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救わない神

だから神はほとんどの人が御利益的に考えるような意味では救わない。

パウロによれば、生死も、善悪も、患難も祝福も、万事が益となる信仰が救いです。

救いとは単純な生死や善悪や御利益で量れない。そういう「救い」なら、信じたのに救われない人も数え切れない程いる。この世で救われなければあの世(天国か楽園)がある、ウチの神様は拝んでは一切なし、他の神様を信じるよりお得だよと、商売じみた客(信者)の奪い合い。

そんな「救う神」を信じるから救われない人をこの団体でもいやになる程見てしまった。本人は救いのためと必死にすがり自分を打ち叩く。訳分からず打ち叩かれた2世の傷はさらに深い。


キリストをさえ見捨てた神、自分を救わなかった救い主、を受容することが無敵の救いとはまだ言わないが、とりあえずは人類の99.9%以上を大虐殺する史上稀にみる偏りまくりの「救う神」を宣伝しての客寄せはそろそろやめた方がいいかもしれない。

捨てる神あれば拾う神あり・・という宗教観?に通じるものもあるが、キリストの磔にある力とは、究極に捨てられた状態、エリエリレマサバクタニ(神よ、なぜあなたは私を捨てたのか)と心底から訴える時に、その人は救われているという逆説にある気がします。

神はほとんどの人が考えもしない、救われているなんてだれも、これっぽっちも思わないな状況に置かれた罪人を、傍目にもご立派な言動や服装をしているとは思えない人を、捨てられた人、裁かれた人、痛めつけ放り出された人、蔑まれた人を対価なくして贖い、救っているという。


「自分の魂を救おうと思うものはそれを失うからです。しかし、だれでもわたしのために自分の魂を失う者はそれを救う者となるのです」

救いとは宗教活動・戒律遵守・人格陶冶に基づく宗教的確信ではなく、救われている、救われるだろうと思っている人ほど救われないと、イエスは何度も警告した。

パスカルの賭けのように、死後の命がある「かどうか」、神はいる「かどうか」、どっちも証明も反証もできないなら、神様を信じる方が(賭け、つまり損得勘定で言えば)合理的だよね、という自己幸福救済型の宗教観も・・まあいいですが。

でも、その願望と死の恐怖に付け込む宗教に支配されると、“救い”ほしさに我が子を虐待まがいのしつけどころか、↑の句を輸血拒否に逆利用して見殺しにできる、救われるに「相応しい」規準から外れた者を痛めつけて放り出し、血を分けた家族でも一生忌避する・・まさに生きながら魂を失った人間にされてしまう、その注意喚起は必要かと。
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死生観

「死よ、お前のとげは、お前の勝利はどこにあるのか」

聖書に基づく死生観と信仰表現の一例です。

マルティン・ルター『キリスト者の自由』より。

ルターはも塔でも是々非々にかなり引用されていて、も塔2003年にルターの特集記事が書かれているが、統治体の世代交代と1914年から1世代と2世代の狭間にある穏健な時期なので、お得意の人格攻撃はちょっぴりだけで全体として好意的な論調で書かれている。

ルターだって現代感覚で読めば強硬な差別発言に見える箇所もある。それは聖書も同じで、後出しジャンケンみたく現代の良識で聖書やルターを批判するのはフェアじゃない。でもそれは、字句に固執する肉的な戒律主義者がその字句を権威に人を裁き、差別してきた代償だと思います。

「召された者たちには(生死であれ、善悪であれ)万事が益となる」
― ローマ8章28節以下

「生も死も、現在起こっていることも、将来起こることも、すべてはあなた方のものである」
― コリント第一3章21節

「これは私たちがすべてのものを身体的に支配して、所有したり使用したりすることではない。なぜなら、私たちは身体的には死ななければならず、だれひとりとして死を免れることはできないからである。また私たちは、キリストやその聖徒たちのように、死以外の多くのものに服さなければならない。だから、ここで言っているのは、身体的な圧迫の中にあっても支配している霊的な支配のことである。すなわち、魂に従えば私はすべてのことにおいて自らを良くすることができるのであるから、死や苦難ですらも私に仕えて、私の救いに役立つほかはないのである。これはまことに高貴な栄誉ある品位であり、真に強力な主権であり、霊の王国である。そこではよいものとか、悪いものとかいうものはなく、私が信仰を持つ限り、すべてのものが私に仕えて私の益となる。しかも私はそれらのものをなにひとつ必要としない。信仰だけで私には十分なのである。見よ、これはなんと高貴なキリスト者の自由であり、力であるだろうか」

彼の「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」がよく凝縮されている箇所だと思います。


万軍の守護神、軍神ヤハウェが新バビロニアを滅ぼし先祖を解放した(と解釈される)「救い」を期待したユダヤ人たちは、伝統も守らない、彼らの宗教上の秩序と一致を乱す、自分も救えない救い主ならいらない、いっそ殺してみてくれと彼をローマ人に引き渡した。

強制移住させられた諸民族を解放した異国の偉大な王でさえ、自分たちを解放するために「用いられた」我らの神ヤハウェの使いだとする節操のない自己中御利益民族だから無理もない。その旧約的御利益精神は、なんでもかんでも「エホバよね~」に受け継がれている。エホバ様を信じない世の人がする親切など、その人に感謝するどころか、エホバ様に助けられたとしか考えない。

さて、ローマ帝国を滅ぼすどころか、彼らに磔にされたイエスを救い主として崇め伝えるキリスト教が、ローマという当時の「人の住む全地」を満たしてしまった。

『あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました』(ダニエル2章)

ルターが言及した、人の内に真に強力な主権を持つ「この世のものではない」霊の王国、パウロがすでに移されたと語った愛する御子の王国とはこのことか。

人手によらず切り出され、どんな人間にも渡されることのない王国・・内部信者を支配するために何かの団体が私物化できる王国ではない。ムツゴロウ王国みたいに、信者を増やして飼育する「ものみの王国」が設立100周年、というなら間違ってはいないが。

最後の敵

人が死ねば考え(意思)は滅び失せるが、永遠の霊はその源に還る。
― 詩篇146編、伝道の書12章

風になる、星になる、天に行く、直感的な言い方はいろいろあるかもしれないが。

そこに~わたしは~いません~死んでなんか~いません~

「人が死ねばまた生きられるのか」(ヨブ)

遠い昔から信仰者が求め続ける答え・・死後の命はある「かどうか」

キリスト教の優越性という表現は使いたくないが、もしそれがあるとすれば、ヨブもまだ見ていなかった「永遠のいのち」(ヨハネ第一)を見て、知るようになったので、もうその問いが意味をなさなくなったことかもしれません。

「死んだ者ではなく生きている者の神(死んでなんかいません)」を、聖書にある何がしかの復活・・身体的な死の対義として再びのを(命ではなく)与えられること(コリント第一15章)を信じる人にとって、滅び失せた意思や記憶がそこに関わるの「かどうか」は知らない。

それが輪廻だと言うつもりもない(聖書の復活は一回的)が、その「かどうか」にこだわる必要もないし、こだわり続ける人を罪は死を伴っていつまでも恐怖の王として支配する。

『私が不義において孕まれたとしたら、母が罪の内に私を胎内に養ったとしたら、神よ、一体どこで、主よ、あなたの僕である私はどこで、また、いつ、無垢の時があっただろうか。いずれにせよ、その時期のことは省くことにしたい。実際、まったく記憶していない時期が、今の私にとって、どのように関わるというのか』(アウグスティヌス『告白』)

ヘレニズム霊肉二元論や魂先在の概念はアウグスティヌスが西洋神学に取り入れたという見方が一般的?らしいが、そんなこと言ったら博学なパウロの書簡にもそれを伺わせる箇所は結構ある。同時代の、やはりギリシャ思想に通じたアレクサンドリアのフィロンのようなヘレニスト(ギリシャ語を話すユダヤ人:使徒6章)たちは、その呼称のごとくすでにヘレニズムの影響を受けていた。

WTの言う通り、ヨブを含め旧約側のネフェシュに先在の概念はないのはそうでしょう。

『わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである』(パウロ:ガラテヤ2章)

WTが範とするヘブライスト・・エルサレムを権威とするヘブル語を話すユダヤ教イエス派(⇒ ヘレニストのヘレニズム化とは距離を置き、パウロの宣教を尊重しながらも一線は画して割礼や律法の遵守も続ける)も、どこまで“原始ユダヤ教”の思想を保っていたのかよく分からない。

無垢という、汚れなき善性への回帰・・その憧れはJW願望にも共通している。

でも残念ながらアウグスティヌスが結論付けたように、「人には殺せないプシュケー」(イエス)があるとしても、それに先在がある「かどうか」を記憶で語れる人はいない。

生きながら死(意識の喪失)の恐怖に囚われる、神のようになったヒトの最後の敵。

その最後の敵に打ち勝てば、その敵は無に帰せしめられ、敗北は勝利になる。

「死よ、お前のとげは、お前の勝利はどこにあるのか」(パウロ)

福音派の人

福音系の人との他流スパーリング。改宗のさせ合いや白黒付けることを目的とせずに、互いの信条への理解を深め合うことほど面白いものはない。

過去のWT解釈に帰依していた(一応)頃からそんなスタンスだったので、WT解釈と一通りやり合ってみないか?みたいなノリでオファーすると、研究を取り決めることができた

この夫婦、プレ・ミレとラプチャー(再臨前携挙)を信じるコアな福音派の方たちです。今ではなぜかWT統治体もほとんど同じことを言い出している。

前にも書きましたが、彼らはWTとは少し違うが「地的希望」も持っていた。

→ 自分たちがハルマゲ前にラプチャーされる
→ 今ある天と地は滅びのために留め置かれている
→ ニューアースが作られる
→ そこには義が宿る
→ 真の土台を持つ都市、上なるエルサレムが下るとき自分たちもその地に戻る

・・という流れ。

面白かったのは、地から取られて王また祭司として支配する(元?)人間たちが14万4千人である、というWT解釈のくだり。彼らはカテゴリーとしてはWTと同じ逐語霊感説なので、聖書に14万4千人と書いてあるのを見せるとあっさり認めた。

え、そんなあっさり認めるのか、というぬか喜びも束の間、次の瞬間には脱力。

「14万4千人か、過去の偉人からだれが選ばれるのか楽しみだな~、ガンジーはきっと選ばれるよね、歴代のダライ・ラマからも何人か選ばれるんじゃないかな」

→ おい待てブラザー、彼らはChristianじゃないよね?

「でも決めるのは僕らじゃない、ジーザスだろう(→正論)。ジーザスだったら、クリスチャンに限らず治めるに相応しい偉人たちを選んでくれると思うな~。決めるのは僕らじゃないけど、こんな人が選ばれたらいいなとトークするのは何も悪くないと思うよ(→正論)」

面白いのは、歴代のローマ教皇から何人か、というのは福音系の人には論外として、ルターやカルヴァンよりも先にガンジーやダライ・ラマの名が出てきたこと。

まあ、ひたすらジーザスのみを信じる福音派らしい。キリストは信じるし、キリストには支配されたいが、同じキリスト教徒には支配されたくないという・・それが、キリスト教史が残した教訓なのかもしれない。キリストの教えとは他者を支配する力や精神とは無縁なもので、人の上に立って治める徳や力量はクリスチャンの信仰とは関係ない、ということか。

WT協会も大昔のキリスト教の悪しき面をさらに劣化させるばかりで、権威だの破門だの審問だの服従を要求するしか能が無い。言うこときかないヤツはいずれ“神”が殺処分することが前提の、WT協会の統治ゴッコやWT長老マネジメントなんて身内にしか通じないよ。

歴代のWT統治体から何人か、というのはやめてほしいが・・ラザフォードとノアとモリスとレットの4人だけはまじで勘弁してください(笑)。

あ、レイ・フランズの復職は是非お願いします(もとから外れてないか)。

命を託す

『あなたが命に関わる病気で手術を必要とするとしたら,どうでしょう。担当の外科医の腕 を信じて頼りたいと思うのではないでしょうか。自分の命をその医師に託すことになるからです。そのような場合,医師の経歴を考慮するのは賢明なことでしょう。

同様に,宗教をよく吟味するのは賢明なことです。何かの宗教団体に属している人は,事実上,神との関係における自分の命をその団体に託しているのであり,救われるかどうかもそれによって決まるからです』
(も塔2013年7月)

え!?

言ってることは基本変わってないが、宗教団体に属している人は自分の命をその団体に託している、救われるかどうかも団体のチョイスで決まる、とまで言い切るのはすごい。

そこは決めていいのか。ヒツジとヤギは一人ずつ分けられるような。

宗教団体のチョイスが、外科医のチョイスと同じとは知らなかった。

キリストを信じて頼りたい、というのがキリスト教だと思ってたが。

統治体の組織マネジメントと聖書解釈のウデを信じて頼るのがWT信者ということか。

生き死にの手術を受ける人は医師に命を託す、というのは間違っていないが、医師や病院は医療ミスが起きたらしっかり責任取らされる。無条件で託すのとは違う。人間だもの。

教会に行く人も、その教会とそこの牧師さんに命を託しに行くのかな。

ハルマゲと排斥の脅しですべてを託した人に無条件の服従を要求しながら、預言解釈ミスで人生や家族を棒に振っても、何の責任も取らない悪質な宗教団体もあるみたいですが。


宗教団体に属する者はその団体に命を託すことになる、と言う団体こそ警戒されますよ。

だからそれ、何度も言うけどカルトの条件だから。

今のところリアル生死に関わるのは輸血拒否解釈くらいか。体内に取り入れてもよい「主要」成分か「分画」成分か・・統治体の線引きに自分と家族の命を託すWT信者。

そろそろ冗談じゃ済まなくなるような奇妙で異例な指示がでるかもね。

でも医師の経歴を調べるように、宗教団体についても過去にどんなことをやってきたのか、その団体の自画自賛サイトだけでなく、経験者や第三者からの評判や情報をきっちり調べるのはいいことです。そこは同意します。

生きた人間

自称指導者への無条件の献身・・
そんなこと言ったらキリストは自称指導者ではないのか、という人もいると思います。

WT的に反論すると、イエスは自称指導者なんかじゃない、メシアについての旧約の予言はすべてイエスに成就した、イエスは真にメシアである神の子なり、ということでしょう(旧約の予言が“証明”しているという、旧約側を主な論拠とする手法はWTが好む)。それは神性についての議論を抜きにすればキリスト教でも同じだと思います。

でもキリスト教が真の宗教「かどうか」ではなく、カルト「かどうか」に限定するならポイントはそこじゃないと思います。

その人が自称指導者かどうかは主観・・信じる「かどうか」の問題です。

どんなに自分がそう思う“証拠”を積み重ねた所で、そう思わない人もいます。
それは必然の対立で、地球が丸い「かどうか」のように収束する議論ではない(多分)。

だからWT信者も、「自称指導者への無条件の服従」がカルトの条件だということは知っている、そのことで他宗教を非難することもあるが、自分たちだけは違う、自分の指導者たち=指導の任にあたる人たち=統治体・・は自称指導者じゃない、本当に神に選ばれ用いられている、と信じている。自称「かどうか」を証拠に基づいてジャッジすることが大事だ、という論点にすり替えてしまう。

繰り返しますが、ポイントはそこじゃないと思います。

WTが過去に言及したカルトの条件には、もう1つの要素があります。

生きた人間に従う。その人間は神に選ばれたと主張してはばからない』

キリスト教そのものが、キリストが真に神の子なの「かどうか」という議論を抜きに、カルトではない理由はざっと考えて2つあると思います(素人の大雑把な考察です)。

⇒ イエス本人は「キリスト教」ができる前に死んだ

⇒ キリスト教は書物宗教である

書物宗教の利点は「書いたことは変えようがない」ことです。写本初期の加筆がどうの、翻訳で改変がどうの、という話は別にして今から原文(とされるもの)を変えるのはまず不可能です。

キリスト教含めどの宗教でもカルト化するのは、神やキリストの権威を全面的に代表すると自称する生きた人間が、「書かれている事柄」を意のままに解釈し、神的権威を主張して命令を下し、その指示や命令に対する無条件の服従を要求し始める時です。

某カルトも名前を変え、教祖をまだ神格視しているらしいが、その生きた人間(まだ執行されてないんでしたっけ?)とのリアルタイムの指示命令経路が断たれている限り、以前ほどの危険はないと思います。どの宗教でも危ないのは、生きた人間の誰かが神や初代教祖の生まれ変わりだの後継者だのと称して強力なリーダーシップを取り始める場合です。

信者たちはウチの指導者様に限っては自称じゃない、紛れもなく神に選ばれている“証拠”がある、と思い込んでいるが、ポイントはそういう水掛け論じゃないし、そこに例外はない、それが聖書の教えでもあると思います。

『高貴な者にも,地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない』
(詩篇146編、新世界訳)

カルトの条件

WT教材によれば、上からの知恵である「道理にかなう」とは「進んで譲る」ことらしい。

WT信者にとって「絶対に譲れないもの」とは何か。

⇒ 古ヘブライyhwhのローカル言語での発声・翻字の使用(正確でなくてよい)

⇒ 進化論の否定(人格的創造神への信仰)

⇒ 聖書の逐語的無謬性

⇒「エホバの証人」という宗教組織の神的権威としての唯一性

他にもあるかも知れないが、数分考えてざっと思いつくのがこれくらい。

この中で最も弊害があるのはどれか、と考えるとダントツで最後の命題だと思います。
WT自らが過去に言及したカルトの条件の1つだからです。

「神に選ばれたと主張する自称指導者(たち)に対する無条件で排他的な献身」

それ以外の3つを主張するのも今では少数派ですが、少数者の信仰すべてが自動的にカルトなのではなく(利用されることは多い)、やはり上記の要素・・自称指導者への無条件の服従、が主な条件の1つだという点では過去のWTに同意します。

ただ複雑なのは、児童虐待隠蔽だろうが、預言解釈の度重なる失敗だろうが、すべてを「不完全さ」で自己処理して、そんなことよりも前者3つを組織として1つも欠けることなく頑なに守っている少数者であることを「真の宗教」の証し ⇒ 最後の命題の根拠とする人もいる。

その場合、前者3つの議論を避けて通れなくなるが大抵平行線になる。このブログでもその3つに幾らか立ち入ってはいますが、大多数の人が客観的証拠に基づいて否定することを頑なに信じる少数者である、という高揚感が彼らを支えている。

だから、前者3つ(他にもあるかもしれないが)の否定が最後の命題からの解放に繋がる人もいれば、別のアプローチから最後の命題を否定するようになっても、前者3つ(またはその内の1つか2つ)は強く信じ続けている、つまり最後の命題の否定が前者3つの否定に拠らないという人もいる。

そこで、周期的に荒れる。


別にWT批判が一致する必要もないし、血の通った意見をぶつけ合えるのもいいと思いますが(最低限のマナーは必要にしても)、主に批評すべきは最後の命題である、という点ではある程度、共通の認識があってもいいのかなと思うこともあります。

それでこのブログでは、WT商標付き人格神やWT逐語解釈を、WT支配が生み出す弊害と関連付けることはありますが、創造説や聖書の霊感説そのものは否定しない方向性で書いています。

この方向性が絶対に正しいと言うつもりもありませんが・・


絶対に守るべき、譲れない信念があるのはいいとして、巧妙な論点のすり替えで信者をゆでガエルにして、自分が守ろうとしているものが本当は何なのかを本人にさえ分からなくさせているのが最近のWT支配です。今や「神の王国の宣伝」が、ウェブサイトやロゴマークの宣伝にすり替わっても何も感じないという・・ 

和解の務

ということで今の自分には、本来のキリスト者とは仲裁する人、というイメージです。

『主の奴隷は言い争う必要はありません』(パウロ)

彼が言及した和解の務・・直接には神との和解のことだが、キリストを受け入れる人は無条件で他者をも受容するので言い争う必要がなくなる。

何かの「神」を信じているという告白や、その「神」に要求されている(と誰かが主張する)活動や犠牲に拠らず、人と和解するなら神と和解している(と勝手に思う)。

『あなた方が人の罪過を許すなら,あなた方の天の父もあなた方を許してくださるのです。 けれども,あなた方が人の罪過を許さないなら,あなた方の父もあなた方の罪過を許されないでしょう』

キリストが全世界の罪を負う犠牲になったというのなら、人(他者)の罪過を許す他に、罪にまみれた人間に何の条件があるというのか。順番を逆にしてはいけない。

『祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい』

人と和解することは「神をなだめる」宗教儀式に優先されるという・・自分の宗教活動をしたいなら構わないが、その前に考えること、優先することがあるだろうよと。

宗教戒律の実践を優先して反感を抱かせ、何を言われようが信教の自由や権利やらを盾に自己正当化してもっと反感を煽れ、排斥忌避という懲罰で人間関係を破壊して、まず我々の「神」と和解せよ、そうすればあなたの罪過も許して口をきいてやる、という順番は聖書の教えなのか。


かの実を食べてより、善悪と正誤の主張を巡る「かどうか」の言い争いに終わりはない。

そのどちらかに与して強く意見を主張することなく、ひたすら仲裁する人。
(強く意見を主張する“自由”を弾圧することを意味しない)

「和解を呼びかける(中立の)大使」とは、そこで意味を持つことだと思う。

ただの机上の理想論ですが、キリスト教とは宗教戒律や教義解釈の白黒じゃなく、そういう「夢」を伝える場所であってほしいとは思いますね。「どっちか」の側につきたがる、つかせたがる己(の意見や信条)を無にして和解を呼びかける・・そこまで滅私できる人いるのかな。

このブログはまだまだ「強く意見を主張する」側でいきます(笑)。

エホバの証人のような団体も無条件で受容してあげることが社会の寛容度を計るバロメーターになる、という人もいますが、聖書や宗教を信じている、その教えを実践していると主張する側が一方的に許され、受容され、尊重されることによって成り立つ関係とは・・皮肉ですね。

神の夢

ISがイスラム教徒「かどうか」を一人ずつ言わせて射殺する。

WTの神はハルマゲでエホバの証人「かどうか」で一人ずつ選別する。

それが人ではなく、器が小さかろうが造物主(デミウルゴス)なら文句は言えないが、そんな“神”に支配されて生き永らえたくもない、という人もいると思います。

でもひょっとすると、巨大水槽感覚で多様な海洋生物を造って美しい眺めを鑑賞していたら、陸に上がったばかりか(神にとっては)「わずか数日」で自分と似たような形態に進化して、自意識まで芽生えてわがまま言うようになり手を焼いているのは造物主の方かもしれない。時々、収拾つかなくなって選別すれば一方的だ!残酷だ!と文句を言われてしまう。

少し大げさですが、それに近い雰囲気を元COE大主教のツツ氏の著作に感じます。神を理屈抜きで身近に(人に近いレベルで)、または人を神に近いレベルで捉えている。

わたしたちはみな、神の子であり、神は夢を持っている。

多様な生物を創造して鑑賞していることもできたが、神は相当の覚悟で自分と同じ像をしたヒトを造った。進化論的に言うなら「神はそののかたちに似たものとする(似たものに進化する)ようあらかじめ定めた」・・善悪の知と選択する意思を持つに至ったヒトを排除しなかった。

かの実を手にしたヒトを「食べたその日」に殺さなかった。

「しかし地はというと、神はこれを人の子らにお与えになった」

その美しい世界がやがて私利私欲と善悪の争いで汚されるであろうことも、自分が非難されるどころか、もう自分などいないと思われることも覚悟の上で。

それでも神は夢を持っている。子らに委ねた世界がいつか美しい場所になるという。

どの「神」を信じるかで分裂するよりも、まず互いの善意を信じる世になるようにと。


『上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人々の間にあるように』

自分はいるよ、人の子を好きで(愛して)いるよ、自分と子が一つであるように、子たちも一つになる夢をもっているよ、という「ことば」として子を遣わした。これが、あなたたちをそれに似せて造った、オリジナルの=モノゲネースなだよと。

ユードキアの訳し方ですが、WT的に解釈すると「自分たちの神」に喜ばれる、その御心にかなう人(新共同訳)= JW信者の間だけが平和であればいいとなってしまう。神の善意や好意を勝手に限定してはいけないと思います。


神はかれを遣わす。すなわち、永遠の、堕落しなかった世界の、われわれには未知の、初めと終わりの世界の国から遣わす。したがってかれは「生まれたのであって、造られたのではなく」(われわれが被造物として知っているすべてのものとは反対に)、したがって「処女マリアから生まれ」(人類と自然と歴史というわれわれの知っている体系の僭越な永遠性に対する抗議として)、したがってかれは「真の神であり、真の人間」(神と人間との根源的な、失われてしまったが、失われてはならない一致の証拠として)なのである。神はかれを遣わす。すなわち、そのかれをこの時間的な、堕落した、分かりすぎるくらい分かっているわれわれの世界の中に・・つまり、この肉の中に遣わす。神はかれを遣わす。それはここで何かを変化させるためではなく、肉を道徳によって改善するためでも、芸術によって美化するためでも、学問によって合理化するためでも、宗教という蜃気楼によって高めるためでもなくて、神が神の似像において存在するものとして自分を認識するその新しい人間、そして人間が神において自分の原像という形で存在するものとして自分自身を認識するその新しい人間を神が宣べ伝えるため、また、神はすでに勝利したのだから改めて勝利する必要がないような新しい世界、そこにおいては、神は他の或物ではなくて、すべてのものの内のすべてのものである新しい世界を宣べ伝えるため、また、創造者と被造物とが二つの別の物ではなくて一体となっている新しい創造を宣べ伝えるためである』
(カール・バルト:赤字の部分は日本語原文では傍点で強調)


・・それとも、どうせ上手くいかないと決めつけて、これ以上はお前らに文句は言わせないと、大虐殺の前に自分の正しさを“証明”する判例作りに放置している造物主なのか。


カール・バルトの三一理解て様態論ぽくね、と神学マニアに言われそうな箇所ですが、そういうくだらない議論は好きな人が好きなだけやればいいでしょう。

神の名⑬

パウロはユダヤ人の神でもギリシャ人の神でもない、「わたしたちの父なる神と主なるキリスト」という表現を書簡冒頭で一貫して使っている。

そこも「父なるえほば」から改ざんされてるのかな。


ヘブライズムの神(ユダヤ人の神)・・感情を顕わにする、人と交渉を持つ人格神

ヘレニズムの神(ギリシャ人の神)・・霊的で超越する神、知られざる至高神、原父


そのどちらでもあり、どちらでもない、本来は超越する、否定的にしか知られえない不可知の神が、キリストにおいて不可知でなく、肯定的、直接的、知覚的でさえある。新約の「父」は「子」がいる時だけ何回か超然的な声を聞かせただけで、「子」以外の誰とも直接交渉は持っていない。

『今この時まで、あなた方は何一つわたしの名によって求めたことはありません』


パウロはユダヤ人の神とギリシャ人の神に区別や優劣をつけていないし、使徒17章に代表される彼の神観を引き継いだ初期教父たちもそうです。ローマ市民であり、ユダヤ教出身者でもあったパウロは、父なる神の救いの代理者、ただ一人の「主」とその「名」を広めることに生涯を懸けた。

神は人の手で作った神殿などには住まない、神はそうした無知の時代を見過ごしてきた(これをユダヤ人に言えば、ユダヤ教へのアンチテーゼと受け取られただろう)とギリシャ人には宣言する一方で、ユダヤ人信者側から反感を抱かれると、その求めに応じて再び神殿で儀式を行なっている。

彼は自分の言葉通り、ユダヤ人にはユダヤ人のように、律法にある人には律法にある者のように、律法にない人には律法にない者のように語り、振る舞った。

その信念はWT勧誘トークの小手先テクニックではなく、もっと本質的なものだ。

ささいな宗教起源をぶよのように濃し取り、異教だ妥協だと騒ぐ人とは対照的です。


ユダヤ人の神かギリシャ人の神か、旧約の神か新約のイエスか、自由か原理か、啓示か理性か、史的か霊的か、進化か創造か、そもそも神を信じるか信じないか・・

あらゆる対立や区別という二者択一の彼岸(圏外)にある真理・・それを突き詰めるとWT協会どころかキリスト教自体が脱構築されてしまうが、一切が相対化して離散するのを繋ぎ止める楔、「天と地にあるもの」を再び集める神の管理(エフェソス1章)における最後のアダム・・

それが、パウロが広めたキリスト(教)なのではないかと思います。


『そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです』(新共同訳:コロサイの信徒への手紙3章)
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