根源の罪

本題ですが、この木を生えさせた時点で必然だった説。

予定説ぽいが、予知がどうこう関係なく遅かれ早かれ必然だよねという。
そういう意味でエバが人類最初の宗教的存在(の象徴)として“描かれて”いる説。

用心深い蛇と目が合ったとき、無垢な彼女に自分も神のようになりたいと唆す?もの・・
発声器官を持たない蛇の“声”の如く、彼女の内に初めて響く抵抗する声。

神から食べるなと言われた実を、慕わしい(食べてもいい)と知った刹那。

「罪はおきてを通して誘いを受ける」
「貪ってはならない、というおきてがなければわたしは貪欲を知らなかった」
(パウロ)

「ポルノは見るな、ペッティングもダメ」という、全信者向けのも塔記事に書かれるおきてを通して、初めてポルノやペッティングなるものを知るJW集会の無垢な幼子たち。

おきてがなくても罪は罪だが、おきては罪を誘い、罪を知らしめる。

でもこの実の場合、WT洞察は「食べるな」というおきてがなければただの木の実だった可能性を採用する。その場合、おきてがなければ、神がダメだと言わなければ罪が成立しない。

だからまず触れたのは、設定通り(予定通り?)食べるなと言われた実の方だ。

それが原罪なら、初めのおきてがなければ成立しなかった、初めの、根源の罪。パウロが言及した人の内に宿る抗しえない支配、反転させれば支配に抵抗する対の支配。

それを受け継いでいる・・「一人の人を通して罪と死が入った」のも象徴的な言い回し、つまり人の子だから人というだけで、彼らの実在的な行為が何かの物理的な欠陥を生じさせたのではなく(人間はホームベーカリーで焼いたパンじゃない)、生物学的には哺乳類の延長であるヒトが、自体的に神に似た被造性が、自覚的に神のようになったその初め、初めのおきてが知らしめた神に相対する善悪の知。

もうそれ自体が激しく罪、自由という無限の可能性を伴う、絶望的な隔絶を生む罪。WTが都合よく使う“不完全”という生易しい言い訳ではなく、その単語も聖書で見た記憶はない。

銀河鉄道999のように、よく分からない何かのメカニズム的な欠陥を他力で修理してもらえれば、だれもが100%善人になり、永久に機能する物理的肉体が手に入ると思っている。


二人の目は開け、他の動物を見ながら意識しなかった恥辱、己は裸であるとも知った。

その代償として描かれる、地(自然)の呪いと増された妊娠の苦痛(それはだれも選べない)。


今も続くのが「おきて」による宗教敬虔の競争。それが罪を誘っていると知らずに、さらなるおきてを張り巡らして抑制しようとする悪循環。要求と支配のために強迫観念として利用される神、信者の私生活をコントロールするためにダメ押しの恫喝手段として利用される対の悪魔。

このおきてを実践すれば、このおきての解釈はこうだ、このおきては現代ではこう守るべき、に終始するおきて解釈人間の行き着く先がパリサイ主義であり、同じ道を辿る、も塔パリサイ協会です。
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禁断の果実

禁断の果実というあまりに有名な話に定説はないようです。

キリスト教(新約)では一人の人を通して罪と死が入ったという原罪解釈ですが、その原罪についての一律の定義も存在しない(はず)。聖書は教科書のような公理集でもないので、史的背景ならともかく、教理として「これ1冊でまる分かり聖書」という参考書が書ける本でもない。

原罪の話に戻すと、全能神が予知しなかったのかと騒ぐ人、自由(意思)こそ絶対(正義)という英米思想で自己完結する人、神が悪魔の挑戦を受けたのだという人、性行為を初めとする欲望の象徴という人・・聖書はキリスト教以外の人も解釈する自由はある?ので、いろいろです。

何を言っても結論が出る話でもないが、最近知った一つの説を書いてみます。

誰かが何かを言えば必ず反論が生じる・・それは必然の対立です。

そういう善悪や正誤の主張が対立する根源がこの話に帰結するから。

だからこの話についての解釈も一致しない。

うん、これが唯一正しい解釈だね。他はみんな偽りだから、これからは唯一正しいこの解釈以外のことは考えても話してもダメだと決めようね。殺処分するぞ。

そんな脅しでプログラムできるロボットなら初めから食べないよね・・という話 ⇒ という解釈。

すると、唯一正しい解釈はない(決定できない)というお前の講釈は“正しい”のか?⇒ それも決定できません(以下続く)・・というループ状態。

たとえば自由意思が何とか仰る人。

2人が実を食べずに産めよ増えよでその子孫が何十億人になっても、誰一人としてその実に手を触れない世界って・・オメラスのような気持ち悪い理想郷か。

遅かれ早かれ誰かが触れた瞬間、世界が崩壊しますね。

それが未来永劫、絶対に起きないロボットで埋め尽くされる世界が見たかったのかな・・または触ったやつは欠陥品として即刻処分、いなかったことにされる世界 ⇒ ものみの楽園。

良識的な法律にギリ違反しない宗教制裁(排斥忌避)しかできない現代とは違い、旧約の如く戒律違反者は神の名により死刑、某国みたく存在記録自体の抹消とか普通にやると思われ。


今でも排斥された人は集会に来ても空気になりますからね。


キリストは何のために全世界の罪(エゴ)を丸ごと背負って磔にされたのか・・人類を大虐殺することで判例を作り、後は1人ずつ処刑する神の権利なるものを立証する“法的根拠”か。

その上に成り立つとは恐ろしい救いだ。

至高の神

“自分の神”が至高であってほしい、というのは旧約に引きずられるWT疑似ユダヤ神観のコアな部分です。私を見たなら父を見たというキリストを、唯一神yhwhの許すまじ冒涜者として磔にした彼らの末裔がその死を記念するという・・たしかに記念だが、潜在的に良心が痛いからだれもパンとワインには手を付けないのかな。


自分的にはWT史上最悪の教材「エホバに近づきなさい」で親子の写真で説明されているが、自分のパパが世界最高!と思い込む子どもに似ていて、それだけなら微笑ましいと思います。

子ども相手に、そんなはずねぇだろ、早く現実に気づけ、と意地悪く言ってもつたない反論をしてくるだけです。自分の理想に描く最高のパパが大好きなんです。それは幼いながらもその子の思いの真実なので、大切にしてあげないといけません。

一昔前は子どもが父親自慢をしあうことも。職業自慢、役職自慢、特技自慢、外見自慢とか、自分んちのパパの方がすごいんだぞと分かり易く話を盛る子もいた。

その程度ならかわいいですが、よそのパパはみんな悪者だから早く縁切ってうちのパパの養子にならないと、パパがそのうちみんなまとめて殺すぞと言い出すと、異常な偏愛です。


旧約は、単純に善なる神様の物語として万人が読めるような生易しい本でもないので、ユダヤ人のルーツや宗教観、旧約がユダヤ教聖典からキリスト教正典として確立する過程について多少は知って読まないとおそろしい本になる。

自分もすべてを理解したとは言い難いし、語学や神学知識なしでは聖書を読めない中世の歴史がよかったというつもりはないが日本人がありのままに読むと刺激が強い。今も指導を受けずに旧約を読むことには慎重な姿勢を取る教会もあるらしい。

順番通り創世記から読んでしまい、途中で気持ち悪くなって読むのをやめた、子どもにも絶対に読ませたくないと、それ以来二度と聖書に触れていない、という人がいた。

アブラハムに子を殺せとか、エジプトの子どもが皆殺しにされるとか、モーセが問答無用でyhwhに殺されかかり、妻がとっさに包皮を切り取ってその血を足に塗って容赦されたとか、そりゃ意味分からんし、現代人が気持ち悪くなるのも分かります。


好きな場所から都合よく字句をチョイスすればいいという本でもないのに、その偏った引用だけで“最高のパパ”のイメージを植え付けるのが「近づきなさい」という教材です。

この本を書いた人間が陶器師で、“彼らの神”がその器、これこそ唯一無二の最高傑作だと。

30歩くらい引いた所から取捨選択すれば面白い部分もそれなりにあるが、初めて読んだ時はWTソース以外の知識もなくストレートに読んじゃったので、こんなに最高で、素晴らしい神だぞ、そう思え、さあ仕えろ、賛美しろ、と思考と感情が強制的に乖離させられるような、それまでにはなかった違和感があった。これを読んだあたりから醒める気配はあったかもしれません。


仮にイメージ(像)でも、その人なりに神を思う個々の信仰を批判しません。自分が危惧するのは、その純粋さにつけ込むWT協会の支配、要求、裁きを正当化するために形作られる“至高の神”です。この本を読んだ時にしたヤな予感が現実のものになりつつある。

人格攻撃

都合の悪い物事の正邪を指摘されると、人格攻撃にすり替える。

も協会と、彼らに魂を奪われた者の常套手段です。

「神の差配」の記事でも書いたが、ウザが裁かれた理由がよく分からないなど、聖書でも都合の悪い記述が指摘されると、ウザの人格攻撃をやり出す。ウザを弁護する訳ではないが、それが真正に神の裁きというなら理由如何に関わらず神の差配なので、聖書に一言も書いてない彼の人格までわざわざ邪推して攻撃する必要もない。

も協会が都合の悪い人間を排除する、排除された人の評判を貶める手法も同じで、理由は分からない、公表もされない、でも神の組織が排除した以上は「悪い人間」に違いないという刷り込み。

元の問題が何だったのかはうやむやにする、私たちにはよく分からないのです、エホバ様はすべてをご存知なのです、と問題をすり替える、複数人でしたたかに穏やかに挑発し、反論したという事実やその態度のみで人格に問題アリとして裁く、一方的主観で「厚顔無恥である」と排除できる。も協会の義と、彼らの義に冒された者たちには、その裁きは正当なものです。


「言葉が乱暴」(ヨブ6章2節)になるのをしたり顔で咎め立てる義人たち。

聖書は「罵りの言葉」を非としてはいる。

だからどんなに汚い言い回しを使ってもいいとは思わない。

でも聖書には、生身の感情を持つ人間が書いた、怒り、失望、悲嘆をストレートに表現した言葉が含まれている。そういう生身の人間が本音を書いたから共感できると教えてるよね。

穢れなき天使が書いたような神々しい、ひたすら清らかな散文ではない。


作り笑いとご丁寧な言葉遣いを絶やさないことを新しい人格という。

天使の仮面をつけた、“模範的”で陰湿なWT聖人による支配。

都合の悪い不義は神の名により隠蔽され、虐げられた者、それを知ってしまった者には “神”の是認を失いたくなければひたすら黙して耐えろという。

そこに、も塔パリサイ協会の義は満ち溢れても、神の義は宿らない。

WT訓練②

「ふさわしいかどうかを試せ」・・WT訓練の根幹にある字句。

イエスの教えではないし、WT協会の雇われ上司たちはこれを陰湿に運用する。

今回の記事が示すように、彼らは人を全く信用せず、人ではなく業(行為)を評価する。

だから「やらせ方」の方法論に終始する。聖書の数々の逸話をその観点で汚してしまう。

洗礼も、破門からの復帰、役職への登用・再登用も、数か月間から数年間、「何かをやっている」ところを見せ続けないと信用しない。「やっているかどうか」を執拗にチェックする。

イエスは自分を見捨てたペテロに、しかも普通に漁師の仕事に戻っていた時に再び現れ、その場で「自分の羊を養うように」との務めを託した。サウロの召命も同じで、何ヶ月か何年か、何かをやらせてそれを評価した訳ではない。

人は無条件に愛され、信頼されて力を発揮する、それが本来のキリスト教・・のはず。

ペテロは行為としては自分の主(あるじ)を裏切ったが、本当はイエスをとてつもなく愛していて、イエスもそれを知っていると確信していた。その痛みが強さにもなる。

「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(イエス)

サウロも行為としては主の兄弟を迫害していたのに、「月足らずで生まれた」ような自分に過分の憐れみが示されたことにとてつもない負い目を感じていた。だからパウロは業に富むようになっても、業による義認を徹底的に否定した。

彼は自分を「すべての者の最後」であり、「負い目のある者」と評した。

最も弱く、罪深いときに憐れみを示され、信頼された人たちがキリストを広めた。



WT訓練はただの論功行賞だ。

上にいる人間の顔色を伺って実績を作った強者に与えられる立場。

口ではへつらいの言葉を出すが、その“特権”は自分で勝ち取ったもの。

彼らの閉鎖的階級制度は、組織的ユダヤ教に邁進していたサウロのように、「同年輩の多くの者たちにまさって」先んじようとする人間という実を生み出してきた。

彼らに負い目などない。

自分たちは律法(聖書)の解釈と実践において他者より進んでいて、自分と同じ土俵やレベルで律法を知らない・守らない者たちは「呪われた者」という意識が根底にあり、この組織ではランクが上に行けば行くほど、その意識も強くなる。

人が最も弱いときに追い打ちをかけ、人格さえ否定し、すべてを奪い去る。

それが彼らの言う聖霊による任命と裁きのすべてです。

イエスのように心は読めない、だから業や数字で評価するのも仕方がない、というなら「聖霊による任命」という言葉を軽々しく使わない方がいいよね。

WT訓練

先週までのも塔・・

WT長老が若手を訓練しないのはなぜか。

この記事が言うような自己保身もあるのかもしれないが、まず拒否られるからです。

今どき、いいように使い捨てられることが分かっている、時代錯誤のWT訓練にホイホイ応じるのは目先の特権大好き勘違い2世くらいだが、こんな記事が出るということは、そんな2世3世もどの場所でも減っているようで。

親が“霊的な”目標を持つよう教育していないからだ、と相変わらずの責任転嫁報告。

若手にやる気を出させる方法?

まずお友だちになりましょう☆と言っているが、こんな記事や巡回さんに言われてから老害長老に擦り寄ってこられても気色悪くて萎えるだけだよね。

友になるというのは指示されて、提案されてする・できることじゃない。そんな小学校の道徳のお時間で倣うようなこと、いい年したおじさんたちが今さら公開指導される内容なのかな。


簡単な方法がありますよ。

還暦以上の老害権力長老はさっさと引退しましょう。

そして偉そうにやらせていた雑用を自分たちでやることです。できるならね。

雑用をやらせる、その態度を舐めるように眺め回す、細かい事に口を挟む、その時の態度も上から評価して巡回にこっそり辛口報告・・そんなイエスの教えとは真逆の「訓練」が行き詰っているのに、まだこんな記事を悠長に書いている。


数ヶ月前、震災復興が他より進んでいるという地域があり、その理由が「還暦以上は口出すな」という方針にあるという話を聞いた。これを町の長老である会長自ら号令したらしい。

企業でも数十人のごぼう抜き人事など世代交代が加速しているが、世には迎合しない、聖書的な方法じゃない、でも結局は何歩も遅れて迎合するが、笑えるくらい遅くて鈍い。

巡回を定年制にしたら70歳とか、調整者は80歳までとかね・・

求め続ける

聖書は人をハッピーにするどころか悲しませる。

ハッピーという主観的な感情と、聖書の幸い=恵まれた状態は同じではないと思います。

聖書を貫くのも、創造性と被造性の断絶、必然的な死の宣告に始まり、ユダヤ人の背反と離散、ヨブの絶望、ダビデの罪と苦悩、神に見捨てられたキリストの呻きと死、そのキリストを見捨てたペテロの慟哭、惨めな人間だと告白するパウロ、流刑にされた老人による終末の黙示・・

原罪だの裁きの日だの、そんなの知らなくても実存的には十分幸せになれる。むしろ強迫観念を煽って信者をコントロールする傾向が強いカルト的なメッセージは気が滅入る。

だれもが宗教的である必要はないと思います、自分含め。

探し続けること、問い続けること、それ自体が宗教(的)だとよく言われます。

求め続けよ、叩き続けよ、という教えは聖書にもある。

もう探すことはないと止まるのではなく、求め続ければ、また少し与えられる。キリスト教の場合、道はどれなんだ?という道探しや団体探しではなく、「道」を歩き続けること。

『多くの人は,答えを探す努力をやめてしまいました。なぜでしょうか。質問の答えは聖書にないのでしょうか。答えは難しすぎると思う人もいれば,質問するときまりの悪い思いをするのではないか,と心配する人もいます。そういう質問は宗教の指導者や教師に任せておくのが一番,という見方もあります。あなたはどう思われますか』(WT発行:聖書は実際に何を教えていますか)

断片的な聖句だけで聖書の教えは「分かった」つもりにされ、まだ分からないことは教団の指導者に任せておくのが一番、と自分で問うのをやめてしまったのはどっちなんだろう。

迂闊な質問をするときまりの悪い思いどころじゃ済まさない団体がよく書くよね。

嘆き悲しむことが恵まれた状態に至らせるのはなぜか。

神は打ち砕かれた霊を蔑まず(詩篇)、その霊がことばにならない呻きと共にわたしたちのために願い出てくれる(パウロ)と聖書にはあります。

ということは、聖書だの罪だの意に介さず、自由気ままにハッピーに生きる人間は地獄に堕ちるか、ハルマゲで殺されるのかな。仏教キリスト教問わずカルトが好きそうな言葉です。

どっちも聖書にそれらしきことは書いてあるが、キリストが人類の隠れた事柄を裁くとしても、それは人が借用して人に口にしていい言葉なんですかね。

信じる側の役割は、特定の団体に改宗する者だけが救われる、不信心者の人生など無意味で哀れだ、どうせハルマゲで殺される・・なんかヤなことを広めて回るものではないと願いたい。

ある司祭が強硬な進化論者から神などいない理由を延々と聞かされ、何か反論があるかと言われたところ、穏やかにこう答えたという。

「それは構わないよ。神は君を信じているのだから」

キリスト教も過去を省みながら常に変化の途上にあるようです。創造や神を信じるかどうかを議論するより、まず目の前にいる人の善意や良識を信じること、そこに宗教が果たす役割ではWT協会は相当遅れている、というか逆行しているのかもしれない。

不条理ゆえに

それがいいか悪いかは別にしてWTは字句的(肉的)解釈を優先させる。

聖書に含まれる数々の矛盾を、自分たちのフレームとなる解釈に合わせて、どっちかを字句通り、他方は字句通りじゃない、と合理的に使い分ける。両方を組み合わせているようで、自分たちに都合がいい字義解釈側に最も権威があると考えるので、それと合わない字句は比喩で片付ける。

一例を挙げると、啓示に出てくる「14万4千人」という数の字義的解釈が何よりも優先するので、「24人の長老」の方はそれ象徴数だから、という感じです。

それだけなら大したことないが、イエスがこの言葉を誰に対して語ったとか、イエスのたとえ話のこの登場人物は誰を表すとか、パウロの言葉は誰にあてはまるかとか、ヨハネ啓示にちょろっとしか出てこない、この「14万4千人」の字義的解釈に合わせてWT教理の大部分が作られている。

そういう文字や数字レベルでのつじつま合わせに拠らない、聖書や神の、より高次の「一体性」を模索したのが初期教父たちで、現在のキリスト教信仰にも受け継がれているようです。

ことば上は矛盾や不可解さがあることを別にムキになって否定しない。

たとえば、WTも新約各書の正典性を裏付けるのによく名前を挙げるテルトゥリアヌス。

言葉としてはトリニタス(三一)を最初に使ったラテン語教父ですよ。いいのかな。

「不条理ゆえに我信ず」という言葉でも知られる。

『テルトゥリアヌスは、その逆説的な、つまり一見矛盾しているように思える命題で最もよく知られていた、と言えるかもしれません。例えば、「神は小なればこそ、なおのこと偉大な方である」「神のみ子の死は不条理なるがゆえに、まさしく信じてしかるべきである」「イエスは葬られ、再び立ち上がられた。これは不可能であるがゆえに、確かな事実である」といった命題があります』
(も塔2002年5月15日号)

自己矛盾する言説を丸ごと受容する・・聖書にはそういう逆説的な言い回しは結構ある。

人の子なのに処女から生まれたとか、嘆き悲しむ人なのに幸いとか、生まれたのに初めからいるとか、子を見たのに父を見たとか、神なのに神と共にいたとか、そういう類のことです。

十字架が死刑具なのに崇敬の対象になるのも似ている。普通に理性で考えれば、WTが騒ぐまでもなく自分が敬愛する、しかも無実の人を処刑した電気イスや絞首台を崇める人はいない。

それらは人の理性を超える神的な変容の業だという人もいる。

神であれば、生命の誕生という自らが創造したはずの神秘的な理に反してさえ、処女からも子を産ませることができるように(それが史実か伝承かを人間側がジャッジするよりも、神がそのような存在として啓示されているということ)、この世で最も蔑まれ絶望の底で嘆き悲しむ人を、最も幸いな者へと高めることができるように、神の子を殺したはずの最も忌まわしい、しかも異教徒が使った死刑具さえ崇敬の対象に変容させることができるという。

WT側からすれば、理性で考えれば嫌悪と拒絶の理由となる要素が、そのままそっくり裏返って、「一切の考えにまさる」「一切の考えをとりこにする」神の超越性への崇敬の理由となっている。初期キリスト教史では、論理的に整合性を取ろうとする言説ほど支持されなかった。

どっちが「正しい」のかは知らないが、そりゃ永遠にかみ合わないよね。

中立はない?

WTはエホバかサタンに中立はない、という。

本人が意識しているかは関係ない、も塔協会サイドにいない者はみな悪魔側だと。

その一方で、政治問題には中立!をアピールする。

でも政治問題こそ中立などありえない、という人もいる。

奴隷制廃止や人種差別の改善に政治的にも尽力したキリスト者たちの信念。

中立を装う人、無関心な人は強者の味方であり、保守・体制側を利していると。

かつてのアメリカや南アフリカでは黒人が投票できる、というのは宗教的な意味合いすら持っていたという。生まれて初めて投票所から出てきた時、自分は再び生まれたのだ、本当に自由になれたのだ、という言い尽くしえぬ神への感謝。



彼らの中立は何を生み出してきたのか。

自分たちだけが救われる、真の宗教だという主観と、その宣伝教化に利用する中立神話か。

自分なりの聖書解釈で何が「正しいか」を判断して、その信念に基づいて発言・行動する自由があるのはいいとして、もう少し、独自の善悪や一方的な勧誘活動だけに拠らない他者の救済とは何かを考えるバランスもほしいところです。


主は羊とやぎを一人ずつ分けるとき、宗教宗派ごとの解釈の真偽や優劣ではなく、主の兄弟のうち最も小さな者が飢えている時に食物を与え、飲む物を与え、衣を与えたのは誰かに目を留める。

これはJW勧誘活動とWT協会への寄付によってキリストの代理たる統治体な者たちを忠節に支持することを暗示している?・・という解釈に無理はないんですかね。

聖書にはっきり書いていない意味は勝手に付さないんじゃなかったのかな。

オレをむげに扱う連中はビッグブラザーにどう裁かれるか知らないぜ?(モリス談)と自信たっぷりに自己言及するような、カネをかけた見栄えの豪華なスタジオで高価な装飾品をちらつかせる人間たちの集団ではなく、まさかこんな目立たない人が主の兄弟だったなんてと思うような人にも、日常的な隣人愛を示すことのシンプルな教訓のような気が・・

それ(他者の救済)を政治的な手段で行おうと志せる人はごく限られていると思いますが、そういう人の信念も尊重できたらいいですね。

簡潔な教訓

も塔3月15日号の最後のお勉強記事。羊とやぎのたとえ。

細かなポイントにつっこむつもりはないと言いながら一記事だけ。

『イエスはこの例えの中で、宣べ伝える業に直接言及していません』(8節)

直接も何も、全く言及していないのは字が読める子どもなら分かるけどね。

でもこのたとえは、JW勧誘活動とWT協会への寄付によって統治体たる自分たちを支持することの暗示だという結論にもっていきたい記事です。そんなジャイアン解釈に無理はないのかな。

後半は延々と、布教はすべての信者に命じられているという“聖書的根拠”を羅列する。

それはいいんですよ。

WTがいちいち指摘するまでもなく、新約では福音を伝えるようにとか、洗礼を施すようにという勧めが語られている。仮にそれが一種の命令だとしても、やる側に回らないと、しかも奇妙な聖書解釈を宣伝する活動に加わらないと殺すって、どれだけ愛情溢れる神様なんですかね。

福音を語るように別の箇所で勧められている ⇒ だからこのたとえも日常的な隣人愛以上のことを言っている、というのは何の根拠にもなっていない。それを分かりやすく示しているくだりが↓

『羊とやぎの例えは、油そそがれた者たちに助けが与えられることを示しています。ですから、羊として裁かれる人たちがキリストの兄弟たちに親切を示す主要な方法の一つは、宣べ伝える業において彼らを支えることです』(10節)

トートロジーのお手本のような文章です。

「ですから」の前後を入れ替えても成立する。

『羊として裁かれる人たちがキリストの兄弟たちに親切を示す主要な方法の一つは、宣べ伝える業において彼らを支えることです。ですから、羊とやぎの例えは、油そそがれた者たちに助けが与えられることを示しています』

自分たちが示したい前提を別の前提の根拠にしているだけなので。


命令はお前たち全員に与えられている。だからやれ。やらないと死ぬ。

特権と権力は自分たちだけに与えられている。だから従え。従わないと死ぬ。



この号を二行にまとめると確かにシンプルな教訓ですが、イエスの教えってそんなんでしたか。

こんな記事で従ってくれるし、テレビ伝道でパフォーマンスすればカネは集まるし、そのカネで世界中を飛び回れば信者総出で囲み接待してくれるし、叩き潰してもまた増えるし、もうピクミンみたいなゲーム感覚で楽しいよね。歌が聞こえる・・
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