちろん成立年代など確かなことが分かるはずもなく、WTは各福音書の成立時期やその著書についてはほぼ、初期伝承をそのまま採用するキリスト教保守派に倣っています。

福音書の名付け伝承の発端は、自分が調べる限り西暦2世紀の初期教父の一人、ヒエラポリスのパピアスという人です。WT教材でもよく言及されていて、他にも現在の新約聖書で正典とされている各書簡の「真正さ」を証言している教父です。

「パピアスはテルトゥリアヌスやキプリアヌスがしたように、ヨハネ第一の手紙の真正性を証言したと、エウセビオスが述べています」(WT霊感)

「マタイがこの福音書を最初にヘブライ語で書いたことを示す外的証拠は、西暦2世紀のヒエラポリスのパピアスまでさかのぼります・・エウセビオスは、『マタイはヘブライ語で神託をまとめた』というパピアスの言葉を引用しました」(同上)

しかし皮肉なことに、彼自身の書簡は異端とされたモンタナス派の思想が強かったためか写本も残っておらず、断片的に、200年近く後の教会史家エウセビオスによって言及されています。

モンタナス派は聖霊による異言・預言が当時も続くとして、キリストの再臨がすぐにでも起きると主張したグループで、彼もヨハネ黙示録から影響を受けた千年王国信奉者です。

パウロが「預言の賜物は廃される」と言ったのに、それから数十年後に「ヨハネ(この「ヨハネ」も誰だか分かっていない)」が預言者と称して過激なファンタジーたっぷりの終末黙示思想を著してしまったので、「だったらオレにも」というノリで預言の続きや解釈をしてしまったのでしょう。

それを伺わせる彼の「預言」がものみの塔でも言及されています。

「使徒教父たちの中には、誇大な注釈をしたために漂い出てしまった人もいます。パピアスは、真理を渇望し、クリスチャン・ギリシャ語聖書を引き合いに出しましたが、同時にこう信じてもいました。すなわち、予告されているキリストの千年統治の間、ぶどうの木は1万の枝を出し、各々の枝に1万の小枝、各々の小枝に1万の若枝、各々の若枝に1万の房が生じ、各々の房に1万の実が成り、一つ一つの実が1,000㍑相当のぶどう酒を産出する、というのです」(も塔2009年)

やっちゃいましたね。

誇大な注釈をしたために漂い出たって、どこかの7人のおじいちゃんたちですか。

も塔は千年王国信奉者や正典守護者としては彼を持ち上げるのですが、すでに初期教父の時代から「背教」は始まっていた、としています。勝手に預言を付け加えちゃっていますので。

でもどこからが「付け加えた」のか、とは誰が線引きするんでしょうか。

保守派や原理主義者は「ヨハネ黙示録」を最後にそれ以降は認めない、「外典」だからバカげている、「正典」だから預言的な意味がある、となるのでしょうが、内容を見る限りの書いてある「預言」の突き抜け加減はパピアスもヨハネ黙示録もいい勝負のような気がします。
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