予型論

今回のも塔2015年3月15日号の一連の記事。

十人の処女とタラントのたとえが2013年7月15日号では触れられていなかったことはこのブログでも指摘していたが、「奴隷」の新解釈と整合させようと1年半頑張って考えた記事です。

もう細かなポイントにツッコむつもりもないが、サークル・クリスチャンと化している大部分の信者にはもうどうでもいい内容なのに対して、まともに読もうとする人にはその奇妙さ、強引さが際立つものとなったでしょう。

聖書に明確に書いてない限り、予型/体型的な意味は付さない、シンプルな教訓に焦点をあてると言いながら、もっていきたい結論ありきでまわりくどい説明に終始する。

聖書を読んで自分はこうありたいと思った、という教訓的な捉え方は人それぞれで、前はこう(自分は)思ったけど今読むと(自分は)こう感じる、というのも自由だと思います。

でもイエスはこの言葉をだれそれに限定して語ったとか、イエスはこう言外に意図していたとか、イエスがこうするのはいつだとか、自分の思い、ではなく主の思いや行動まで決めつけて代弁する、しかも以前に言い切ったことを何度も「調整」していいのかな。



今回フォーカスされた予型論(タイポロジー)について。

この号の付録記事にあるように、聖書の記述に予型を見つけようとする試みは、聖書の正典やキリスト教自体がまだ固まっていない初期教父の時代から始まっている。

この記事では馬鹿げた言葉遊びのような取り上げ方しかしていないが、自分が調べた限りではこのタイポロジーにはそれなりの役割があると思います。

その一つが、もともとユダヤ人ではなく(旧約を聖なる書物とはみなしていない)、諸国民への器だったパウロの宣教と彼の書簡によってダイレクトにキリスト教に改宗したローマ人たち(ユダヤ教への改宗を経由しない)の間で、ヘブライズム選民思想が色濃い旧約をどうみなすかという問題。

WT印刷物にも載っている有名な話では、旧約を聖なる書物とみなすどころか、そこで描かれている神は偏愛する不完全な神とまで主張したマルキオンとか。

彼はルカによる福音書とパウロ書簡を中心にした“聖書”を主張し、支持者を集めた。

種々の論敵に立ち向かう、初期キリスト教の護教家たちによって聖書の正典が固められ、マルキオン主義のような“異端”が排除された。WT洞察↓も、聖書正典を決めたのは宗教会議じゃない、すでに受け入れられていた書簡が目録として確認されただけ、と主張する時に彼らの名を挙げる。

『クリスチャン・ギリシャ語聖書の正典が2世紀の終わりまでに完結したことは疑いありませんし,イレナエウス,アレクサンドリアのクレメンス,およびテルトゥリアヌスなどの人々は,クリスチャンの聖書を構成する文書をヘブライ語聖書と同等の権威を持つ文書として認めていたことが知られています』

・・えーと、彼らのキリスト観にはまだ多様性があるものの、大筋としてはキリスト=ロゴス論 ⇒ ロゴスの受肉 ⇒ 三位一体の流れを作り発展させ、その礎を築いた人たちでもあるんですがね・・それはまた別の話ですが。

タイポロジーの話でした。
スポンサーサイト

窓のない部屋

本を読むと知識や見方が広がる。

どの分野でも良質な本を書く人は、ある意味で自らを犠牲にして、その分野でもさらに狭い領域に特化して資料や情報の綿密な分析を膨大な時間と労力をかけて行う。

その人が生涯のかなりの時間を費やした研究や実経験に基づく考察を、専門知識がない読者を想定して、できるだけ噛み砕いて文章化して推敲を繰り返す。その過程にも時間がかかる。

読む側は、その完成された本を数日で読めてしまう。

でもWT協会は自前の印刷物しか読まないようにさせる。

宗教関連本は直接、読むことを禁じる。

それ以外の本も、多大な宗教活動とその準備を課してそんな暇をなくさせる。

『霊的な人は実にすべての事柄を調べますが,その人自身はいかなる人によっても調べられません』(パウロ)

霊は自由を生み出すのに対し、肉は恐れと束縛を意味する。

「霊の人は一切を判断する」(新共同訳)

読んではいけない、調べてはいけない、と禁じるのは魂の人の特徴。

本のない家は窓のない部屋だとだれかが言ったようだが、外の景色が見えない、閉鎖的な宗教団体という「窓のない部屋」に信者を閉じ込めておきたいのだろう。


ただ、知識を偏重しすぎることは聖書も戒めている。

『多くの書を作れば際限がなく、多く学べばからだが疲れる』
『知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める』
(口語訳)

でもこれも、今のWT協会にあてはまってしまう。

際限なく“最新”の雑誌や書籍を作っては、読め読めとうるさい。読む方が疲れている。

その偏った知識のみで、自分たちだけは唯一の真理を持っていると思い上がる。

聖書を何も知らないアジア人や、それほど学びに打ち込んでいる訳でもないクリスチャンに比べれば聖書を知っているように見えるが、「ああ言われたらこう言う」マニュアル通りに、決まりきった所々の聖句を単発的に開ける、というだけのこと。

神やキリストを幼子のように信じていても知識が間違っていれば救われない、とマニュアル通りの勧誘をする割に、太刀打ちできない知識を持っている人には「謙遜な羊じゃない」という捨て台詞を自らにいい聞かせ、↑のような聖句を使って、大切なのは知識じゃなくエホバ様への愛だと言う。

自分の団体だけにカネと人を集めればいいという人ほど勧誘に熱心なのは皮肉です。

バルト語録②

何度かWTにも引用されているバルトですが、真理シリーズのおまけにWT信者向けに引用してほしいバルト語録(載る訳がない)を少し引用します。

『真理はわれわれと共に生きず、われわれと共に死なない。われわれが正しい時に正しいのではなく、われわれが間違っている時に間違っておらず、われわれの勝利の時に勝利せず、われわれの敗北の時に敗れない。それゆえに、真理はこんなにも強く、自分自身の生を生きる・・それゆえに、真理はゆりかごの上にも陰を落とす死であり、墓の上でも息づく生命である』

BC607年の間違いが“証明”されたら真理の負けですか。

進化論の間違いが“証明”されたら真理の勝ちですか。

人が唱える“論”や“説”のどっちが勝つか、正しいか、とは関係ない真理です。


「わたしは救いの音信を恥とはしない」(パウロ:ローマ書冒頭)

『救いの音信は、世界宗教や世界観の争いを探し出す必要も、ことさら避ける必要もない。この音信は、既知の世界を、もう一つの未知の世界によって限界づけることについての音信だから、既知の世界の内に、比較的未知な、より高い存在領域をなおも発見し、近づきやすいものとしようとするすべての試みとの競争の圏外に立っている・・それは弁護され支えられることを必要としない。この音信が、それを聞き、宣べ伝える者たちを弁護し、支える・・もし神が神でないならば、われわれは神にとって無用であり、神はわれわれを恥じるに違いないであろう・・どちらにしても、その逆ではないのである』

エホバの証人が悪く言われそうな時は、エホバの証人だと言わないがいるよね~

財布を拾ってお巡りさんに届けるときは、わざわざエホバの証人だと言うよね~

恥ずかしい、誇らしい、どちらも表裏一体。

普通、財布を拾って届けたくらいで「誇らしい」とは思わない。自賛する話でもない。

校歌を歌えない、乾杯できない、誕生日を祝えない・・親と組織に洗脳されて「誇らしい」と思うか、親と他信者の目を恐れて「恥ずかしい」と思うかの二択しかない。

どっちもさ~、普通のことだよ。誇らしいとも恥ずかしいとも感じることじゃない。

掟と要求による敬虔競争に、もれなく二点セットでついてくる優越感と罪悪感。

「要求が来た時、罪は生きはじめたが、わたしは死んだ。そして、命を目指す要求、まさにそれこそが、わたしを死に至らせることが明らかになった」(パウロ)


この世のあらゆる神が神でないのなら、にとって恥であり無用なのは自分たちだと彼は言う。

その逆ではない・・この転換は脳みそに刺激的でした。そこに生じ得る逆転現象。

「だれが神の思いを知るようになり、その助言者となったのか」・・宗教的事象の制限を根本的に知らない者が宗教の変革者になろうとすれば、必ずや劣悪な変種になるだろうと予告していた。

予言解釈を外しても、寄付を懇願しても、エホバ様は恥ずかしいとは思ってないからと言い切る、ある意味で恥も外聞もない宗教的事象を利用する、神の思いを知る代弁者たち。

歴史的放送

ブルックリン周辺施設を売却してるから余裕あんじゃね、は誤解だとアピールしている。ブルックリンの主要地所の一つを売ったところで、世界的な出費をたったの数週間しか賄えないらしい。一体どこにどれだけのカネが回されているのか知らないが。

・・ということは、数週間単位の出費をやりくするために不動産を切り売りしなきゃいけない程、切羽詰まっているのかな。テレビ伝道で美辞麗句とイメージ映像を垂れ流すだけで、具体的な数字を公表しないので分からないが、ここまで資金不足をアピールするのは記憶がない。

一棟あたり数億円かかることもあるらしいKHやらRTOやらを世界中に建設する必要?・・2%前後をうろつく増加率、物価の高い先進国ではほぼゼロ成長の団体が今さら主張しても騙されるのは情報リテラシーのない中高年信者だろうが、一時しのぎのおカネは集まるかもね。

それにしてもオモシロイのは、ニューヨーク関連施設の売却、王国会館ローンの廃止・・忠実な信者はこれさえ、我らが岩なる神エホバ様の組織、も塔協会は経済的に潤っているのだとプラスに解釈しちゃうんですね。情報操作しすぎて逆に裏目に出ているパターンか。

いや実はお金がかなり足りてないんですよと、指導部自らアピールする始末。



『均等を図ることによって,あなた方の当面の余分が彼らの欠乏を埋め合わせ,その結果,彼らの余分も同じようにあなた方の欠乏を埋め合わせ,こうして均等になるためなのです』

これは通常の生活レベルで経済的に困っている仲間のための支援ですよ。

自分たちのエリアで、絶対中央集権組織の指示と仕様通りの、宗教建造物を建てるカネがないという理由で“困っている仲間を支援”するために、つまり結局は、地元信者ではなくその宗教法人の財産となる不動産を取得するために、億単位の寄付を懇願する言葉ではない。

宗教が土地の所有と見栄えのよい建造物に走るのは権威と支配の象徴。

あなた方の大好きな初期クリスチャンはそんなに土地取得と建設にご熱心だったんですかね。

ヘブライ人クリスチャンには、神殿や会堂という組織的封建支配からはじき出された人たちが「集まり合うのをやめたりしないように」と、個人の家でもいいから集まるよう勧めたんじゃないかな。回数や建物の仕様を画一化して、救いの前提や条件とする命令としてではなく。

どこにそんなにカネがかかる要素があるのか教えてほしい。

カネ不足のために業の進展を遅らせたくない・・て、もうはっきり言っちゃいましたね。

何の業(ビジネス)なのか、それ。


レット君の言う通り、今回の放送は歴史的なものになるかもね。

不動産ビジネス

善良な信者をコントロールする集金マシン、も塔が揺らいでいるのか。

完全寄付制への移行・・宗教出版ビジネスの危機は一応、乗り切ったとする。

もともと、寄付に「完全」も何もないと思うが。

日本でも、金額の大小に関係なく価格が決まっている時点で「売ってるのとどう違うのか?」と聞かれた現役さんも多いはず。自分たちの寛大さとアピールしているが、一部の国で非課税宗教としてのコンプライアンス的な問題もあったからじゃないのか。

今回の危機、王国会館基金への返済システム撤廃。

これも自分たちの気前のよさとアピールしているが、無利子とはいえ限りなく金貸し業に近いグレーゾーン。寄付を募りながら、その寄付を貸付に使って1円残さず全額きっちり回収しながら、さらなる寄付を募り続ける。タダで受けてもタダでは与えない。どこが寛大なんだよ、君たちのポケットマネーじゃあるまいし、もともと全部「受けたもの」だよね?

カレブさんが指摘しているので言うまでもないが、ローンの免除(宗教団体がローンて)と言いながら、これまでと同額の送金、つまり事実上の返済を続けるよう裏で指示している。しかも「返済」ではないので、「いつまで」はその金額で、という期限を決めることも建前上できない。放置すればいつまでもぼったくられる可能性もある。

しかしこれから、新規の“貸付”をする会衆に対して毎月の金額を指定して事実上の返済を指示することはさすがにできないだろう(やるのか)。も塔不動産ビジネスの危機。

世界中の会衆から、改築、改装、修繕の問い合わせも殺到する。

地元運営資金を一括で巻き上げた以上、今さら自分たちのカネでやれとも言えない(はず)。

当面の資金を回収する口実で、いよいよとなれば、やっぱりまた自分たちで一から貯めてやれ、と再びの指示変更の可能性もゼロではないが、それでもこの協会に付いていく信者はいるのだろう。

聖書と幾つかの団体を試行的に使って人間はどこまで宗教権威でコントロールできるか試している黒幕でもいるのかな。 ⇒このブログは陰謀論とは関係ありません

主力英語圏での児童虐待隠蔽体質が訴えられている裁判報道・・

さて、面白くなってきた。

無理がある

『こうした解釈に無理があると思える人は,問題を理解できるでしょう。人間は,聖書のどの記述が来たるべき事柄の影で,どの記述がそうでないかを知ることはできません。はっきりしているのは次の点です。ある人物,ある出来事,ある物事が別のものの予型であると聖書が教えている場合は,それを問題なく受け入れます。しかし,聖書的な根拠がない場合は,特定の人物や記述に対型があると考えることを控えるべきです』
(も塔2015年3月15日号)

聖書的根拠がないなら、何が何を、誰を表しているとか、暗示的な意味は勝手に付さないということですね。控えるべきとまで言ってますね。

でも、無理がある・・て、自分たちの1914年や奴隷の解釈を完全に棚に上げてないのか。

計算なのか、執筆部が分裂でもしているのか。

ところで、明確に書いてない限り、とだれが判断するんでしょうか。

100人が読んで100人がそう思うくらい「意見が割れない」ことじゃないですかね。

ヨナが三日三晩魚の腹にいたことはイエスの死と復活の予示していた・・

それを信じるかは全くの別問題として、聖書ではそういう予型と体型になっている、というのはだれがどう読んでも意見の割れようがない。聖書にはっきり書いてあるから。

1914年の解釈に「無理がある」と思う人はみどり子すぎて、読解力が足りないのかな。


暗示探し的な読み方は“見つけた”本人は「聖書の秘された真理だ!」と思い込みやすい。

この記事でもあったが、初期教父の時代からそのような試みはある。

何せ2000年近い歴史がある本で、一字一句しらみつぶしにされている。日本語に訳されていないだけで(需要がない)、外典や史的資料まで含めた比較文献学もかなりやり尽くされた感がある。

聖書が出回るようになったここ百数十年くらいは、年代計算、予言解釈、暗示探しに奔走する人もいて、原理主義的な読み方をする人は少なくなっているとはいえ、アメリカの福音系の人たち(広い意味でWT協会も)を中心にまだ根強い人気はある。

「まだだれも見つけていない」秘された神のメッセージを見つけたのは自分たちだと。

結局、このブログもですが、だれかが聖書のある字句を読んで「そう思った」「そう解釈した」のなら、へーそうなんですか、となるだけで、だれも反論も反証もしようがない。

自分の解釈が「真理」じゃないのなら、反証してみろ、他のどの解釈が真理なのかを提示しろ、と言われても、その人が作った土俵なので、そこにわざわざ上がり込む人もいない。

WT解釈もその1つです。自分たちが作ったワールドなのに、だれも反証できない、他に代わる真理を提示できない、というだけで唯一の真理と思い込まされるシステム。


「1914年」や「奴隷は誰?」解釈だけは棚に上げ、暗示や予型探し的な読み方はもうやめて、聖書は教訓的に読みましょうね、なんて言い出したら、もう普通のキリスト教ですよ。

カトリックや大方のプロテスタントはとっくに辿り着いているスタンスに今さら寄せてもね・・

大幅な赤字

真理が何とか書いている間に、面白いことになっていた。

JWBroadcastingなるものが多言語に翻訳されての一発目が寄付の懇願プログラム・・

ここもレット君頼み。寄付懇願のマスコットキャラと言えばやはりこの人でしょうね。

この話を依頼されちゃいました、と言っているが、ウソではないでしょう。あとはアイリッシュマフィアみたいな割腹のいい目付きが悪い白人ばかりでカネの話をさせるにはイメージ悪い。

スプレーン氏は知的だが、ひたすら感情に訴えて寄付を募るテレビ伝道には向かない。

黒人のおじさんはなぜか最近やる気が伝わってこない。


さあ、いよいよですかね。

来期?の会計年度の支出予想が寄付収入を大幅に上回るそうです。

支出予想が大幅に上回る、寄付収入予想が大幅に下回る、言い方次第ですが、どっちにしても平たく言えば大幅な赤字になることが予想されている、というまさかのカミングアウト。

寄付を懇願する「聖書的根拠」まで探してきた。

『あなた方(モーセとアロン)受け取るべき寄進物は次のとおりである。金,銀,銅,青糸,赤紫に染めた羊毛,えんじむし緋色の物,上等の亜麻,やぎの毛,赤く染めた雄羊の皮,あざらしの皮,アカシア材,明かりのための油,そそぎ油および薫香のためのバルサム油,エフォドおよび胸掛けのためのしまめのうとはめ込み石。そして,彼らはわたしのために聖なる所を造らねばならない』

も塔協会の財産となる不動産、聖なる建造物のためにお前らも金銀財宝持って来いよと。

何が必要かを「知らせる」だけで、他の団体がするような「懇願」ではない。

受け取るべき、と言ってるからね。神レベルの上目線で言えば懇願じゃない。

必要を「知らせる」ことをエホバ様は恥ずかしいとは思わなかった?

神なるものが「恥ずかしい」と思うかどうかをコメントするあなたは何者か。

王国会館の寄付箱では飽き足らず、自宅ベッドの上でもお手軽にタブレットとクレジットカードを使って寄付する女性信者を軽快なBGMに乗せて映し出すミュージックビデオを、神の名において作るのは恥ずかしくないのかなあ。


聖書、特に旧約って悪用されると恐ろしい本だとつくづく思います。

神の権威と称するだけであらゆる支配、要求、裁きを正当化できる文言に不足はない。

為政者たちが愛してやまない本だ。

召された者

1年少し聖書と関係書を読み漁った素人が途中経過程度に数ページにまとめたことがキリスト教信仰を代弁するはずもないが、宗派に関係なくおそらくはこれに近いことを全身全霊で信じている受容している何人かの人に会ったことがあります。

彼らはJWさえ異端だと咎めない。自分だけが絶対の真理を「持っている」とか、他のクリスチャンや宗教はすべて偶像的で偽物だ、とも軽々しく言わない。彼らがそれによってただ一方的に生かされ、証しされている真理とは『神学者たちの想像の中にだけ存在するキリスト教的確信』ではないので、『自分は召されている』とも訴えない人たちです。


「というのは 神が認識した者たちを 
   神はその子のかたちに似たものとするように定めたからである 
    しかし神は そのように定めた者たちをも召した」
(パウロ)

『神を愛する者たちは・・神を愛するつもりでいるか、あるいはそう申し立てていながら神を愛さない召されない者たちとは明らかに対立して、召された者たちと呼ばれている・・神を愛する者たちは、見分けるのがむずかしいほどにかれらと似た者となることに決して抗議しない。彼らを正当なものと認めることができるのは召命そのものだけであって、決して、召命されているとの訴えではないということをよく考えた上で、かれらは自分たちが召命されているとも訴えないだろう』(バルト)


JW記念式でパンを食べる行為を『召されたアピール』とする解釈とは対照的です。キリスト教的確信どころか、WT的確信がない人はその命令に従ってはいけません。

食べたくなくなるよね、せっかく無酵母なのに、食えるもんなら食ってみろと大勢のギャラリーが注視する中で食べもしない人間にもれなく几帳面に回される、人の解釈という酵母で汚されたパンは。そういう狙いなのか。

現役の方々(特にキリスト教圏)にどんどん食べてもらって14万4千人をぶっちぎっちゃえばいいんじゃねと思ったこともありますが、まあどうでもいいです。少なくとも、キリストが証しするために来たという真理は、いち宗教団体の奇妙な聖書解釈が破綻するかどうかと何の関係もない。


こんなブログを書いている自分はその場所からはるか遠く離れた所にいる訳ですが、神(のモノゲネース)自らが黙示するために来たらしい真理を、人間側がその合理性を検証して初めて「正しい」と認められる事実の知識や、個人や団体の聖書講釈(このブログ含む)が正しいか間違いか、あたりとごちゃまぜに思わされているWT信者とキリスト者の議論がかみ合わないのは、こういうベースの違いがあると思います。


霊とは何か、聖書のあちこちから拾った文字を使って定義の合理性を主張する様は、盲人たちが象のあちこちを触っては「象とはこういうものだ」「いや違う」と言い争っているかのようです。エネルギーぽく“見える”箇所もあれば、パーソンのように“読める”箇所もあるんでないの。

真のいのち

わたしの霊が人に対していつまでも働くことはない。彼はやはりであるからだ』

個々の朽ちる肉がいつまでも生物学的に機能し続けることもない・・「永遠のいのち」は言葉としては新約オンリー、その多くがヨハネ福音とヨハネ第一に出てくるが、そのような物質的な意味で永遠の命が使われている箇所はないようです。そもそも「いのち」や「永遠」という語彙自体が抽象的で、一律に定義できませんからね・・

キリストの肉体の復活とリアルな携挙を信じる人には叱られそうですが、朽ちるものが朽ちないものに瞬きの内に変えられる・・「カエレスティア(天界用)の体」(コリント第一15章)がある種の肉体だとしても、今の生物学的に知られている体組織とは「別の種類」(パウロ)でしょう。それが厳密に何なのか(定義)を聖書のあちこちの表現をめぐって議論することに興味はないです。



一方、時間そのものを永遠の否定とし、永遠とは時間がずっと続くことではなく、その有限性・・何時何分とか何年とか、長さやポイントを定められることの対として「人の心に置かれた」(伝道の書)もの、という抽象的な概念で使われていると考える人もいます。

その場合、真のいのちである完全な愛は、人の理屈や理解によらず、一切の恐れや疑念を排除する(ヨハネ第一)ので、その愛またいのちに移された人を、「死も生も、今あるもの=現在も、来るべきもの=未来も」(パウロ)そこから離すことはないという認知そのものが永遠です。宗教に関係なく永遠の愛を誓う男女はそれを直感的に表現しているのかもしれません。


合理性をしきりに求め、 イエスやパウロも持ち出したことがない、いくら議論しても答えなど出ない、どうだ答えられるか、答えがあるなら言ってみろと、ユダヤ知識人たちがイエスにふっかけたような瑣末な疑問難題を想定しては、真理を人間に弁証される解釈の一つというレベルに引き摺り下ろすかのような試みに対して、イエスはその土俵に上がることさえしていない。


永遠の命のことばで「死んだ者の神ではなく生きている者の神」(師よ、よくぞ言われた)を証しできたのは神のモノゲネースだけで、「史的イエス」が提唱した思想ではない・・だれが福音書を書いたのかは知らないが、その中でしか知られえない“彼”は「ことば」なので、己の考えではただの一言たりとも語っていないと、何度も何度も“言って”いる。

これが「真理に即した」ものであり、真のいのちが神と隣人を愛することに集約されるとシンプルに悟った聡明な書士に、神の王国はあなたから遠くないと“イエスは言った”。

それ以上、何かを質問する勇気は誰もなかったようです。

永遠の認知

「霊によって証しされる」仕組みも分からないことのようです。

それだけでは何なので、本質的な答えではないですが、「あなた方の間に愛があれば、人々はあなた方がわたしの弟子であると知る」と“イエスは言った”。

有名なコリント第一13章にあるような、まず人の心に充満し、次いで言動に表れる愛は、その霊が実(ガラテア書)として可知化する徴であり働きです。それは他の徴を包含するので神は霊であると同じように、神は愛である、とも“言われている”。

でもクリスチャンとして評価されるために、他宗派より優れていると評判を上げるために愛を示そう、とする必要はありません。WTはよく因果を逆にして愛や友情も手段化する。

詳しい仕組みを知らなくても、自分が命に生かされているのを知ると同じ確かさで、「彼がまず愛したので愛する」人が、自分が霊に活かされていると「知るようになること」(岩波版新約、新世界訳改定英文)・・その認知が永遠の命(イエス)また真の命(パウロ)を意味しています。

この「霊の人」に対しては、あらゆる律法(おきてや要求)は廃されています。キリストの霊がおきてによらず朽ちる肉にさえ実を生みますが、人により三十倍、六十倍、百倍なので、その多さや質の良し悪しを個人(自分と他人)や集団単位で量る、比べる、誇る必要もない。


それで神は霊である、霊は命である、命は永遠である・・は真理です。

『そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである・・わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである』(ヨハネ第一5章:口語訳)

その真理はだれも証しできない(という前提)。塵=肉の塊にすぎない、塵だから塵に還る、神の容として模られた土の器にすぎないものが、その真理に生かされ、証しされていると「知る」ことしかできず、そう語ることも二次的な証しなので、霊の証しにまさることはありません。
プロフィール

GUABELLO

Author:GUABELLO
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR