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神の区別

行為また崇拝様式の類似性や画一性が「神」を定義し、区別するのか。

崇拝とは意図なのか、行為なのか、も議論されてきた問題です。

シリア人ナアマンは主人である王に寄り添われるとき、リモンの家で「身をかがめなければ」ならない許しをサムエルに求め、聞き入れられた。崇拝の意図がないからです。

悪魔は、イエスに「崇拝の行為」を要求し、イエスはそれを拒絶した。

それでWTは主に、本人の意図に加え、その行為が周囲からどうみなされるか、を優先するようです。クリスマスプレゼントを受け取るかどうかも、それをただの贈り物と「みなして(本人が)」受け取ることもできるが、もし相手側に妥協させようとする意図があり、それを受け取るという行為が妥協と「みなされる(相手や周囲から)」なら断るべきだ、と教えている。

なんかめんどくさいですね。

あるJWシマイも、身内親族にJWがいないのをいいことに葬式では普通に焼香する。形だけ(行為として)やっときゃいいのよ、気持ちの問題なんだから、と合理的な考え方をするが、バレれば即審理委員会ものです。本人の意図とは関係なくそれは崇拝だと「みなされる」からです。

なんかあほらしいですね。そんなのいちいち長老にチクるのもあほらしいですね。

だからWT的には、行為として他宗教の場所や流儀で祈っておいて、気持ちの問題(本人の意図)では「自分と同じ神」に祈っている、とか「敬意を表しただけ」という言い訳は通じない。

それもどうなんですかね。

イエスはこの山(エルサレム限定)でも、ゲリジム山でも(限定)なく、人が霊と真理を持って神を崇拝する時が来ようとしている、と語ったが、その時はいまだ遠いですね。WT協会のように、聖書聖書と言いながら、ぶよを濾し取りらくだを呑み込む逆行宗教も周期的に後を断たない。

ヤコブも神から見て汚れのない崇拝の方式は、「孤児ややもめをその患難の時に世話すること」と語った。旧約やパウロがその時代に厳しく偶像崇拝を糾弾していたのは、それが「姦淫」と比較されるように乱交を特色の一つとしていたからだ、という見方もあります。


さらにその行為が「崇拝」か「敬意」かも人が裁くことはできないように思います。子に対するプロスキュネオーを新世界訳が「拝んだ」ではなく「敬意を表した」と独自に解釈しているようにです。

それで海外から日光東照宮を観光で訪れる信心深いクリスチャンが、日本人がするように手を合わせて恭しく頭を垂れるとしても、その人も日本人も究極には「同じ神」を拝んでいる、と捉えることもできますし、日本の神や宗教に「敬意」を表している、と捉えることもできます。

すべてのクリスチャンがそうする訳でもないでしょうが、自分がそれをしないとしても、とにかく頑なに、原理主義的に字句に固執し、何かの象徴に向かって拝む(表敬する)行為を十把一絡げに、「忌まわしき偶像崇拝だ」と断じる人は少なくなっているようです。
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同じ神論争

「同じ神」論争は古くからあるようです。

ローマ時代のヴァロは人が何の偶像も対象にせず祈る時、最高神ジュピターに祈っているとみなすことができよう、と考えたらしい。では偶像を使わなかったモーセはジュピターに祈っていたのか、というのがアウグスティヌスの反論(たしか)。

布教熱心なイエズス会は適応主義だと、バチカンから釘を刺された。

逆に「同じ神」という意識・意図に反してそうみなされない場合もある。金の子牛を造ったアロンは「これはあなた方をエジプトから救い出した(のと同じ)神だ」と言った。

アモン・ラーと天照大御神は太陽を神格化しているから「同じ神」なのか。日本の神は固有だ、一緒にするな、という人もいれば、同じ光を見てその源である神を拝んだのだから同じ神でいいんじゃね、という人もいるでしょう。

非信仰者やWTからすれば、そんなのどっちも存在しないんだから「同じ」かどうかなんてどうでもいい、となるでしょうが、聖書の神は信じてもWT解釈を信じない人からすれば、「エホバ」なるカタカナ神も虚構で存在しない、という人もいます。もう水掛け論です。

それとも信じる人がいる(いた)以上は、その神は存在するのか。

アフロディテとヴィーナスとイシュタルテは呼び方が違っても「同じ神」なのか。WTも建前上はエホバと呼んでもヤハウェと呼んでも「同じ神」だというが、どうも「エホバ」という表記にこだわっている。神名というより団体商標になっちゃったので今さら変えらんないしね。

アブラムの勝利を祝福しに現れたメルキゼデクは名のない「いと高き神の祭司」だったが、これをカナン土着の神だったとする解釈もあります。アブラムはその神を自分の神と同一視している。WTはそんなはずない、いと高き神はカナンの神なんかじゃない、はじめっから「エホバ」のことだ、と言うでしょう。でもエールエルヨーン(いと高き神)とヤハウェは「同じ神だ」というのと、「同じ神とみなされるようになった」というのと、どうやって厳密な区別をつけるんでしょうか。


それで多神教vs一神教という二元構造はもう古いとする多元的、また包括的キリスト教派もあります。ここ数十年でも宗教思想は進歩している(表向きには組織型宗教の衰退と映る)ので、原理的・排他的一神教でいがみ合う時代は(おそらく作為的に仕掛けられているであろう世界のごく限られた地域を除けば)もう過去のものになりつつある。

生き残りを模索するWT協会も、「他の宗教を尊重しています♪」と軟化した印象をアピールするが、肝心かなめの教義は意地でも変えない(唯一正しい宗教、ゆえにハルマゲドンで自宗派だけが救われる、転向者の破門・忌避)ので、実情を知る人の反感をさらに煽る二枚舌でしかない。


「えほば」と発声する日本WT協会信者と「じほーヴぁ」と発声するアメリカJW信者が「同じ神」を崇拝しているという保証は何ですかね。彼らの神のイメージは土地の文化や伝統や思考に影響されていないと言い切れるのかな。同じ宗教団体に属し、その団体の「神の説明」を信じ、同じ戒律を実践しているというなら、「同じ神」であるかの保証は宗教団体の信条や活動に依存するのか。

崇拝の方式や団体(場所)というくくりが先にあり、それが「神」を区別し、定義するのか。

どうも、それはイエスの教えではないような気がします。

続きます。 

神の描写

だからと言って聖書を読んで、その直接引用に加えて「自分の言葉」で神を描写したり、説明したり、称賛したりすることはよくないとも言い切れません。できるだけ慎み深い方がよいとは思いますが、聖書の神を個人としても団体としても、解釈してはならない、書いてもならないというのも否定神学すぎる気もします。

ただ「神は憐れみ深い」とか「神は賢い」という表現もそれ自体は意味をなさない、というのがマイモニデスの立場で、それも分かる気もします。たかだかヒト風情が「神は賢い」なんて言葉にするのはおこがましいような。たとえ万人が「これは賢いやり方だ!」と納得する解釈が編み出されたところで、神にとっては愚かなんですから。

「わたしは賢人たちの知恵を滅ぼし、知能のたけた者たちのそう明さを押しのける」と書いてあります。賢い人はどこにいるのですか。書士はどこにいますか。この事物の体制の弁論家はどこですか。神は世の知恵を愚かなものとされたのではありませんか」(パウロ)

イエスが父以外に「善い」者はいない、パウロが「ただ一人知恵のある方」と語ったように、「善い」とか「賢い」を神に関して使用する場合に限り、それは人間が通常考える概念に限定されてはならない、そういう限定的な使い方で神を描写してもならない、ということです。

「神は生きている」とか「神は死んだ」も同じで、神がヒトの認識しうる生き死にを超越した存在とするなら、「死んだ者の神ではなく、生きている者の神」(イエス)であり、どんなに賢いヒトのちっぽけな生死観も及びません。ニーチェを読むと、彼はキリスト教権威やそのコントロールへの皮肉を込めて、かの名言を著したような気がします(間違ってたらすみません)。

でも信仰者にとってはなぜ「神は生きている」という類の表現が好まれるのか(聖書でもそのような表現が好まれている)といえば、それはそれらの表現によって想起される神的な存在への表敬であり、それ自体が神の本質について何かを定義する訳ではありません。

・・それはそうとして、自分としてはそんなに難しく考えなくても、ヒトの言葉による表現描写は子どもが書く父親の似顔絵程度、に捉えるくらいでいいと思います。

その絵が「正しい」かどうかをジャッジすることがナンセンスです。

どんなに下手で「間違い」だらけだろうが、その子なりの描写です。

それを全然似てない、ブサイクに書きやがってと破り捨てる親がいるでしょうか。

逆にマイモニデスの言葉を借りれば、言葉であれ象徴であれ、神に関して言えば、どんなに才能がある人が描き出す「完璧さ(と人の目に映るもの)」も、神に関しては欠陥です。

言葉による信仰表現や描写も似たようなものだと思います。

だから、宗教解釈を「正しいか」「間違いか」で裁き合う論争に興味はないです。

上記の立場からすると、似ても似つかない子どもの似顔絵レベルです。

でも、どんな似顔絵でも書いてくれた親は喜ぶんじゃないですかね。

そのつたない似顔絵を見て、実際の父親に会ったことのない人が「君のお父さんてキモイ、まじブサイクで魅力ないんだね」と間に受けるでしょうか。

だから「その解釈は神の特質を描き損なっている!」とどっちの似顔絵が上手いかでケンカするより、自分の書いた絵とは似ても似つかなくても、「あなたの神もわたしの神」だよね、同じ神を描こうとしているんだよね、と認め合うおおらかさがあってもいいんじゃないかな。

わたしの神

ルツが語った「あなたの神はわたしの神」やパウロの説教を包括的な一神教みたいに適用するとキリスト教でも異端視されそうですが、その可能性に自分は魅力を感じます。もちろん、こんなことは自分が考えるまでもなくキリスト教神学ではとっくに議論されてきたことで、このページを見る限り緩和もされているようです。日本でもカトリック神父さんがお寺で説教する時代ですからね。

話を戻すと、人は何かの神を拝む時、何をもって「これはわたしの神」と自覚するのか。

JWは分かりやすい。「エホバ」なるカタカナ神聖トリグラマトン(笑)という特定の表記を使って書き、発声すれば「自分(たち)の神」です。表記が同じなら同じ神なのか、も議論はあるようですが。

特定の象徴に向かって祈る人もいます。でも「この象徴でなければ」と全面的な代理性や排他性を持たすと物神崇拝に近くなり、キリスト教的にも偶像崇拝です。それとも表記や象徴は便宜上で、その人の中にある固有(特定)のイメージが「その人の神」なんでしょうか。

すると前から疑問なのは、図象で描くことはだめで、言葉で描くのはなんでいいの、ということになります。「神に手がある」のは比喩、象徴として言葉で表現するのはいいのに、実際に手がある神を象徴として何かの形にするのはなんで?いけないんでしょうか。

WTは単純に「聖書に書いてあるから」で済ますでしょうが、中々に奥深い問題です。

実際、厳格なユダヤ教では言葉での描写にさえ否定的な立場を取る人もいます。

ユダヤ教で正典として認められている、特に彼らが最も重んじる「モーセ」に神の特性が描写されている事実はありますが、それに付け加えてはならないとする立場です。キリスト教ではそれに「神の栄光の厳密な描出」である子についての直接記述が含まれるでしょう。

聖書の霊感説をどう捉えるかは別にして、聖書を信仰の典拠とするならそれは正論だと思います。つまり、自分たちの解釈やイメージは聖書に基づいている、というのはただの詭弁で、その実は、聖書以外の文書、印刷物、特定の団体の解釈や説明に全面的な排他性を持たせる「神のイメージ」を描くのは潜在的な偶像崇拝の危険があります。

つまり言葉であれ、象徴であれ、いかなる人によって形作られる「神のイメージ」や「神の描写」も神そのものには到底なりえない、ということです。

「われわれにとって完璧なものは神からすればこのような種類などではなく、神に関してはすべて欠陥であるということをわれわれに教えるためである。こうした属性のなかで何を完璧であると想像しようと、それは神からすれば、もしそれがわれわれにとって完璧なものと同種類であるなら、欠陥となろう」(マイモニデス:『迷える人々のための導き』)

マイモニデスは、タルムードは言語的表示の否定を教えている、とする立場です。マイモニデスについてはも搭1995年にかなり好意的な特集記事が書かれていますが、皮肉なことに、それ以降のWT印刷物に覚える違和感がこの文献で指摘されていました。

「わたしたちの神ってこんなにすばらしいんです!」「こんなに非の打ち所のない完璧な神様なんです!」といくら描写しようが、言葉で神の賛辞を長々と続けることは神の偉大さを言い尽くす試みに思われても、それは不適切(WT的には“ふさわしくない”)とされています。

WT解釈がどんなに神を「擁護」しようと、その解釈は「欠陥」だらけです。どんなに「完璧な説明」と思い込んだところで、勝手に想像したところで、神に関してはすべてが欠陥です。

その慎みを忘れ、自分たちの解釈こそが「唯一完璧なる神の説明」と驕る彼らは、「エホバ」という表記の神を賛美しているようで、自分たちの手前味噌解釈やそれを宣伝する印刷物、さらにそれを生産する施設を best place ever!と高め、賛美しているのではないか、という違和感です。

あなたの神

ということでルツ記の話ですが、モアブ人の一般女性の名が付されている時点で旧約では異色です。JW集会で使用中の「信仰に倣いなさい」の本にも出てきていて、所々に面白い記述はあるが、JW教材で脚色されるとやはり肉的な選民思想に毒されてしまう。

モアブ人だったルツはナオミに「あなたの神はわたしの神」と語った。

ナオミの息子たちは改宗者でもないモアブ人のヨメをもらっている。しかも相続地を離れてまで。たかが経済苦境で「非聖書的な方法」で逃れるのは信仰の欠如ですよね、WTさん。

イエスよりもパウロの言葉をさらに過敏解釈して人を裁く不寛容WT協会も、“不信者”との結婚を禁じている。だから「ナオミはそのことに心を痛め、がっかりしたに違いない」と苦し紛れに言うが、息子たちに対する否定的言及は聖書に一切ないのにね。

さらにもう一人のヨメ、オルパが郷里へ帰ったら、「彼女は偽りの神々を崇拝することに満足していた」と、これまた聖書にない決めつけで勝手に侮辱する。この物語を汚してやまない。

もちろん、ユダヤ教側に改宗したから祝福されたという御利益話と捉えることもできるが、「自分たちの神々のもとに帰りなさい」と穏やかに勧めたのはナオミですけどね。WTに教化された狂信的母親、姑とはえらい違いです。

それでも自分の姑の土地へ行くことを決断したルツは、ついて行く以上は、ナオミの神を自分の神にすると言った。つまり、ありのままにルツ記を読むと、ルツはユダヤ人の神を崇拝したかったというより、なによりもまず、ただひたすらナオミに尽くしたいと願っていて、そのためにその土地の文化や慣習や宗教さえ受け入れるつもりだったのではないか。

『あなた方が、死んだあの子たちに、そしてこのわたしに尽くしてくれたと同じように』

ナオミはルツとオルパに優劣をつけていない。でもWT解釈では、オルパが帰ると決めたときも「ちっ空気読まないヨメだねぇ、帰れと言ったがほんとに帰ってどうすんのよ偽りの異教徒め。改宗しなけりゃ救われないのにねぇ」と、内心で毒づいていたのかな。

そんなWTはまことしやかに、この物語は「家族を大切にする」ことを教えているという。

その通りです。なら実行しましょう。

信条や習慣に関わりなく家族や親族に尽くしたいと願うゆえに、土地の文化や慣習、さらには宗教にさえ合わせるのは何かいけないことなのか。それでも信仰合同だと裁きますか。

WTに教化された信者は「家族を大切にする」と言いながら、自分たちの信条や慣習や活動こそ理解されるべきだ、尊重されるべきだ、もっと言うならこっち側に改宗するべきだ、なにせ世界で唯一の正しい宗教なのだから、と驕っている。

家族のイベントも、わずかでも宗教らしきことが絡むと病的なほど神経質になり、「自分たちの神に憎まれる」と空気をブチ壊しておいて、「信教の自由は尊重されるべき」ともっともらしい正論を吐く。聖書はそんな一方通行の尊重を要求せよと教える本のようです。

「あなたの神はわたしの神」・・自分がかつて、かのユダヤ人信仰者に語った言葉です。

これを信条や習慣や解釈の違いを超えて互いに告白できる時、神の御国は到来するのか。

パウロでさえ「お前たちは偽りの神を崇拝している」ではなく、上目線ではあるが、「あなた方が知らないで崇拝しているもの(=同じ神)を伝えている」とかの有名な説教で語っている。

出自民族を超えて憐れみを示す神、その兆しが旧約でも垣間見える書だと思います。

人格的存在

人格とは何でしょうか。神は人格的存在デアル!という文言にやたらと固執するWTの方が、実は三一のペルソナに引きずられているのかもしれません。三一論の土俵にどっかり上がりこみ、その字句的な「不可解さ」や「感覚的矛盾」を“偽り”だ!と騒いでいます。

時代錯誤の道場破りみたいなもので、それぞれの流儀流派で尊重しあいながら精進すればいいのに、どうしても真偽や優劣がつけたくて仕方ないのか、わざわざ他流派の道場に押しかけてケンカを売り、一方的に勝ったつもりで去っていく議論をネットでもよく目にします。字句的三一論者にも似たような傾向はありますが。

そもそも、聖書は「人格」なるものを定義しているんでしょうか。

考えたり、しゃべったり、感情表現できる存在が人格ですか。ヒトが人格的存在だ、と言うのは、魂に人格があるんですか、脳に人格があるんですか、目には見えない、体の特定の部分には依存しない精神性や個体意識の総称が人格ですか。生物学的には似たような機能で生きているペットもヒトの言葉を多少は理解し、性格や感情表現に個体差がありますが、それは人格ですか。

自分は神が「人格」的な存在だ、なんてあまりに畏れ多くて言えません。

「わたしの魂は深く憂い悲しみ、死なんばかりです」

悲しんでいるのは「わたし」ですか。「魂」ですか。

「神の聖霊を悲しませることのないようにしなさい」

悲しんでいるのは「神」ですか。「聖霊」ですか。

しゃべったり悲しんだりするのが人格なら、聖霊も語り、悲しみます。

WTは聖書に書いてあることは字句通り信じると言いながら、常識・経験・理性的感覚をより重視するので、「人格的存在が複数の実体に同時に宿ることなどない」とか、「遍在するものに人格など(普通は)ない」など、そんな教え(定義)が聖書のどこにあるんだ的な主張をします。

だから悲しんでいるのは人格的存在なる「神」であり、「聖霊」はそれを伝達するエネルギーか波のような非人格的な力と解釈します。自分はそう解釈したい、自分にはしっくりくる、というラーメンの好み程度の話ならそれはそれでいいのに、わざわざ他宗派の解釈を“偽り”だ!と騒ぐから叩かれるんでしょう。

自分はそこ=“人格的”かどうか、に意地でも区別をつける必然性を感じませんし、そんな抽象感覚的・哲学的議論で神を定義する論争に興味はないですね。

神なるものの定義に、ヒトが正しいだの偽りだの騒いでどうすんだ、という感じです。せっかく聖書では“神”が、「自分はなるところのものになる」と無限の超越性と可能性を宣言しているのにね。

宗教虐待

先週のも塔より抜粋。

「聖書研究や集会や野外奉仕について,子どもたちみんなで,よく泣き言や不平を言いました。どうしても嫌で家族研究をやめさせようとしたこともありましたが,両親は妥協しませんでした。 そのような訓練のおかげで粘り強さが身に着きました。今は,霊的な習慣が乱れると,できるだけ早く元に戻りたいという気持ちになります。もし両親が断固たる態度で霊的な習慣を守っていなかったなら,そういう気持ちにはならなかったと思います。両親が妥協していたら,集会などの霊的な活動を簡単な理由でおろそかにしてしまったことでしょう」

カルト教団の2世が共通して経験する宗教虐待。昔はこれにもれなく体罰がついてくる。

こういう記事を書いている人間が、教団独自の活動が基本的に「嫌なこと」であり、どうやってその、どうしても嫌な事をやらせるか、という前提で書いている訳です。

「泣き言や不平」
「どうしても嫌」
「霊的な習慣が乱れる」
「断固たる態度」
「両親は妥協しない」

週1回、WT教材を使用して1時間、家族全員で勉強会をする。
週2回、約4時間、JW集会に出席する。
JW布教活動への毎週の参加。

他にも毎朝、「日々の聖句」と言いながら、聖句の何倍以上はあるも搭注解文を読まされる教材を読み合わせるなど、聖書に直接書いていない無数の決めごとを遵守することを「霊的な習慣」と呼ぶ。それを欠かすのは「妥協」とされ、「断固たる態度」で死守しなければならない。

やがてその「習慣が乱れる」ことに罪悪感が生じ、できるだけ早く元に戻さなくてはならない、という強迫観念に近い意識に縛られる。

「わたしが命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」

これを史的イエスなる人物が本当に語ったのかは知りませんが、仮にそうだとしても、神やキリストへの想いとはおよそ関係のないところで、イエスではなく教団独自の決め事を守り行なうよう断固たる態度でしつけよ、妥協を許すな、という宗教マゾヒズム、いや宗教ファシズムか。

規律戒律習慣義務要求活動にがんじがらめにされるJW2世たち。

これだけ若者離れが深刻になっても、まだこんな締め付けるような記事を書く。

逆にこんな“訓練”で、神やキリストへの愛が育まれた、ではなく、まず「粘り強さが身に着いた」ことを感謝するJW組織兵士に育つと、離れゆく若者を尻目にトッケンを次々に与えられ、やがて同じような非聖書的な訓練で信者を痛めつける二世長老や二世巡回になっていくのでしょう。
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