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確実性業者

パスカルは信仰を「賭け」、キルケゴールは信仰を「飛躍」や「冒険」という言葉を使って評したが、でもやっぱり、どうしても、「絶対に確実」で「絶対に正しい」ものを信じたい(だからそれ信仰なのかな)という、パウロが言うところの論証や保証を欲しがる傾向は根強いものがあります。

自らをルター派のクリスチャンとする、社会学者のピーター・L・バーガー氏は、その傾向に付け込む、とまでは言っていないが、そういうニーズに応える各団体を、キリスト教の「各種スキマ産業」または「確実性業者」と呼んでいます。

彼が挙げているのは3タイプの確実性業者です。

① 聖書の逐語的絶対無謬・・彼本人はこれを一種の偶像崇拝としている

「聖書に書いてある」から絶対確実だ、とする立場。歴史、科学、神学等の教育背景がない人に受け入れられやすい。精神性の未熟さを露呈する場合も多く、「聖書に書いてある」と言っても、それが何を意味するかで逐一意見がまとまる訳がないので、醜い解釈論争で荒れることも。

② スピリチュアリズム

キリスト復活後のペンテコステに起きたような霊的体験が現在でも起こるとする立場。最近のキリスト教界ではけっこうブームです。キリスト教以外でも個人の内的経験を、特定の団体・宗教観の揺るぎない確実性の基盤とする考えは広まりつつあるようです。

③ 組織依存型

何かの組織や制度を尊重する、またその制度に尊重されることを確実性として売る手法。理論的にはどんな教会や組織(世俗組織含む)もこれで商売できるし、キリスト教でこの確実性を最も手堅く売り出してきたのはカトリックとしています。

も協会は①と③、そして一応、②もですね。ペンテコステのような秘跡が現代で起きることは否定するが、ささいな日常体験をことごとく「エホバよね」「サタンだわ」と刷り込む教えは強烈で、ある種のスピリチュアリズムと言っていいかもしれません。また、アブラ者にとっては本人にしか分からない(説明不能)、聖霊による内的経験こそが召命の揺るぎない確実性である、とする点では他のキリスト教とほぼ同じ立場を取ります。

さらにキリスト教史でも周期的に出てくる集団として、急進的道徳主義者または完全主義者を挙げています。制度であると同時に人の集まりでもある教会についての思想の違いです。

① 教会とは道徳的に完全であるか、不信心者よりも完全に近くなくてはならない

② 教会は稀に(笑)聖人を生むこともあるが、他と変わらぬ罪人の集まりである

②は時代によっては集団や権威として容認と堕落を繰り返す、①は要求したり周辺規則を作ったり人を裁いたりが大好きなパリサイ集団になります。①の人たちは偽善的な母体から分離するか、母体の中に急進的小集団を作ります。

WT組織のコントロールが上手いのは、①と②を巧みに使い分けているところです。最高の組織と自賛するときは①、隠蔽がバレる、他宗教と似た間違いを指摘される、と②に裏返る。

彼の知見によれば、こういう分離主義者の試みや理想はやがて幻想に終わるようです。なぜなら母体に見られる偽善や腐敗が、必ずその小集団にもいずれ発生するから、だそうです・・その通りですね。ぐうの音も出ません。
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信仰の別名

はるか昔の記事になりましたが、信仰の定義?の続きです。

そんなの人それぞれでしょうが、自分が好きなのは↓のような告白です。

この“信仰の説明”が「正しい」と主張はしないので論駁は不要です。自分はこういうラーメンが今はおいしいと感じる、けっこう好きかな、程度のことですので。

ちょっと長いですが引用します。

『真理とは、こうして無限と直面し無限によって貫かれた無限性の情熱をもって、客観的に不確かなものを選び取る冒険にほかならないのだ。神をみいださんとして私は森羅万象を観察する。とそこには、全能と知慧がみられるが、しかしまた同時に私を不安と混乱のなかに陥れる多くの夾雑物も目にとめるのである。これを煎じ詰めて結局残るところは、客観的不確かさである。だがまさにそれゆえにこそ内面性はこの客観的不確かさをば、無限性の情熱の全てを傾けて受けとめるからである。例えば数学上のある命題に関してなら、客観性は保証されている。しかしまたそれゆえにその真理は主体にとってどうでもよい真理なのだ。だが真理を右のように規定するならば、それは信仰の別名なのである。冒険をぬきにして信仰はない。信仰とは内面性の情熱と客観的不確かさとの矛盾をそのまま受けとめることにほかならない。いな、その矛盾そのものなのだ。もし私が神を客観的に把握できるなら、私は信じてなどいない。だがまさしくそれが出来ないからこそ、私は信ずる所に追い込まれるのだ。そしてこの信仰を貫きとおすためには、私は客観的不確かさを眼前に見据え、この客観的不確かさの七万尋の深淵の上を漂いつつ、しかもなお信じるという冒険に絶えず身を曝さねばならないのである』(キルケゴール:著作選集)



前にも書きましたが、不可知論というと、どっちつかずの空しい哲学だとWTでは教わりますが、不可知性に対する真摯な受容と奥深い悟りが情熱的な信仰の土台となる場合がある、というのはおもしろいです。

客観的不確かさを前にして、信じるのをやめる人と、信ずる所に追い込まれる人、そこに信じる人と信じない人との質的一致の可能性を感じます。

誰が、何が、どっちが、どの信条が、どの団体が正しいのか、という終わりなきエレンコス(論証)の勝ち負けによる信仰とは対照的です。どっちの信仰が「正しい」のかはジャッジしませんが、そういう信仰の人が、「信じない人(神や宗教を信じても“自分と同じ神・宗教”を信じない人含む)」と口先だけでなく本当に分かり合う、認め合うことは永遠にないでしょう。
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