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先週のも塔

なぜキリスト教はローマで広まったか。

これ・・一般の歴史認識とほとんど変わんないような。

今週の組織賛美に強引につなげるネタとはいえ、今さらこんなこと言い出していいのかな。

ローマ型キリスト教は背教の温床じゃなかったのか。

ローマ法やコイネー、パクスロマーナのおかげでキリスト教は広まった・・?

ギリシャ語は語彙が豊富で霊的(知的)な事柄を表現するのに適していた・・?

そうですよ。ギリシャ語の抽象語彙を駆使するヘレニズム著述家たちの時代。

ウルガタ訳以前の古ラテン語聖書、しかも旧約なんて読めたもんじゃないと見下されていたという話も。学識あるパウロの哲学的な書簡はローマ人の知的探求心を捉え、やがてギリシャ語を話す知識人たちの思索によってキリスト教哲学も発展した。

アウグスティヌスも初めに旧約だけ読んでいたら低俗で馬鹿らしくて(そこまで言ってないか)とても信じる気になれなかった?と告白している(改宗後には自分の傲慢さとも認めているが)。

ギリシャ思弁家達の奥深い知的な思索に触れたおかげで、一読して不道徳と不条理に満ちている旧約も、信じるか信じないか、史的に正しいか間違っているかよりも、ホメロスのように寓話的に、教訓的に、霊的に読む術を知ったという。パウロ書簡に感化を受けて改宗した彼の思想はキリスト教の発展に大きく貢献した。


旧約から新約へ、ヘブライ語がコイネーに取って変わったから、旧約の古ヘブライローカル表記yhwhは翻字されずにキュリオスと訳されたんじゃないんですかね。

初めからギリシャ語で書かれた新約写本には古ヘブライの痕跡もない。

そのうちキリスト教がローマ国教にまでなったのも奇跡的な神慮、お導きと言い出すのかな。
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特別集会

検索ワード「特別集会」でアクセスがすごいんですが・・

このブログですから批判的なレビューが期待されている?のかもしれませんが、話自体の内容としては特に書くこともないような。祈れ、聖書読め、伝道しろ、集会出ろ、のテンプレトークです。

あえて書くと経験談がどれもこれも見事に酷かったくらいですかね。

信者夫には宗教活動に影響する昇給話は即断で蹴れと言う割には、非信者夫には自分が開拓するために仕事やめたいから夫の給料を倍にしてくださいと祈り、祈りに調和して(笑)昇給願いを自分から持ちかけるよう非信者夫をけしかけたら、何やかやで倍以上になったという話。

実力主義のヘッドハンティングも普通にあるアメリカ社会では能力次第で全くありえない話でもないのかもしれないが、そんな話を日本でされてもね・・地元の区域で実際的かどうかを考えましょう、て話の教科書に書いてないですか。

夫が宗教活動の制約がない非信者なのに、専業主婦開拓もできず家計のためにパートしている日本のヨメ姉妹たちは祈りが足りないか、どんなに祈られてもさすがの全能神エホバ様もどうしようもできない無能力夫ということか。

あとゲリラに捕まって死刑命令出たが祈ったら解放されましたとさ。布教相手に殺された日本のシマイは布教中の安全と保護、明敏な識別力を求める日頃の祈りが足りなかったんでしょう。

祈ってもいつも奇跡的に聞かれる訳じゃないといいながら、露骨に御利益的なケースばかりを無邪気に話すのはなんなのか。レット君は自分の言葉に触発されてドーパミン全開なのか、顔面神経フル稼働でとっても幸せそうだし、寄付で成り立つ団体宗教なんだからこれでいいんでしょう。

非信者の勧誘と信者の士気高揚に不利益情報は一切不要。

WTもいよいよテレビ伝道、映像教化の時代、こういう人は重宝されるでしょう。

・・にしても経験談もかなり短絡で日本昔話のような、即物的な内容になってきました。


先生が買ってくれた誕生ケーキを食べなかった6歳?の三つ子の話も美しい。誕生日の祝いに嫌いな人間を殺すのはよくないと思うが、善意のケーキを食べることを禁じる掟は聖書のどこにあるのかな。

それは教団の独自戒律だからまあ仕方ないとして、親に叱られるからだろうと思った先生が親に確認すると、「自分はダメとは言わない、自分で決めなさい(母親)」⇒「お母さんは食べてもいい、食べなさいって言ってたわよ(先生)」⇒「なんと不正直な先生でしょう!(レット君)」・・?

おいおい、「個人の決定」と言ったら大抵はJW的にもおとがめなし、という意味だろう?母親もその言い方はどうだったかと言った後で思ったらしいし、まして非信者の、その子たちのために買ったケーキを食べてほしい先生が「食べても構わない、自分で決め(て食べ)なさい」と捉えちゃったところで嘘つき呼ばわりするのは、どこまで人の善意を踏みにじるんですかね。

それでも食べなかったことを美談にしているが、ロクな大人に育たないか、まともな良心と思考が少しでも育てばいつか目ざめて苦しむでしょうね、この子たち。

地区大会

今年の大会プログラムがアップされていますが・・

見た目にはめずらしくイエスにフォーカスした、普通のキリスト教ぽい感じです。

たまにはこういう体裁にしての、一応はキリスト教ですよアピールか。

「エホバ」が1回しか出てきませんが、それも「イエスに倣うことはエホバに倣うこと」というくだりです。イエスを一心に見つめ(ヘブライ12章)イエスの名を呼び求め(コリント第一冒頭)イエスの名が大いなるもの(使徒19章)とされるよう願うのがキリスト教な訳ですが・・


まあ、イエスに付いて行く→イエスが用いている組織、解釈の変更に付いて行く・・とか、イエスの活動を行なう→イエスが用いている組織が勧める活動を行なう・・等のすり替えと刷り込みがサブリミナルにちりばめられるのは想像に難くない。

「大工の子」だったイエスは職と技を捨てイスラエルの失われた羊を探し求めたのに、不動産ビジネスの拡張に素人信者をタダ働きで利用していることへの批判からか、「建築の技術者がかつてなく必要とされている」とか、「専門的な技術」を持つ人にはそれを捨てるどころか組織のために活用してねと教化する人たちですからね・・

真理とは②

『物質の人は神の事柄を受け入れません。それは愚かなことだからです』(パウロ)

物質の人にとって実験や観察で万人が等しく検証できない何かを受容するのは非合理的です。

WTは空気や電波も目に見えませんよね?と言うが、それは視覚に限っただけの話で、それらの存在や作用は容易に知覚できる。物質的な議論から一歩も出ていない発想で、聖霊という「神の事柄」まで電気みたいなエネルギーに例えたりする。

『初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ことば)について-このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである』(ヨハネ第一冒頭:口語訳)

人間イエスを知らないパウロを意識した訳ではないにしても、これはキリスト教にとって知覚できる唯一の真理を表現しています。「目で見た」「よく見て」と、see(見える)とobserve(注意して観察する)のような2つの単語で視覚を2回強調している。

命のことば、初めからあったことば、神であり、神と共にいた、そのことばが人に宿り、神の懐にいたモノゲネース(独り子の神)が示す栄光を見て、そのことばを聞いた・・(ヨハネ福音)



WTもそのイエスが「真理であり道であり命である」と認めてはいる。

でもいつの間にか、「どうやって真理を学びましたか?」というお決まりの質問の意味するところが「どうやってWT解釈を学びましたか?」に変質している。

WTの真理とは、BC607年と1914年、忠実な奴隷は誰か、終末や地獄や魂の解釈、誰が・何人が・いつ・どうやって天に行くか行かないか、善悪が存在するのはなぜか、ユダヤ人が使用した旧約の古ヘブライ表記yhwhの翻字や発声をどうすべきか・・どうでもいいこととは言わないが、キリスト(教)の本質とはおよそ関係ないところで自分たちなりに理論立てた一連の解釈を指します。

その解釈をWT教材でお勉強するきっかけは何でしたか、という質問です。


人が書いたものから自分の考えに合いそうな箇所を切り貼りしてもつまらないし、それってWTの手法です。でもキリスト(教)に啓示される真理というとさすがに好き勝手に書けないので、1人のキリスト者の人が書いた本をベースにして自分の言葉で注解 (笑)します。

少し前に書いたカール・バルトという人ですが、そんなの彼が書いたどの文献のどこに書いてあったのかという指摘はご容赦願います。その類の指摘はとある宗教組織で十分すぎる程耳にしたので・・

真理とは何か

ピラトがイエスに尋ねた有名な質問。

「真理はどこに」という記事をブログ初期に書きましたが、真理を求めながら生きて死んでいく、という不可知論チックな内容でした。真理を「地球は丸い」のように、もう議論が割れていない、科学的に合理性が確証された、信じる必要がない事実の知識に限定するなら、今もそう思います。

だからWTは、進化論は専門家の「意見が割れている」ので真理ではない、とする。

でもBC607年は専門家の意見が割れているどころか、そうじゃない方で意見が一致しているのに、聖書を持ち出してそれが「真理」だと主張する。聖書にすら607なんて書いてないのにね。


それでWT信者にとって真理とは、だれかの主張や解釈が合理的に正しいか間違いか、事実の情報かどうかの問題なので、その真理は簡単に操作できます。自分が強く反論する、専門家の言葉尻を本人の意図お構いなく引用して「意見が割れている」ように見せることもできる。


知覚できる事実には多面性があることを示す有名な話に「盲人と象」があります。

象を一度も見たことがない盲人たちが大きな象を触ると、触った部分によってそれぞれが「象はこういう生き物だ」と全く違うことを言うが、その「どれか1つだけ」が正しいのではなく、すべてが断片的な真実である、というお話。


これは科学的事実の部類です。矛盾する事象が観察や計算で確認されると、それを整合させる枠組みを理論立てて検証を繰り返すプロセスです。それと同じやり方で神の真理を構築しようとするのがWTの聖書解釈手法です。

伝統的解釈や権威に縛られず「自分たちの真理を組み立てよう」とするのは楽しかったかもしれませんが、やがてパズルのようにあちこちのピースを組み合わせて形にした枠組みが権威になってしまうと、それと矛盾する聖書の字句が指摘されると今度はその結論ありきで調整して、一方は象徴(比喩)で、他方は字句通りと説明するようになります。

彼らの真理は自由自在です。



でも聖書のいう真理とは、そのような類の、つまり見たり触ったりという知覚上の、人間が観察し、解釈し、理論立て、検証することで合理性が確証される諸事実の集合ではなく、さらに専門家や人の意見が“割れている”かどうか、とも関係ないようです。

高学歴②

あと自分の考えるもう1つの理由は上昇志向の高学歴者に用意される出世階段です。

WT協会が高等教育を否定するのは、割り振れるポストが限られているのも一因でしょう。

でもマネジメント側には少数の知的人材がほしいのはどの組織でも同じです。

高度な資格や特殊技能を持つ個人情報の収集は、主に巡回さんが口頭でこっそりやります。

たとえばですが、WT御用達のオーケストラ。

世界中の人材に声をかけ、周期的に本部に集める。

その旅費はすべて自費ですよと、どうでもいいことはしっかりアピールするが、だったらレット君と供回りSPも自費で来いよ、寄付を使うなら公表しろよと思ってしまう。

音大出てもプロオケで活躍できる人がごく一部なのと同じように、そんなことを「目標」にされて音大とか芸大とかに進学されても困ります。自前で用意できるポストが限られている分、「世」に流れてしまう。

この組織が必要とする99%↑の人間は無学歴で、深く考えず言われた通り動く奴隷なので、2世にはべテルに入るにはまずアルバイトで開拓を!仕事は建設系を選べ!となる。

その裏で少数の高学歴者や特殊技能者(1世や戻り2世、半2世→父親が非信者)をリクルートする。

表向きは大学教育を否定し、大多数の信者を無学歴の被支配層にさせる。

だから離れていない2世に高等教育を許す信者(父)親は懲罰=特権削除の検討対象になる。

独裁者が危険視するのは被支配層の知識人、を分かりやすく例証してくれる組織です。

高学歴①

カルト要素が強い新興教団に高学歴者がいるというのはよく言われることですが、Yahoo知恵袋のやり取りで自分の経験からもしっくりきたのは次の回答です。


彼らは「確かに頭はいいのでしょうが賢くはないから」だと思いますよ。

言われたことを「学ぶ」ことは得意であっても自分で「疑問を持ち考える」
ことができないのでしょう。

故に、事実を無理なく解釈できる論理を考えるのではなく、自分が
「学んだ(と信じ込んでいる)」教理に矛盾しない解釈を考える方に走るのです。



最近の「新しい解釈」を考えているのもこのタイプの人間かもしれません。

WT教義に矛盾しない解釈を考える分には頭はよくても、絶対の前提とするWT教義そのものを疑ってみるほど賢くはない、ということか。

だれでも分かるごくシンプルな理由で否定されているのに、すさまじく複雑かつ難解・・に見える説明で弁護する。肝心かなめのところはうやむやにする、根拠なく言い切っているだけでも、他の水増ししている部分が一見してつらつら整然と書かれているのでなんとなくそんな気になる、という手法はそれなりに頭のいい人が書いているからでしょう。

無学歴の大半の信者に「頭が悪い自分にはよく分からないがとにかく神からの新しい光だ」と思わせるにはそれで十分です。

さらに末端信者はそれを「学ぶ」のみで「考える」訓練はされない、いや考えない訓練。


宗教なんだから何かを前提=公理にしている、そこを疑ったら成立しなくなる・・

という最低限のライン(ドグマ)があってもいいと思います。

キリスト教でもそのラインを超えない範囲で、どこまで科学的・歴史的事実と「無理なく」整合させながら聖書を信仰の典拠とするには多様性があるようです。


WT信者にとっては、彼らの信仰が成立しなくなる境界がWT解釈=「BC607年と1914年」「奴隷は統治体」「輸血という医療行為は是か非か」というあたり、キリスト教と言い張る割には、キリスト教として成立する前提とはおよそ関係がない、聖書の中でもマイナーな字句の解釈を巡って許容範囲が狭すぎるというか、話がちっちゃくて残念ですね。

信者と不信者

逆説的ですが、神を信じる人にこそ、神を信じなくても、宗教に入信しなくても、幸せになれると言ってほしいですね。宗教に入って何がしかの幸せを体感できるのは結構ですが、幸せをやたらと目的化(商品化)して、不信心=不幸せ、と思い込ませる団体には注意が必要です。

イエスは、父はすべての者の上に日を昇らせ、恵みの雨を降らせる方だと説いた。

敵や邪悪な者にさえ良いものを差し控える方ではないと「知るようになる」こと、

それを知ったなら、行ってあなた方も同じように(信じない人にも)しなさいと。

勧誘ありきで、その下心は隠しておやりなさい、という刷り込みに余念がなく、団体内のラブシャワーとは対照的に、勧誘できる可能性がないと見切られた人、団体の教えを信じるのをやめた人への手のひら返しで有名な宗教組織もある。



神を信じない人が創造を否定するのはあたりまえで、創造は科学的にも正しいとか言い出す勘違い宗教がよく困ったことになるので、良識的な批判はどんどんやってほしいです。

それに反撃するかのように、神を信じる自分たちは高尚な人間で、信じない人間は不道徳で、哀れで不幸で救いがない、という印刷物を配って回らせる団体もある。それがWT信者の間でも「世の人」「不信者」という用語を差別的に使うよう刷り込まれる、自称世界最高の教育。

その教化を前面に出す最近の「研究号」は信者用、集会に来る“進歩的”な人の教化用、という二段階なのか二枚舌なのか、一般に配るのはやめる周到ぶり。


大方の先進国では、信じない側が信教の自由を法で保障して認めてあげようよ、どんな宗教でも茶化したり馬鹿にしたりはよくないよ、という良識を示してくれる時代です。それ=他者からの理解や尊重を当然の権利かのように、信じる側が「要求」してどうすんだと。

どちらかと言えば、過去において不寛容になりがちなのは頑なに信じる側かもしれません。今でもそういう人間を生み出す印刷物を出回らせる某宗教法人は、自前教材が一部の国で制限対象になると「あるまじき不寛容」と逆ギレする。

本来は信じる側が信じない人を無条件に受容して尊重するよう努めるはずなんじゃないかと・・
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