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長老任命制

自分は上が下を一方的に評価する長老任命制には無理があると思います。下からの民主制にしても政治的になるので、土地ごとに回りから信頼されることで自然と認められる人が長老的存在(役職ではなく)になるくらいがいいのかもしれません。

キリスト教に限らず宗教的原始共同体て大体そんな感じでしょう。それが先進国でどれほど現実的なのかは知りませんが、宗教というか、宗教上の結び付きによって成り立つ共同体とは、世俗と切り離して捉えるおおらかさがあってもいいのかなと思います。

権威によって任命された役職でも、活動実績でもなく、人生経験や人柄ゆえに回りから自然と尊敬され、その言葉が重んじられるようになる人。

雑用をやらせるんじゃなくて自らやる、その姿を見て若手から「あなたがそんなことをするなんて、自分がやります」と言われる人望のある人が“長老”なんじゃないかな。仮にペテロみたいな若手から「じゃあこれもやってください」と言われてもカチンとこない、それがイエスの範じゃないかと。

イエスは長老任命制に言及していない。

偉くなろうとする者は仕える者であれ、というシンプルな教えを残した。

長老任命制に言及する牧会書簡はパウロの真筆性さえ薄い。

パウロの真筆性が薄いからといって、その歴史的価値や信仰対象としての聖典性が失われる訳ではないですが、自分にとってのパウロとは純粋な信仰者、神学者、布教者であって、組織者、権威者、命令者、というイメージはもとからそんなになかったですね。

WTが、自組織の制度や決めごとを「神の命令」とする根拠に使う字句は、イエスでも、パウロのものでさえない、さらに後代のキリスト者たちによるものとされる部分からが多い。


初期の聖書研究者も、教会制度や聖職者を連想させるという理由で、組織という概念や長老制を支持しなかった。信者が少し増えて長老制を取らざるを得なくなるとやはりモメ事いさかい ⇒ 分裂離散の危機に瀕したが、2代目さんがラッセルを否定して“唯一絶対なる神の組織(経路)”思想を打ち出してローカル会衆の自治性をなくし、親ラッセル派を強権排除して危機を回避した。

キリストではなく、組織的指示系統への反抗を背教として裁く型ができる。

前任者が考えた教理を全否定するような奇妙な解釈を打ち出しても、「新しい光」や「エホバからの風」という言葉でありがたがらせる型もできた。

言うことがコロコロ変わることが、逆に神の段階的お導きの証拠らしい。

何をどう指示しようが、どう解釈しようが、どう変えようが、それは神の差配。

全知全能創造神による、やりたい放題ワールドの出来上がり。

他のキリスト教を凌ぐ超階層型組織も出来上がった訳だが、それ成功なのかな。

宗教ビジネスとしては間違いなくそれなりの成功でしょう。
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残るもの

聖書が(組織ではなく)自分に残した教えは何か。


『何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』


神がその様を捨て、人の様を選び取った
その者が人として生き、神に叫びをあげて死んだ

ここにキリスト教の真髄を見ます。

史的検証や解釈の是非論争の彼岸にある真理。

それを信じた上でなおとして生き
その思いに寄り添うのか

『だれが主の思いを知り、その計画にあずかったか』

神の思いや計画を勝手に妄想する代弁者(しかもよく外れる)ではなく、人としてあたりまえの感情に共感し、その側に寄り添いその思いを代弁すること

『もしそれが神であるのなら、自分で法的弁護をしたらよいだろう』

神が神と等しいことを固守すべきこととは思わなかった。

神の代弁者であること
唯一の経路であること

そのちっぽけな自称肩書は本当に固守すべきことなのか。

党派心や虚栄から形だけの数や活動を誇示して「自派がすぐれている」根拠とするのか。


最近、脱塔した母親の想いをあるサイトで読んだ。

「子どもの気持ちがよく分かるママになりました」

これを超える真理が存在するのだろうか。

キリストの友

ヨハネ13:35を再考するきっかけになったのは、一通りやりあって引っ越すことになり“研究”を終えることになった、かの福音派の夫婦。

最後に貰ったメッセージカードに一言。

Hopefully, friends in Christ
(願わくばキリストにおける友であらんことを)

負けましたね。

これを改宗させようという下心でもなくストレートに書かれてしまう。改宗させる見込みがないと見切るや、慇懃無礼に研究を打ち切る身内を恥じる他はなかった。

その頃から「自分は正しく、あなたは間違い」という言い方は嫌いだった。

キリストのバシレイアは彼らとの「ただ中」に及んだのか。

自分が「導いた」人は五指に満たないが、すでに自然消滅しているか、亡くなっている。

今となってはそれが救いではあるが。

教え方が悪かったせいかな(組織崇拝の刷り込みが足りなかったのかも)。

聖書の精神は教えたつもりだから、それは残っていたらと願う。

わたしの弟子

「あなた方の間に愛があればそれによって人々はあなた方がわたしの弟子であると知る」

これを団体ごとの優劣を図る基準にするのは「愛がなく」、イエスの意図でもないと思います。

イエスの教えや言動を読んでその人なりに愛を示そうとする人は、キリストの弟子でしょう。

愛があればその人の言うことが真理だ、とはイエスは言いませんでした。

あなた方、なので同じキリストを信じる人に会えば親切にしたいと願う。

すぐに宗教解釈の白黒をつけようとする人ではなく、そういう人がキリストの弟子だと観察者に知られるのかもしれません。

エホバの証人が身内同士のみに向ける愛を見て入信する人もいるようですが、「自分を愛してくれる者への愛」が真実だとしても、それは彼らの解釈が真理かどうか、には関係がないのでしょう。

原理信仰

「武器を持たなくても、原理主義はもう居場所は無いのかもしれない」
最近、頂いたコメントです。

このブログも聖書の原理解釈や原理信仰を否定する方向に傾いています。

キリスト教書や史的批評、宗教哲学書を読み漁っている影響は、間違いなくあります。

WTからすると、人間の哲学とやらに毒されている、となるんでしょう。WTは人間の知恵、人間的な考え、人間的なやり方・・など、神の像であるはずの人間が持つ知性や創造性や善意、あらゆるポテンシャルを否定します。それは創世記3章の恣意的な解釈に如実に表れていますが、実はそれって裏を返せば、人を貶めて被支配層のマゾヒズムを刷り込む内なる悪魔の主張そのもの、なのかもしれませんが。

さらに言えば、そういうWT教理も人間による原理解釈の一つにすぎない訳ですが。

自分(たち)の解釈のみが神がかっている、という幻想に浸りたい人もいます。

時々荒れるようですが、自分も個人の原理信仰を否定しません。

WT解釈のおかしさに気づいた人が個の原理信仰を貫きたいなら、別にいいと思います。

自分が批判しているのは、原理信仰を利用して他者を支配する宗教権威です。

人を無視する
犯罪を隠蔽する

この延長に「人を殺す」宗教戦争があるのでしょうが、これらは原理信仰を持つ人が集団化して、人や人の権威が命じているにすぎないものを、「神の命令だ」とすり替えることで生じる被害です。

その土壌に原理信仰があるのは事実ですが、今のところ個の信仰まで否定するつもりはありません。

原理信仰は、現実でもネットでも、ますます居場所がなくなっていくでしょう。

でも原理信仰を性急に排除するような傾向も、行き過ぎると過激になります。

信仰者が皆そうだ、というのは全くの偏見ですが、居場所のなくなった一部の原理信仰者が結社してカルト化する、より頑なに先鋭化する、過激な報復手段に出る、ことは現実に起きています。

なので個の原理信仰そのものは尊重したいとは思っています。

6日間創造を信じる、かのユダヤ人信仰者のストレートな信念には素直にリスペクトでした。

ほんとうの信仰者ならこんなブログで揶揄されたところで気にもしないでしょう。

ただ信仰とは何なのか、その対象が本当は何なのか、をWT関係者には考えてほしいですね。

本当に神なるものなのか、聖書なのか

それとも人間の集団なのか、ただの年代なのか、表記なのか

何かの宗教解釈や学問的な知見を 「正しい or 間違い」 とする自分のジャッジなのか


それくらいの気軽さで書いています。

主の記念

イエスは「わたしの記念としてこれを行ない続けなさい」と言った。

ごくシンプルに、わたしのことを覚えておくために、ということです。

死を記念するように、とは言っていない。

旧約では、人間の罪深さゆえに贖罪の儀式を行なうことが中心のテーマになっているが、それが「アダムの原罪」なるものによる、としたのはパウロです。創世記では木の実を食べる行為が「原罪」だと明確に定義されておらず、それを食べることで「善悪を知る」ようになって追放された、としか書いていない。

そのパウロはひたすら「磔にされたキリスト」を伝えた。生前のイエスに会ったこともなく、福音書著者とは対照的に、イエスの人となりや生前の教えにそれほど関心を示さず、詳しく論じてもいない。

実際、彼はキリストの杯を飲むたびに「主の死をふれ告げてゆく」と語っていて、福音書とは少しテイストが異なります。イエス本人はというと「死ぬこと」をそれほど前面に出してはいない。

パンや杯が体や血を表す、と言ってはいますが、自分の体や血を食せ、という言葉を字句通り捉えた弟子が「つまずいて」離れていったという前例?もあり、この食事でのイエスの発話を居合わせた弟子がリアルタイムでどう理解したかは知りませんが、そんなに衝撃的でも悲壮感漂うものでもなかった様子です。

「イエスは、父がすべてのものを自分の手中にお与えになったこと、そして自分が神のもとから来て、神のもとに行こうとしていることを知って、 晩さんの席から立ち、自分の外衣をわきに置かれた」

「わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのですから。そしてまた、わたしが行ってあなた方のために場所を準備したなら、わたしは再び来て、あなた方をわたしのところに迎えます。わたしのいる所にあなた方もまたいるためです。そして、わたしが行こうとしている所への道をあなた方は知っています・・わたしは道であり、真理であり、命です。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません。あなた方がわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。今この時から、あなた方は父を知っており、また見たのです」

むしろ、イエスが繰り返し強調したのは、父のもとに帰る(還る)ことです。

さらにあなた方のためにも場所を準備しますよと。

それは「どこなのか」と気をもむ弟子たちに、それを字面で「説明」する代わりに、再び会うときにあなた方はもはやわたしに何の質問もしないであろう、と約束した。

イエスの弟子たちは、質問することや怖れること、気をもむことから自由にされた。

なぜなら、目の前にいるイエスが「道であり、真理であり、命である」と悟ったからです。

その親しい弟子たちと、イエスは最後の食事を共にし、パンと杯をシェアした。

弟子でもない一見さんに、しかも「死」という不吉な言葉を使ってその食事会を大々的に宣伝しておいて、来てほしいけど食べないでねと、にわかギャラリーを集めるよう指示した様子はない。

「あなた方は,わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」

「父がわたしにお与えになった杯,わたしはそれをぜひとも飲むべきではありませんか」


別にその日にする必然性もない、WT解釈の一方的な説明会・・

ただの一人も手をつけず、主の杯を過ぎ去らせる者たち・・なんの記念なのかなぁ。

永遠の命

ますます新約から乖離するWT記念式・・

地上の楽園で永遠に生きる・・が今年のテーマらしい。

新約だけに出てくる永遠の命をそう解釈したいのなら自由なんですが。

新約を普通に読み直すと、最後の食事でイエスがそんなことを弟子に語った様子はない。

前にも書きましたが、イエスが証しするために来た真理とは、神は霊である、霊は命である、命は永遠である、に集約されると(今のところ)思います。新約のみで語られる永遠の命が、肉体やその機能が時間的にずっと続くこと、に結び付けられている箇所はないようです。

「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている」(ヨハネ3:36)

「わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を持ち、その者は裁きに至らず、死から命へ移ったのです」(ヨハネ5:24)

み子を信じる者はすでに永遠の命を持っている、その命に移されています。
その命とは何でしょうか。

「その命は明らかにされ、わたしたちは、父のもとにあって、わたしたちに明らかにされた永遠の命を見、それを証しし、あなた方に伝えているのです」(ヨハネ第一1:2)

「わたしたちは,み子イエス・キリストによって、真実な方と結ばれています。この方こそまことの神であり、永遠の命です」(ヨハネ第一5:20)

その命とはキリストであり、キリストによって神と結ばれている状態が真の命です。

何ものも、その命に移された人をそこから引き離すことはできず、その命に移された人にとって、最後の敵である死はすでに克服されており、恐れの対象ではなくなります。

「神はわたしたちを闇の権威から救い出し、ご自分の愛するみ子の王国へと移してくださいました」(コロサイ1:13)

「パウロであれ、アポロであれ、ケファであれ,世であれ、命であれ、死であれ、今あるものであれ、来たるべきものであれ、すべてのものはあなた方に属しています」(コリント第一3:22)

それで神は霊であり、霊は命(愛)であり、命(愛)は永遠である、とも言えるでしょう。

「わたしたちは,わたしたちを愛してくださった方によって,これらのすべての事に全く勝利を収めているのです。 死も、生も、み使いも、政府も、今あるものも、来たるべきものも、力も、高さも、深さも、またほかのどんな創造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを、わたしは確信しているからです」(ローマ8:28)

死を恐れる人は、「いのち」を単なる個の肉体機能や精神機能(意識や記憶)だけに囚われて(縛られて)考えることしかできない物質の(唯物的な)人なので、それらを「失う」ことが怖いのです。

とはいっても死は悲しいものですし、今の命を粗末にしてよいことにはならないと思います。信仰の前提に立つなら、神が与えてくれる定めのないフルコース・・次の料理が何か分からないからワクワクする、そして今、目の前にある料理をおいしく頂くことが感謝でしょう。

かつて非JWの同僚と人生を語り合ったとき、死んだ後は分からない、でも最後に言う言葉は決めている、『あ~楽しかった』・・そう言えることが自分の人生の目的、と晴れやかに語っていた。

聖書も、それぞれの箇所でそれぞれの筆者が自分の信仰や希望を表現しているので、それを読む現代人が、意見を割らずに到達できる解釈は存在しない。でもパウロによれば、キリストにおける神の命(愛)に移された人は、そこから引き離されることはありません。それがどういう形であれ、人の霊はそれをお与えになったまことの神のもとに還るからです。(伝道の書15章)

イエスも死を強調せず、むしろ強調したのは「帰る」ことです。

続きます。

法の限界

自分は直接見知ったJWの過去の犯罪行為を、1年前、実名で警視庁に通報しました。

ブログには具体的に書けません。被害者の洗脳が解けておらず、当人や家族の組織内での居場所を考えて公になることを望んでいないため、被害届けを出していない。

せめて犯罪者側の情報提供ができないかと警視庁に通報しましたが、予想通り、最近話題の親告罪なので第三者の内部告発だけでは動けない、と言われました。ただその種の犯罪は警察も取り締まりを強化している、関連が疑われる別件での被害届けがあれば有力な捜査情報にはしたいと言われたので、その犯罪についての記録、またものみの塔協会がその事実を把握しながら密室の独自委員会で「扱う」よう指示するだけで社会的には何もせず、指導もせず、さらなる被害者を生み出した事実についての記録が保管されているであろう場所も教えました。

もしかしたら任意の事情聴取くらいはあったかもしれません。

これが現行の法制度の限界です。

捜査令状にも同意するな、なので当然、任意の参考人聴取など軽く拒否できる。宗教つよい。

いずれ様々なケースで捜査令状が取られることも想定しての「最新の指示」でしょう。

この手紙を読んでいるであろうJW長老のみなさん、本当にエホバの至上の権威に従うならどうすべきかを考えてください。人間よりも神に従う?・・その「人間」には神名と宗教権威を私物化して、このような厚顔無恥な手紙を書く人間も含まれる、ということも。

霊的パラダイスの実情とは、性犯罪者の隠匿パラダイス。

子どもや家族の幸福のためのアドバイスを~と、無味無臭の偽善カモフラージュで「地域社会に貢献してますよ?」と、何も知らせない奴隷信者に言って回らせる腐れ切った宗教権威。

本当に子どもを守るというなら、組織内で起きた過去の性犯罪の被害者に、プライベートは守る、全面的にサポートすることを確約して、警察に被害届けを出すよう指導せよ。信者である性犯罪者には審理委員会での密室告白だけでなく、自首するよう諭せ。「それはどちらも個人の決定、組織は社会的制裁には関知しない」 と突き放す偽善的指導はやめ、そのような方針を取ってきた、変えようとしなかった指導部はその事実を公に認めて謝罪と共に引責辞任せよ。

する訳ないか。そんな法的責任はないし、守秘義務という聖域もある。刑事責任は問えない。

その代わり、道義的責任を民事で訴えられて裁判まみれになればいいよ。

もうなってるのか。

しかし、も協会を訴える代償として、本来はそのプライベートが絶対に守られるべき被害者が、自らの顔と受けた恥辱を世界に晒すことになる。この組織で守られるのは犯罪者の顔と組織の評判。

虐待の事実は否定できなくなっても、も協会に賠償責任はないと抗弁するのに必死。

教会とはすなわち教会員である、とのバルトの言葉を引用して他宗派の不祥事を声高に非難した団体が、身内の信者が犯した罪を背負えないなら「組織」を名乗るのをやめ、法人格も返上せよ。宗教法人を監督責任のない、ただの非課税資産管理団体として都合よく利用させていいのか。

裁判沙汰になるのは氷山の一角、大抵の被害者はエホバ様の御名のためと言い聞かせて泣き寝入るか、絶望のうちに人知れず組織を去るのみでしょう。

一刻も早く、法改正も視野に入れた司法当局による調査が広く行われてほしいものです。

隠蔽の指示

ここ最近、勢いで書き殴った幾つかの記事を自分で読み返しても、少々やさぐれている。

なぜかというと、ネオさんが晒してくれたも協会の秘密のお手紙です。

統治体支配をアピールする子ども騙しのも記事くらいなら軽いツッコみ感覚で読めるが、こういう手紙は改めて読み直すと吐き気がしそうです。何も知らない哀れな囲いの羊の毛をむしり取って商売するも協会の人間たちは、ますます犯罪隠蔽集団と化している。

目的の1つは、犯罪捜査を行なう世俗の権威との摩擦を回避すること、です。

そのためには何かを知っていることすら、匂わせてはいけません。

審理委員会で扱われているという事実も含め、守秘義務で突っぱねよ、が基本路線。


・何事もそれぞれのケースに特有な内密の守り方について法律部門に指示を仰げ

・も協会の法律部門の指示を仰ぐこと、指示を仰げとの「指示」も内密にせよ

・時間を稼ぐ必要がある場合は弁護士を通すと言え(も協会の名前は出すな)

・捜査令状を取られても、実力阻止はしなくてよいが同意はできないと粘れ


末端長老への指示なので、法律部門とやらにはもっと恐ろしい指示が出てるでしょう。

これ、もう宗教法人格を剥奪した方がいいんじゃないでしょうか。

法律には最低限従うが、エホバ様の至上の権威を優先すると明言している。

信教の自由って法律で保護されるものなので、法律を遵守することが前提ですよね。

宗教法人格と信教の自由をはき違えてないか。

例えば、イスラム教国ではJW布教なんて認められていませんね。それでも何かの方法でこっそり布教しますね。福音を語れと「神に命令されて」いると解釈するからね。そう解釈するのは自由として、その国の法律で認められていないことをするんだから、当然、宗教法人格としての恩恵は受けられませんね。それを「禁令下」って言うんですよね。それに文句を言えますか?

その国の法律で認められていないなら、個人レベルで活動するしかないでしょ。

個人の家で集まる、不動産目的のカネ集めなどしない、できない、形だけアピールの戸別牛歩布教もしない、聖書のみを使って居合わせる人に話す、それが本来のシンプルなクリスチャンだよね。

法治国家で法的恩恵だけ受けて捜査令状には同意するなとか、頭オカシくないか。

そこで 「人間より神に従え」 を持ち出しているが、「内部資料の隠匿を優先し、犯罪捜査目的の令状にも同意するな」 と、どの神が命令してるのかな。このお手紙によると、WT組織神エホバ様はそう命令している神らしいが、聖書の神がどこでそんな命令をしているのかはよく分かりませんね。

「司法当局(人間)より統治体(別の人間)に従え」 なら分かりやすいんですが。

でも上位の権威は悪行者を処罰するために剣を帯びていると、パウロも言ってるよね。

なのに犯罪捜査にも協力せず、まず内部資料を隠匿せよ、なのか。

実力行使をしていないだけで、言ってることの異常さは、もはやかのカルトに近い。
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